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昔の話(1)高校生で閉鎖病棟に入院

物心ついたときから、両親は喧嘩が絶えなかった。うちは自営業で母が一人娘だったので婿養子の父を貰ったのだが、いわゆる社長業(ロータリーとか寄合とか)に熱心な父と、毎日の会社の切り盛りに忙しかった母とですれ違っていたのだろう。私たち姉妹は同居していた祖母に育てられていて、晩ごはんも祖母と3人で食べ、母は仕事が終わってから21時頃に帰宅していた。中学3年頃から両親の夫婦喧嘩は激化し、確か高校1年の時離婚裁判に発展したと思う。その頃祖母も認知症と肺がん?になっていて、在宅介護していた。今思うと母の苦労がすごい。母は気合いで乗り切るひとなので、その時もしんどくても気合いで乗りきっていたのだろう…中学までの私は勉強ができる優等生だったが、高校に入って彼氏ができ成績が下がり始めていた。当時の私は学校でいじめられ、彼氏と別れ、祖母がしばらくして亡くなり、父も家を出ていくというストレスが重なり登校拒否になりながらも母に叱られ、渋々登校して保健室に逃げ込んでいた。

高校2年の冬休み、元気のない私を見かねた妹が、お年玉貰ったら何買いに行く?なんかほしいものは?と聞いてくれたのだが、うーん…消しゴム…?と答えたのを憶えている。何年か後にカウンセラーに話したら、象徴的ですね、と言われた。こたつでうだうだ宿題をしていた私が母の燗にさわったのだろう、そんなに気に食わへんのならあんたもお父さんとこ行けば?と言われそのままこたつでふて寝した夜、てんかん発作を起こして舌を噛み救急車で運ばれた。幸い意識は戻ったのだが幻聴が聞こえるので、ずっとお経を唱えたり病院のご飯には毒が入っているから食べない、と言ったりしたらしい。国道沿いの病室からはバイクがずっとぐるぐる周回している音(幻聴)が聞こえ、止めて欲しければそこから飛び降りろ、と声が聞こえて私はベランダに足をかけた。一瞬振り向いた時に看護師さんと目があって慌てて止められて事なきを得たが幻聴は相変わらずだったので、母は精神病院への転院を勧められた。

車椅子に乗って転院したそうだが、私は全く記憶がなく目が覚めると精神病院の閉鎖病棟のベッドの上だった。窓は3センチほどしか開かず、鉄格子が嵌まっていてなんで?ときいたら主治医に飛び降りるやろ?と笑顔で言われたのを憶えている。一番初めはナースステーションの中にある観察室というガラス張りの3人部屋。トイレも部屋の中にあるポータブルで、私と寝たきりのお婆さん、すぐに服を脱ぎ、あんたは蛇や!と言ってくる冬美ちゃん。そこにいる間は幻聴が聞こえたりタオルで首を締めて死のうとしたりしていた。家から持ってきて貰ったウォークマンでチャゲアスを聞いたら、何故か物真似に聞こえて(幻聴)カセットテープを全部引き出したり、お見舞いに貰ったクマのぬいぐるみにZ のタグがついているのを見て、もう死ねってことか…と泣き出したり看護婦さんが慌てて入ってきて色んな話を聞いてくれた。ロールシャッハーテストを受けたり、脳波を測定されたりしたけど、一番大きかったのは母への屈折した思いを看護師さんたちが親身になって聞いてくれたことだと思う。母は毎週会社の定休日にお見舞いに来て、元気か?と言ってすぐ帰っていった。持って帰った洗濯ものは病院の消毒液の臭いが染み付いてたと言っていたなぁ。私は少しずつ元気になり、1~2ヶ月後には閉鎖病棟の一般病室に移ることができた。

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