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181 花見の嫌いな人に会ったことがない

大好きというほどではない

 これまで生きてきて、「花見は嫌いです」と主張する人に会ったことがないので、いま、自分がほぼそれになりつつあることに自分で驚いている。私は花見が嫌いになりかけている。まだ、「嫌いです」と言える自信はないけれど、今年も花見へ行くことなく夏になったとしても平気である。
 かつて会社員だった頃、場所取りをしたこともある。とくに嫌いではなかったのだが、仕事のことが気になって落ち着かなかった。あの頃は、スマホもないしWi-Fiもない時代だから、場所取りをしながらリモートで仕事をするなんてことはできなかった。あとから来た同僚の「問題ないですよ」の報告でホッとしたりしていた。やりっぱなしにできない仕事があって、あとを任せてしまうので、ドキドキだったのだ。もちろん、急に仕事が入って参加できなくなる者もいた。天候が怪しくなって途中で引き上げたこともある。
 隅田川の夜桜を屋形船で眺める、といった風情ある花見もしたことがあった。あれは幹事というほどでもなく、船宿にすべてお任せするので大したことはしなくてもいいのだが、屋形船の出る場所があまりにも土地勘のないところで、出発までに参加者が集まれるのか不安だった。
 東京に住むようになって、桜の名所へ歩いて行ける距離となってから、もちろん何度も花見に行った。屋台があって酒と焼き鳥を手に、川沿いをぶらついたこともある。
 だからといって、「開花情報」とか「桜前線」とかにそわそわするほどの花見好きではない。

ハラハラとドキドキと

 おそらく世の中の大半の人が、花見を「大好き」というほどでもなく、「まあ、好き」とか「普通に好き」とか「きらいじゃない」といった範疇に収まるはずで、「花見が嫌い」は恐らく少数派、いまの内閣支持率よりも少ないに違いない。
 なかなか嫌いにはなれないものである。だからこそ、毎年、あれだけの人たちが全国で花見をするのだろう。
 花見で大変なのは、会場にもよるが、トイレである。花見に限った話ではないけれど、とにかくトイレ問題は深刻だ。私が花見の嫌いな点をあげるとすれば、まずそこだろう。自由にトイレに行けないって、不便すぎる。間に合わなかったらどうしよう、というドキドキがよくない。
 また酔っ払いが嫌いな人もいる。花見=酔っ払い。これはマイナスイメージである。私は酔っ払ってしまう方だから文句は言えない。ただ、酔っ払いにとっても、花見は必ずしも天国とは言えない。夜になれば春とはいえ寒い。下手に飲んだくれて行き倒れのように寝てしまったら凍死しかねない。安心して酔える環境ではないのだ。
 さらに昨今は、ハラスメントもある。花見の席はどうも昭和っぽい雰囲気が横溢しがちで、最初から最後まで、なんらかのハラスメントが勃発している可能性が高い。つまり、花見には最初から、ハラハラドキドキの要素が含まれているので、人気なのかもしれない。
 花を眺めて写真を撮るぐらいなら、ぶらっと出掛けてすぐできるけれど、「花見をした」と言えるぐらいの花見は、もはや面倒臭くて進んでやりたいとは思わない。嫌いになれないけれど、好きじゃない、ぐらいのところまで来ている気がする。
 もしかすると花見に限らず、世の中の多くの事柄が、実は「嫌いになれない」ぐらいのところで成立しているのではないか。コロナ禍を経験して、ずいぶんと失われた期間があったものの、いまはそういう規制はないけれど、「別にやらなくてもね」となっていることもありそうだ。復活しないまま消えて行くものたちがあるとすれば、そもそも支持率はそれほど高くないまま「嫌いになれない」だけで続いていたことなのかもしれない。

青いネコ

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