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どんな風に生まれても幸せに生きられる~口まがりと呼ばれた私、そしてそれを引き継いで産まれた娘の話~


最近よく考えます。


『私の人生の意味ってなんだろう?』

今日は私が生まれたときまでさかのぼろうと思います。長くなりますので最後までお付き合いください。

⬛出生の時

私が生まれたのは1981年5月4日22時48分。

めちゃくちゃ美人な母とそこそこイケメンの父の元に産まれた私は誰もが顔をしかめるような奇形児でした。

口唇口蓋裂。

鼻の下から口がすべて切れており、口腔内も産まれたときから裂けている。

母はびっくりしてとてもショックだったそうです。父もショックを隠せなかったんじゃないでしょうか。産まれてすぐ未熟児、顔も普通じゃない、別室に連れてかれしばらく一緒にいられなかったそうです。

私には産まれたての写真が1枚もありません。誰もとりたくなかったし、見たくなかったし保存しときたくなかったんです。

8ヶ月まで、その顔のまま成長し、手術を受けました。裂けた口を縫う手術と、裂けてしまっている口腔内の手術が必要でした。

実家に帰って里帰り出産したのですが、祖母も祖父もショックを受けたそうです。

成長する度に調整が必要で、記憶にないですが、子供の頃におそらく5~6回の手術を受けました。

祖父の話に印象に残っている話があります。

私が入院していた部屋には顔に大きなやけどを受けた子供や、産まれた時からなんらかの障害を持っている子供が入院していたため、気が弱い祖父は、私の病室に行くのが怖かったと言ってました。

今まで一気にそんな子供たちのいる光景を見たことがなかったんだと思います。

なんで私たちの元にこの子が産まれたんだろう?

きっとそんな問いを何度も繰り返し、心を痛めたと思います。

そんな私に両親が付けた名前は、太陽のように明るく育つように『陽子』と言う名前でした。

⬛両親の変化

母は私が産まれて変わりました。

顔のことで、他の人からバカにされないようになんでもできる大人に育てなければいけない!

そんな強い思いに変わり、母は世間で言ういわゆる『教育ママ』になりました。

ピアノ、英会話、体操教室、プール、習字、習い事は思い付く限りすべてやらせました。

幼稚園は受験だ!と、勉強は幼稚園にはいる前からスパルタ受験勉強です。

親に言われるがままの私は母に言われた通りに何でもやりました。

小さな豆をお箸で右のお皿から左のお皿に何個うつせるか、そんな練習をさせられた記憶がまだ残っています。

ピアノは曲を練習する度に正の字を書き、10回終わるまで部屋から出てくるなと、襖を、ピシャッと閉められ、練習が足りてなければ終わるまで部屋から出ることを許されませんでした。

それでも小さい頃の私は、母に言われた通りにやりました。

プールも泳げなければバカにされると、中耳炎を繰り返し耳鼻科に通いながらもバタフライまでできるようになるまでプールをやめることはできませんでした。

父もプールは毎週末連れていき、泳ぎの練習を教えてくれました。

逆上がりも縄跳びも父は週末に公園で練習させました。

お陰で小さい頃の私は運動も勉強も大抵のことはなんでもできる子供でした。

小学校も受験をし、周りにはお金持ちや、社長の息子や娘がいるようないわゆる上流階級の人たちの子供と同じ私立の小学校に行くこととなりました。

⬛口曲がりと言われる

小学2、3年生のころだったでしょうか。

プールで私に声をださずになにかを伝えてくる子がいました。

はじめは何を言ってるかわかりませんでした。

その子の口をよく見たら


「く ち ま が り 」


とその子は言ってます。


私はとてもショックでその場を逃げました。


当時プールのコーチはめちゃくちゃ厳しかったのでプールのレッスンを逃げることはできませんでしたが、その帰り、私は泣いて帰りました。

母は困った顔をするだけで私が納得するような言葉を掛けてくれませんでした。

なんて言えばいいのかわからなかったのかもしれません。

公園でも同じようなことがありました。

気が弱かった私は自分の顔のことで、なにかを誰かに言われる度に泣いて帰りました。

「私はこれから毎日マスクをして過ごしたい」

と母に言ったこともあります。

なにかを訴えても母は困った顔をするだけでしたが父は違いました。

ある日私を呼び、紙に書いて説明してくれました。陽子は産まれるときに完全にくっつかなくて生まれてきたんだ、でも、それは手術で治したんだよ、何か意味があってそう産まれてきたのだから強く生きてほしい

