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「再発見! フドイナザーロフ ゆかいで切ない夢の旅」——フドイナザーロフ作品の魅力について

以前noteに投稿したレヴューは、アカデミック・ライティングを下敷きにして書いたがために知人から冗長すぎるという批判があった。そこでライターとしての勉強をするなり、巧い人の文体を身につけるなり一念発起すればよかったのかも知れないが、そこで心が挫けてしまった。
今回、筆者(以降は「わたし」で統一する)の置かれた環境により試写の感想(Twitter投稿)の機会を逃してしまったことから、鑑賞後の印象とその後の思いを織り込みながらnoteの記事として投稿させていただくことにした。
あくまで、みなさんを劇場へご案内するための文章なので抽象的な箇所も多いと思われるが、何卒、ご容赦願いたい。

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冒頭から横道にそれてしまうが、わたしはロードムービーが好きだ。教養小説に似た旅を通じて得る心情の変化、自立、成長……。必ずしも、すべての作品がハッピーエンドにはなるわけではない。まるで、死神がもたげた鎌を振り下ろすように悲劇や破滅に導く作品だってある。が、旅を通して体験した結果をどのような行動につなげて行くべきか、人生の課題に直面したときにわたしの人生に示唆をもたらしてくれたのは、いつもロードムービーだった。

今回、渋谷・ユーロスペースほかで回顧上映されるタジキスタン出身のバフティヤル・フドイナザーロフ(1965-2015)の作品には、どの作品にも「乗り物」が印象的なかたちで登場する。
(かくいうわたしも、フドイナザーロフ作品にはじめて触れたのはNHKBSの「ミッドナイト・シネマ」枠でかかっていた、少女がおなかに宿した子の未だ見ぬ父親を探すために、オンボロのピックアップ車や生活感あふれる人々が乗った列車が登場する『ルナ・パパ』であった。)

ただ、自動車やバイクで移動する物語と異なり、フドイナザーロフ作品では乗り物にロードムービー特有の「パートナー」としての役割が必ずしも与えているわけではない。
では、なぜわたしが乗り物が印象的な舞台装置のように感じられたのか、それは彼らにとっての乗り物を使っての移動が、普遍的な移動とは異なる一度乗ってしまったらもう2度と元には戻れないような、どこか勇気を持って乗るものであるような描き方をしているからかもしれない。

ここではわたしが試写会で鑑賞した2作品について紹介したいと思う。

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最初の作品は、フドイナザーロフの初の長編作品である『少年、機関車に乗る(原題:Братан, 1991)』というレイルウェイムービーだ。主人公は、軽薄で向こう見ずなところがあるが田舎での逼塞した生活から抜け出したいと試みようとする兄・ファルーフと、素直で心根が優しいもの要領の悪く土塊を食べるという奇癖がある弟・アザマット(作品の中では愛称の「ポンチク」と呼ばれている)のコンビが、離れて暮らす父を訪ねる作品だ。

とはいえ、ただ旅をするわけではない。ファルーフの顔馴染みの機関士・ナビのコネ(⁉︎)で貨物列車に便乗させてもらうところから始まるのだから。

この作品では便乗仲間の旅行者との丁々発止のやり取りや、素性のわからない同乗者たちのどこかミステリアスな雰囲気に心を奪われるだろう。それに加えて、停車駅となる砂漠の操車場やオアシスにある街の雰囲気、列車に悪戯を試みる少年たち、機関士と主人公たちとの交流から紡がれる心情面の描写、ファルーフが大事にしている宝物、父との邂逅とその後のふたりなど、兄弟が経験するドラマに終始釘付けになる。

登場人物たちには、多くは語られないながらも彼らの人生がありそれぞれのドラマがある。人生の接点が列車だった。ただそれだけかも知れないが、それぞれの乗客が降り立ったその場所から、新たなドラマが展開されていくような示唆的な描き方がなされている。

