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結局のところ, “差別”とやらはなんだったんだろう. 加害と被害の二項対立で考えていると空転していき, それは単なる言葉に過ぎないという気もしていて. 

根付いている憎悪のようなもの. あるいは危機感から出てくる自己防衛反応. 深さに潜り, 広さに目を向けると個人の欲求の広大な海が見渡せる. 

「意識せざるを得ないほど, 差別をしたくなるほど君は格別なんだ.」という切り口は結構好きだ. けれど大抵, “差別”とやらは隠れているもので無意識に出てきた状態に対して発する言葉であるとも言えないだろうか?攻撃的な意図を持っていないパターンも多々あるから世間のポリコレ警察のコスプレが大好きなみなさんは叩きたくなるし探しに出ているのでは?

以前にも書いたけれど, 差別した加害者を差別する風習を撲滅しないと永遠に変わらないだろうしつまるところ無菌状態な差別のない世界はあり得ないと思っている. 差別が存在しない時代ってありました?

差別と区別. 

批判と蔑み. 

健やかで知識を蓄えた大人になるにつれ, そんな分別を自分で考えられるのが健全育成ゲームだと思うのだけれど. 

僕は穏やかな反骨心で生きている. 穏やか反骨心を抱いて生きていく人々を同志と呼び応援している.  つまらない何かに囚われている社会といい個人といい, くだらないものさしで図ろうとする愚か者に捕囚されない. それはキーだと思う. 

我々エクレシア, クリスチャンは元々差別用語だった. 世ではなく霊的勢力と常に Cosmic War な状態にあってデュアルな放浪をしてる身でありそんな捕囚と道連れとの戦いは日常茶飯なのだ. 

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