私はとても納得しました。父の話に、自分がこのように産まれてきた理由に半分疑問を持ちながらも、父の言わんとしてることに納得したことだけ記憶にあります。

父は私がいたから母と離婚しなかったと言ったことがあります。

父と母は若い頃からけんかが絶えず、私がいなかったら離婚していたかもしれないと昔話したことがありました。

私と言う『変わって産まれてきた娘』を育てるために父も一生懸命だったんだと思います。

私は父の話を聞いた日から自分の運命を受け入れて過ごせてきた気がします。

でもまだまだ強いコンプレックスを捨てきれぬままの小学生でした。


⬛泣き虫から自信家へ


父は証券会社で、支店が各地にある企業にいたため、私は小学校2年生のころ宮崎に行く事になりました。

私は新しい小学校に入るのがとても嫌でした。

顔のことで友達にバカにされたくなかったのです。

私は母に聞きました。

「新しい小学校に入る前に先生に顔のことで友達に何か言われないように先に先生にみんなに言ってもらえるかな」

母はなぜか私の最大の悩みに対しては常に頼りない人だったので、

「さあ、それはわからない」

と言う反応でした。

私は自分の顔がコンプレックスだったのでどうしても誰にもなにも言われたくありませんでした。

新しい小学校の先生に、自分の思いを伝えました。

すると、先生は私の思いを組んでくれて、私にもクラスのみんなにも納得するような形で説明してくれました。

私は宮崎にいる2年間誰からもなにも言われず、誰よりも多くの友達を作り、お誕生日会には何人もの男女問わず友達が家に来てくれるような楽しい日々を送ることができました。

相変わらずあらゆる習い事はしており、勉強の塾にも行ってましたが、当時ライバルがいて、その子に勝ちたくて勉強するのが楽しかったことを覚えています。成績もトップの方でした。

私は宮崎でたくさんの友達ができたことにより自分に自信が付き、私と言う人間でも社会で認められるんだと自己肯定感が、爆上がりしました。

しかし単身赴任も期間は短く、私は小学校四年生の後半に東京に帰りました。

帰った先は、またもやお金持ちの息子や娘が集まる私立の小学校。

東京に戻ると同時に中学受験が始まり、スパルタ塾生活が始まりました。

大人は子供を受験させるべく塾に、子供はどんどん心がすさんで、私の小学校の同級生達は過去一番の悪ガキでした。美術室の机にキリで穴を空けたり、体操袋を投げつけてスピーカーを壊したり、とにかくみんなストレスがたまっていました。

そして私は反抗期へと突入。

東京に帰ってからの小学校生活は夜遅くまで勉強してた記憶しかなく、全く楽しいものとは言えませんでした。

今でも思い出して笑えるのは、私が宮崎から自分に自信をつけて帰ったので、東京の学校に行った初日、ある男の子にわざと足を引っ掻けられ、転ばされました。

私はその時はとても気が強く、足を引っ掻けて転ばされたことにものすごく腹が立ったので、その男の子を睨み付けて言いました。

「転校してきたからってなめんじゃねえぞ」

そんなことを言う女の子もどうかと思いますが、当時は宮崎で気が強くなって帰ってきたのでそんなことも普通に言えたのです。

※その男の子とは成人式で再会し、小学校の同級生達とキャンプに行ったり飲みに行ったりカラオケに行くなど、その後とても仲の良い友達になりましたのでご安心を。笑

小学校の5年生、6年生は塾での勉強と反抗期、家出したくなって置き手紙を置いて家出しそうなったこともあり、いい思いでは残っていません。成績も下がる一方で、一生懸命に受験をさせるべく塾に通わせてくれた親には申し訳ないほどに結果は残せませんでした。

⬛女子だけでただ楽しいだけの青春期

スパルタ塾生活での苦労もあまり報われず成績が全然上がらなかった私は、とあるクリスチャンのミッションスクールで中学と高校が一貫教育となっている私立の学校に入りました。

新しい環境に行くのは顔コンプレックスで、いつも嫌な気持ちでしたが、一年生の数ヵ月の間に人間関係で、大きなことがあったのは中学一年の初期、1回だけ。

一緒にご飯を食べていた女の子二人が教室移動の時に私が近くにいるのを知らず、「あの子とご飯食べるのは嫌だよね」と話していたのを聞きました。

私はめちゃくちゃムカついたので、無言でその日の昼、そのグループのところには行かず、一人で席に座ってご飯を食べました。そんな陰口をたたくやつと一緒にお昼を食べたくなかったのです。

