闘う学者『丸山定巳』とはいかなる人物だったのか?

丸山定巳は平成26年12月27日に抗がん剤で死んだ。74歳。長年、水俣病の研究に取り組み『闘う社会学者』として一時期マスコミに名を馳せた。彼の人生の目的は名誉の獲得であったために、核心をついた研究をしてとばっちりを受けないよう細心の注意でのらりくらりとはぐらかし、結論を先延ばしにした。そうやって名誉だけを手にして汚名を免れていたのは世知辛い世の中を熟知したやり方だったのだろうか。

死ぬ前に誕生日を祝ってもらい、戸惑いながらも喜ぶ盗聴先生

先生の得意はなんと言っても調査能力だった。ハラスメント対象者にわからぬよう、至るところに隠しマイクを仕掛け、自分の研究室に設置していたオープンリールテープデッキで長時間録音していたのだ。そして、ハラスメント対象者が言っていないことを言ったかのようにテープ編集し、敵対しそうな者に聞かせて仲間に引き込んだ。
それに引っかかる者は決まって左翼。要するにお利口ばか、幼稚な精神の持ち主ばかりだった。その中の一人に後の大阪府立大学名誉教授の田間泰子もいた。彼女は『戦略的おべっか』を掲げ、他人に親切なふりをしていたが、ボス(丸山定巳)の意向を忖度し一緒になって気に食わない者の排斥に携わった。

性的嗜好はゲイ

同じ職場の田口宏昭とはゲイの関係にあった。丸山は女役で田口が男役だった。ある日、田口が嘆いた。
「あいつのケツの穴は小さくていけないね」
「でも、ボクのが小さくてちょうどよかったよ」

死因

丸山は1990年ごろ、こんなことを言っていた。自慢げに。
「今から20年後の未来には癌の治療法が確立している。僕らが癌になる頃には注射1本で治るから大丈夫」
この希望的観測は学生も真似をしていて誰が言い出したことなのか知らないが、丸山も得意げに学生に向かって言った。
時は流れてそれから25年、食道癌の治療にと打った抗癌剤で死んだのだった。おそらく、最新の治療法と信じたのだろう。思わぬところで宗教心を発揮したのだった。生前の丸山は宗教を毛嫌いしていた。何かを信じている者を「オーム真理狂」だの「麻原彰晃」だの言ってヘラヘラ嘲り笑ったものだ。
抗癌剤が癌の治療薬どころか医療界のドル箱だと知らなかったのだろう。
「広い世界を知りなさい」
と学生に説教してた丸山だったが、あまりにも世間が狭すぎた。あっけない最期だった。