この兄弟にとってのほんとうの終着駅はどこなのだろう? と思いを馳せながら、わたしにとっての93分の鉄道旅行はあっという間に幕を下ろしたのだった。

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もうひとつの作品はフドイナザーロフの遺作である『海を待ちながら(原題:В ожидании моря, 2012)』である。
海とは言うものの海域に面していない中央アジアのどこに?  となるかも知れないが、これはかつて地球で4番目の水域(†1)を誇っていたアラル海のこと。

旧ソ連の自然改造計画に端を発し、20世紀最悪の環境破壊(†2)などと言われることもあるアラル海の水域減少問題。みなさんも地理の授業やニュースを通して触れたことがあるのではないだろうか。

本作の主人公のマラートはアラル海のほとりの港町の漁船の船長だ。嵐が近づくと大量の魚がかかるため、難破のリスクを承知で妻のダリや乗組員とともに出航するが……。
10年後、マラートは町に戻るがダリはもうこの世にいない。嵐によって船は大破し彼だけが生還したからだ。
そして、豊饒のアラル海もその町から消失していた。娘との離別を未だ引きずるダリの父から、かつての自分の船を譲り受け、かの海の底に眠る妻と仲間たちの亡骸を探すために、碇の巻き取り機を使って器用に砂の上を滑らせながら、かつてあった海を探し求める船旅を始めるのだった。

姉であるダリを恋敵として見つめながら、マラートと恋愛が成就する日をずっと夢見てきた列車乗務員の妹・タマラ、水夫だったものの、湖水の消失とともに失職し町にある飛行場で不本意ながら働いているマラートの友人・バルタザール、町の人々から信頼される長老的存在のダリとタマラの父、薬草や呪術に長けたミステリアスな人物マルドゥン、悪友たちと戯れながらも自分に夢を持つバルタザールの息子・ヤサンなど、多くの人物がマラートの海へ向かおうとする果てなき夢を見つめている。

マラートは亡き妻に会えるのか、海にたどり着けるのか……。抒情詩のような風景に圧倒される103分であった。

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かつて、あるロードムービーの映画評にこのような表現があった『人生とは孤独な旅だ……』と。その評にえらく心酔したわたしは、ロードムービーとは、それぞれの登場人物のオーラルヒストリーであるという考えを持っている。
自分が経験できない他者の人生をスクリーンで追体験できることに映画ならではの歓びがある。できることなら、早逝してしまったフドイナザーロフの紡ぐ物語をもっと観てみたかったが、彼の作品に親しみ、作品中の人物に思いを馳せることが何よりも彼への供養になるのではないだろうか。

今回の特集上映では、以上の2作品のほか、フドイナザーロフの代表作で、日本でも知名度が高いチュルパン・ハマートヴァとモーリッツ・ブライプトロイが出演する『ルナ・パパ(原題:Лунный папа, 1999)』。日本初公開で90年代の内戦期に製作された数少ないタジキスタン作品である『コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って(原題:Кош-ба-кош, 1993)』も上映されるので、ぜひ鑑賞していただきたい。

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さいごに、当記事執筆にあたり、試写に招待してくださったトレノバさま、ユーロ・スペースさまに心より御礼申し上げます。

〈了〉




「再発見! フドイナザーロフ ゆかいで切ない夢の旅」

https://khudojnazarov.com

トレノバ

http://www.trenova.jp

ユーロスペース

http://www.eurospace.co.jp

※なお、わたしが勤めるMitteでも本上映に合わせて、タイアップ企画を開催しています。
ぜひご来店のうえみなさまのレヴューをお聞かせいただければうれしく思います。
詳細:https://wonder-mall.com

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◯参照 (閲覧 2023.06.03. 2:00 JST)

(†1):地球異変 アラル海—20世紀最大の環境破壊,朝日新聞
https://www.asahi.com/sp/eco/chikyuihen/aralsea/

(†2):同上

◯その他参考

ウズベキスタン:アラル海の砂漠化——環境破壊に苦しめられる住民,国境なき医師団(2003.07.15)
https://www.msf.or.jp/news/press/detail/pressrelease_1320.html

「20世紀最大の環境破壊」と、呼ばれたアラル海、その死と再生の物語,Wired.jp(2017.04.26)
https://wired.jp/2017/04/26/aral-dreams/