すると、近くにいた二人組の女の子が一緒に食べようと、机を寄せてきてくれました。

後にも先にも嫌なことがあったのはその1回だけ。

あとの六年間は大好きな仲間と死ぬほど笑い、死ぬほど遊び、自分らしさを爆発させた中学高校生活。

仲間との人間関係でなにか悩んだこともあったかも知れませんがもう忘れてしまいました。

ピアノをやっており、音楽が得意だった私は自分で合唱団を作り、英語のゴスペルを歌い、リーダーをやりました。

修学旅行のテーマソングを作り、中学高校とみんなで私の作った歌を歌いました。

私を知らない人は誰一人いないといっても過言ではないほど私は自分の個性を爆発させた六年間。

特に仲のいい仲間ができ、中学、高校はその友達とずっと旅行やディズニー、お泊まり会、カラオケに、誕生日パーティー。

勉強に遊びに勤しんだ毎日でした。

女子だけの中学、女子だけの高校、思春期は女子とだけ過ごしてましたので、あまり自分の顔のコンプレックスは表面化されなかったです。

私の当時の仲間達は私と言う存在を認め、コンプレックスを全く感じさせない心からの付き合いをしてくれました。

とても感謝しています。

大学はその合唱団の活動が認められ、推薦で入ったので、勉強はなかなかついていけず、地方のガリ勉と都会の派手な人の二極化された人種のどちらにもついていけず、私の居場所もなく、入ったサークルは飲み会ばかりするサークルで、嫌気がさしていました。

アメリカに行くためにコールセンターでバイトをし、高校時代に2日だけホームステイした家庭に再び遊びに行ったり、教会で出会ったアメリカの宣教師の家に夏休みを使って遊びに行ったりしていました。

歯列矯正をせねばならなかったため、可愛い大学生とは言えず彼氏はできませんでしたが、アメリカに行きたいと言う目的があったのでそのためにバイトして働いて昼は大学の勉強をする普通の大学生活を送りました。

大学の時に彼氏が一人できました。教会でで出会った静かな男性でした。

その方は海外に研修に行かれ、遠距離恋愛となり、うまく行かずお別れしました。

⬛社会人となり結婚へ

コールセンターでのバイト経験が買われ、IT企業のサポート部門に入社しました。

なぜかこんな顔の私にも、人生初のモテ期がきたようです。

4~5人の男の人に好かれたのは後にも先にもこの期間だけなような気がしますが、私は最終的に会社で出会った11個も年上の大先輩と結婚しました。

相手の両親に自分の顔も含めてなんと思われるかとても不安で緊張しました。

最初に主人の両親に会ったときのレストランでのご飯が緊張で全然喉を通らなかったです。

でも私が26歳、主人は37歳。結婚するとは思っていなかった息子に11も若い私が嫁にきてくれたと、主人の両親はとても喜んでくれました。

⬛妊娠したけど問題続き

そんな顔コンプレックスの私も無事結婚ができ、妊娠しました。

予定日2ヶ月前から、子宮頸管が短い、切迫早産にならないようにと、1ヶ月病院に安静入院させられました。

出産予定日間際にお腹の子供にストレスがかかっているから大きい病院に行くようにと、あわてて転院させられました。

陣痛が来ているのに車椅子で移動し、大学病院で採血したり、採尿するのもお腹がおおきくて一苦労。

なんで和式でしたかわかりませんがなぜだか大きいお腹で和式便所で採尿し、大変な思いをしました。

お腹の子供は心臓が通常でない形でついてるかもしれないとか、産まれてすぐに手術するかもしれないので同意書にサインをさせられました。

主人はすごく不安だったと言ってましたが私はなぜか、お腹の子供は産まれてすぐには手術なんてしない、大丈夫だとなぜだか何の根拠もない自信を持っていました。

⬛出産で発覚したまさかの事態

いよいよ出産が始まり、お腹の子供は一刻も早くこの世に生まなければならないと言うことで朝から陣痛促進剤を打ちました。

午前中は余裕がありましたが、午後からいよいよ本格的に陣痛が始まり娘は陣痛促進剤を打ったその日の15時に産まれました。

しかし喜びの声があがるはずの空気が重いのです。

はい、産まれましたよと見せられた子供は口唇裂で出てきました。

私はとても驚きました。

主人は産まれたばかりの我が子を、手で抱いたとき小さい!と思ったそうです。顔を見てどう思ったのかわかりませんがなぜか動揺はしてなかったように見えましたが、私は自分が動揺していたのでよく見えていなかったと思います。

