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全オタクに届け(オタクの終活の必要性について)

私もオタクの端くれですので、この「好きなものを蒐集し、好きなものに囲まれて生活する」ことの無上の喜びを知っているわけです。
自分の死後に誰かが困るなんて知ったこっちゃない、自分の「好き」は自分を生かしてくれる。そう訴えるオタクの言い分はすごくよく分かるし「それこそがオタク人生」「我がオタク人生に一片の悔いなし」…なのだけど。

ただ、それを言えるのは「若い内」だけなんだということも、最近私も身に染みて知っています…。

10年くらい前だったでしょうか。
「積読は多ければ多いほどいい、それを眺めて過ごす時間さえも幸せなんだ」という読書家の人のツイートを見たことがあって、整理収納アドバイザーとしては頷けないながらも、私の内なるオタク魂は共感しました。
「そう、そうなんだよね」
「いつかゆっくり時間を取れたらじっくり読みたいんだよ」
「その時間を想像するだけで心がウキウキしちゃう」

しかし、40代半ばの私にその「いつか」の時間はついぞ訪れなかったのです。
子育てが若干楽になり、仕事も軌道に乗り、順風満帆だというのに、です。

いやもう、ほんっとーに、最近漫画を読むのがきついんですよ!
老眼のせいで、目が、見えんのですから!!!!!

そんなとき、ふいに自由な時間が手に入ったとしても、考えることと言えば、
「漫画を読みたい」
ではなく、
「あぁ、身体の節々が痛くてじっと座っているのも苦痛…」
「趣味を楽しむには体力がいるんだな…少しは運動してみるか…」
「健診結果が芳しくないので病院を受診しよう…」
と、体のことばかり考えちゃうんですよね〜(苦笑)

老いて自由な時間ができることを楽しみにしていたのに、
「幸せに生きていくには金と体力が要るし、暮らしやすい家が必要だ」と、20代くらいまでは考えもしなかった思考が頭をよぎる、どころか思考の8割を占めるようになるのです…!

そうしたとき、魔が差したようにふと、
「これだけコレクションがあっても全部は読み切れないかもしれない」と思い、
「そうだ、今のうちにこれらのコレクションを売ろう」と思い立つ瞬間が訪れるのです。

どう考えても「読む」「遊ぶ」ことができない分量のコレクション。
ましてやその分量のせいで家が圧迫され、地震がきたら本棚に押し倒されて死ぬかもしれないというヤバい状況に(今さら、ようやく)目がいくのです。
若い頃には絶対に考えないんですよ、これ。

こうして、40代50代になった時、今まで考えもしなかった「コレクションを手放す決意」をした――とします。

ところが、これが売れねぇんだな!!!!

オタクの形態が変わってきていて、デジタルネイティブはDVDや紙媒体などを「所有しない」し、買い手がいなければ需要と供給のバランスは崩れ、中古市場では物の価値が下落する。「自分が愛してやまなかった、泣く泣く手放すことを決意したこれらのモノが、こんな価格にしかならないなんて」と打ちひしがれるのですよ。

※くどいようだけど、まだこの時点ではマシ。
さらに10年20年と経過したら「ただのゴミ」として捨てなきゃならなくなるわけで、しかもその時の自分の体力を考えると、やっぱり行動は早いに越したことはないです。

世間は「終活」という言葉で溢れていますが、これもきっとお若い世代には耳馴染みがない言葉でしょうね。
けど、50代近くともなれば完全にこのステージに上がってきます。嫌でもこのワードが目に付くようになるし、嫌でも終活に向けて行動するようになります。
なぜって、世間がそう言う風に働きかけてくるから。

流行りに迎合するのは良くないと思わなくもないですが、どうしてそんな風に世間が働きかけてくるかと言うと、やはり多少は「必要だから」ではないでしょうか。

それでもきっと私たちはオタク街道を突き進んでいくに違いないのです。
しかし、好きなものを好きだと言えるのは、体力も気力も財力もいる…(しみじみ)

そうならない内に、身辺の整理を、すこしずつ、やっていけたらいいなと思います。


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