思い出スイッチと焦燥感その1
毎年, この時期になると観たくなる. 「ピンポン. 」観ながら考える, とある季節を思い出すスイッチ. 風, 光, 香り, 音…
五感を通して時空間を超える, 思い出すたびににその記憶というか空想にダイブしたくなる感覚ってなんなんだろうと, ふと.
いや, ほんとにそれを望んでいるんだろうか?
戻りたいと思っても戻れないその時空, 季節という名の時空間を彩るもの. 自分にとっての季節特有の物事. 例えば, 曲だったり食べ物だったり.
しかし実際のところはその瞬間になってみても過ぎ去っていくだけで実感はなく, 通り過ぎがちだ. それってなんでなんだろうと.
「夏っぽいことをした.」とか「夏を味わったな.」とか. 以前“人は刹那の生命を味わうことで今を生きている実感を感じる, 今を生きていると思い出しているのかもしれない.” と書いた.
僕はてっきり, 確認したいという内面の意識が思い出させるのかと思っていたけれど「過ぎ去ってしまって実感をすり抜けてしまうよな.」って考えるとそうでもないのかもしれないなと.
つまるところ, 生への実感の枯渇が為に“思い出す”という想起の接続があるのではないかも知れず寧ろ, 儀式のように季節っぽいことをして掴みとろうとしてもすり抜けて行くよう焦燥感があるんだよなぁという話.
ンー, ゲンゴカムズカシイ.
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