私は複雑な心境でしたが産まれた子供を喜ばないのは子供に失礼だと思ったし、何よりも我が子がこの世に産まれてきたことが何よりも嬉しかったのです。

父と母は喜んではくれていたと思いますがとてもものすごく複雑な顔をしているのがわかりました。

母にはなぜかごめんと涙が出てきたのですが母は、なんで謝るのか、泣かなくて良いと言いました。

父は無言で見たこともない複雑な顔をしていました。

主人に、私は、私のせいでごめんなさいと謝りました、主人は、なんのことだとばかりの反応。全く気にしてないように私に示してくれました。

もしかしたら心のなかではショックだったかもしれませんが私にはそれが本当に救われたので、そのことを今でも恩に思っており、そのことは本当に今でも深く感謝しています。

私は自分が同じ立場に産まれてきたのだから子供も十分に育てられると確信し、すぐにこの運命を受け入れました。次の日からは喜んで子供と向き合いました。

早く会いに行きたいのに我が子も自分の時同様の未熟児。

なかなか簡単には会えません。

黄疸があったので光線治療を受けたり、NICUで、最新の治療を受け、娘は産まれてから二週間後ぐらいに私と一緒に実家に帰ることができました。

それから8ヶ月。私は我が子を生まれたそのままの顔で育てみんなに堂々と見せて歩きました。

あるママは初めて見たのか、驚きを隠せない顔をする人もいましたが私は気になりませんでした。

娘も8ヶ月頃手術を受けました。

私の歯列矯正の先生に日本一腕のいい教授を紹介してもらうという娘の強運で、素晴らしい先生に手術をしてもらったので娘は医療の最新技術なのか、私の時よりかなり良い状態に手術をしてもらえました。

私は産まれたままの娘をとても愛していたので、痛い思いをさせたことに泣いたし

その顔にさよならをすることも悲しくて、すごく泣きました。

幸いなことにとても上手に手術をしていただきました。

私は娘になにを言われても返せる自信がありました。

なんでこのように産まれたのか聞かれても、私がそうだからだ、と言うだけ。

私はただただ自分のもとに産まれてくれたありのままの娘を喜び、しっかりと育てていこうと思いました。

娘がある日、こんなことを言いました。

娘「私は可愛くない」

私「え?なに言ってるの?じゃあお母さんは可愛くないね?」

娘「お母さんは可愛い」

母「じゃああなたは可愛いね、お母さんが産んだから」

娘「お母さんは可愛いけど私は可愛くない」

母「そんなのおかしいでしょ、お母さんが可愛いならあなたも可愛いはずだ」

こんな言い合いをしたことがあります。

娘はそれ以上なにも言うことはありませんでしたしその後顔に関して私に言及してきたことがないです。

今、娘は中学生ですが、変にコンプレックスを持たず、自己肯定感の高い子になってくれてるんじゃないかと思っています。

⬛魂の目的

すべての人はこの世で自分をもっとも成長できる状況を選んできています。

私の父と母は私を産んで育てることにより成長しなければならなかったし、私は私として産まれることにより自分の魂を成長させなければならなかった。

そして私も私の娘を産むことにより自分の魂を、成長させ、私の娘も私の娘の顔で産まれることにより魂を、成長させなければならなかったと思います。

自分がどんなに強く望んでも変えられないことがあるならそれはその人にとって自分を成長させるためのミッションだと思います。

どんなに助けたくても、どうにもならないことがある。

乗り越えられるのはその人自身だけ。

どうあがいても変えられないなら、その運命を受け入れ、自分は価値のある人間だと肯定感をもって前向きに幸せに生きる必要があると思います。

私は幸いなことに、自分の運命を早めに受け入れたことで、人生の大半を前向きに、明るく生きてこれたと自負しています。

世の中には私だけでなく、もっと大変な状況をもって産まれたり、または人生の途中で思いがけないことにより、通常ではない状態や状況で生きなければならない方もいます。

悲観してもいい、でもそれを乗り越えて前向きになれたときに、人はひと回りもふた回りも成長できるし、生きる目的を見いだし、新しい自分を見つけることができるんだと思います。

どうか1人でも多くの人が、自分の状況に嘆くことなく、自分の運命を受け入れ、魂の成長のために、どんな状況でも明るく楽しく幸せに生きてほしいと心から思います。

私の今の人生の目的は、1人でも多くのひとがこの話を読んで勇気をだしてほしいし、前向きにが明るく生きる、そんな後押しができたらいいなと思う今日この頃です。

⬛追記

「周りの人を幸せにする」

という思いはもちろん大切だけど自分がどう頑張ってもできないことや変えられないことがあって、

幸せだと思うことは本人にしかできない

と思うので、自分が幸せに感じられることが一番大事でその自分の気もちが周りを幸せにするってこと。

私の父や母がずっと絶望してたら、そう生まれた私も絶望的に生きてたかも。

私が娘のことで落胆し、絶望してたら、娘はこんなに自己肯定感を感じられなかったかも。

だから、自分が幸せと思う気持ちが、一番大事だってこと。

今日も読んでいただきありがとうございます。

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