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イデオロギーとユートピア。

環境が人を作っていくのか、人が環境を作り上げるのか?なんて二元論の沼に足を踏み入れてから、思い込んだ自分がそこから抜け出す術が「第三者介入」かあるいは「思い改めて」なのかを小さきもの達を眺めながら現場で思い出していた。そう、確か2周前の僕はこれをとどのつまり「その両方であって、どっちでもないのだ。」と言っていたと思うのだけれど(そのnoteの記事どこやったかわからない。)今日思い返して、違う着地になったことを書いておこうと思う。

それは、2周前と同じではないことを証明し脳は劣化しても惰性と妥協に堕ちてはいないことだと思いたい。

環境設定者のイデオロギーが、その地に生きる何者かをコントロールし感化するのは間違いなくて、でもやっぱり人の気質だったり個性だったりして遺伝子か環境かみたいな議論に行きがちだった。

でもそもそも、環境ですら幻想で主観が昨日の自分の続きであるという高度に発達した欺瞞である可能性を否定しきれない以上、局所的実在の話にも通するけれど揺らぎの中にいるというスタートから始める必要があるんじゃないの?という話。

自由意志って結局のところあるの?とか愚問が飛んできそうだから辟易するのだけれど。もっと根幹に根付いていそうな”想い“の条件反射が、自分の中に形作られているんじゃない?と。

たぶんこの「想い」をスピリチュアル系と言いたい大喜利大衆の方々には「おめでとうございます、お出口は戻るボタンです。」

社会に根付く特定の社会的な集団が持つ信念や観念体が集団の特定の利害や権力構造に基づいて形成され、他の集団との対立や支配関係に影響を与えられるものとしてみる時、個々人が抱いている”想い“すらもまた切り離せない。

これを早々指摘していたマンハイムはやっぱり天才だ。

ますます振り分けの時代。身を置く所がどこなのか、よくよく注意せよ。

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