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「多様」を作るより自分を多様な社会に受け入れてもらう感覚なんだ。

街を歩いたりコンテンツを消費したりしながら人類を観察していると(みんな大好きホモサピエンス観察ー!)ある一定の傾向に偏り過ぎて飽きてしまう。

謂わゆる美しい系な人を眺めると飽きるし、おじさん見ていても飽きるし。それは子供も一緒。

これってなんだろうと考えていると、凡庸と鈍化の問題だなと思ったのです。僕にとって尊い世界は、色んな人が生きていて共存している世界。

例えば。Twitter でみた

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この画像でいう下の方が断然好き。

同じスタイルで並ばれると居心地が悪い。僕はそう思う。

とあるNPOに携わらせて頂いたとき時たま虫唾が走っていたのは多様性な社会を目指す、多様性を受け入れるという感覚が僕にとって逆だったからだった。デジモンやっていた時も、スマブラやっていた時も、あるいはアヴェンジャーズを見ていた時も彼ら彼女らは個々にオリジナリティがあって多様も目指すよりも個々が受け入れてもらう感覚だったように僕は受け取りながら生きてきた。

みんな違ってみんな美しい。そうだ、どうでもいいんだ。僕自身が多様なわけで社会に受け入れてもらう。知ってもらうんだ。

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そんな世界観で今日も生きていく。


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