見出し画像

『休む』勇気

今日は休むことにしました。
朝起きて「あっっ無理!!!」と思ってしまったのです。
昨年度「無理無理無理無理」と思いながら出勤を続けた結果、心がやられてしまいました。感情のコントロールが全くできなくなってしまったのです。全ての事象においてニヒル的な視点になり退廃的になっていました。口を開けば皮肉交じりなことしか言わないし、何もかもどうでも良いと思っていました。そのくせ大人数の児童を相手にしてニコニコしながら教育者っぽいことを言わなきゃいけなかったので心の中はぐちゃぐちゃで真っ黒でした。自分が自分でないような日々が続き、真っ暗闇をふらふらと歩き回るような毎日でした。

でも、休むことって人に迷惑をかけるし悪いことだと感じていました。だって授業もしてもらうことになりますし、別室登校が多い学校なので担任外は自分たちの仕事ができず別室登校の対応でいっぱいいっぱいです。そんな中で年次の教員の学級を持つとなると担任外の仕事は増えます。また、休むことによって保護者からどう思われるかわかりません。先生なのに休むの?とか何してんの?と思われかねませんし子どもだって授業で来る先生が入れ替わり立ち替わりしたら心が落ち着かないでしょう。

しかし。

私は仕事のために生きているわけではありません。生きるために仕事をしています。自分の人生を生きるために仕事をしていますし、極端な話をすれば自分の人生を豊かにするために仕事をしているだけなんだと思うんです。

確かに責任は重大な仕事です。しかし、むしろ死にかけで教壇に立つ教員を見て児童たちはどう思うでしょうか。この子たちが社会人になって思い出す姿が張ってでも死にかけでも教壇に立つ担任の姿ならば悲しくて仕方がありません。未来に希望を抱くはずの子どもが、10年前の子ども(私)が社会人になった姿を見て、日本って嫌な国だなぁと思ったらそれこそ学校として失格だと感じます。それに、精神的に良くない時に教壇に立つとイライラします。小さなことで児童に失望しそうになります。仕事は全くうまくいきません。

ならば。こんな無駄なことをしていないで休んだほうが自分のためにも仕事のためにもなる。その方がよほど合理的なのではないか、と考えられるのです。

でもでも。

「サボりって思われたら嫌だ」「迷惑かけていたら嫌だ」「何でこれくらいでメンタルをやられるんだ」「優しい言葉をかけられたとしても裏では何考えているかわからない」という、根性論と疑心が心の中に巣食っています。無理してでも仕事へ行かねばならないという価値観は、何故か美徳とされている風潮があり、私にもそれが染み付いています。だから、この一見美しいとも思い込んでしまってはいるものの全く以て合理的ではない価値観を壊さないことにはお仕事って休めません。

つまり、仕事を休むにはものすごく勇気がいるのです。
しかし、今日私は「休む」という選択をすることができました。
この休みを「逃げてしまった」とか「サボりだ」と思わず、意味付けを変えて明日への活力にしたいと思います。

【今日やること】
○洗濯
○掃除
○筋トレ、ストレッチ、有酸素運動
○体に良いものを食べる(野菜とタンパク質)
○心理学の勉強
○瞑想
○改めて生活リズムの調節

このあたりを自分とゆっくり向き合い、自分を癒やしながら行っていきます。最近、ちょっと帰るのが遅くなってしまっていたので、早く帰る方法と帰ってから次の日行くまでの時間、いかに確実に自浄するかについても深く考えたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?