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鑑賞体験と、脳内宇宙と。

ある作品の鑑賞体験は、言葉によって左右されるものだけではいけないと思っている。つまり思考するために脳内の語彙を探り当てて理解しようとする時、頭の宇宙に浮遊しているイメージを回転させて“命名”し“解析”するという想像体験というものは結局のところ、言葉の城壁で作られた自分に元々あったものにしかならない。ダイブするという意味ではとても素晴らしい機会だと思うけれど。

鑑賞においていつもお世話になるのは、芸術家の先生に言われた、

「作品に前に立って心の中でノックしてみるといいよ。何か反応があれば、その作品にエネルギーがあったってこと。なければそれまで。」

だ。

もちろん鑑賞する時の状態にもよるとは思うけれども。純粋な鑑賞体験が存在するか否かって話は「認知」の話であって、イメージ想起:構築になってしまいがち。つまり、ビジネス界隈で言われがちな解像度の話である。それについては、3年前に書いてある。

審美眼というセンスも必要だとは思う。鍛えられる範囲においては。でも例えば僕みたいな共感覚プレイで生きている人間にとってはこれを誰かにプログラム学習させようなんて無理筋である。

解釈という名の、世界を受け止める反応とは。

見えているものが、あるいは知覚しうるものが見えていないもの、五感では知覚できないものを宿していてそれを感じ取る、アーティストは独自の表現方法で、メディウムで産み出す

この魔法は、見えないものでできていることを理解する向きから始まる。

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