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武道館でチェキッ娘を観た話

満堂フェス に行ってきた。落語家 三遊亭とむ改メ錦笑亭満堂さんの真打昇進イベントなのだが、これに チェキッ娘 が出演したのだ。

落語サイドのエピソードや出演に至った経緯は割愛するが、最初に告知を見た時はそりゃもう驚いた… 自分にとって青春ど真ん中にいた「チェキッ娘」が出演する。しかも武道館。ちゃんと記事を読むまではナタリーのアカウントが乗っ取られたのかと思った。

今回はそのイベント話を綴ろうと書き始めたら、1999年当時の思い出話で盛り上がってしまい長文になったことを先にお詫びしたい。武道館の話は 一番最後のチャプター をご覧ください。



K地区チェキッ娘連合だった俺たち

ざっくり3行でチェキッ娘を説明するとこういった感じだろうか。

  • フジテレビ発のアイドルグループ

  • 番組オーディションでメンバー決定

  • 結果的に1年間の活動で卒業

90年代アイドルと言えば、チャイドルと呼ばれた子役上がり・グラビアの集団・ダンスグループからの派生が主で、席巻していたのは「モーニング娘。」だった。ハロプロ界隈は語れるほど詳しくないためこの辺りで止めるが、田舎育ちの自分にとってアイドルそのものが遠い存在だったことと、自分はエヴァを拗らせた世代で二次元文化に熱中していたため、人気だったモー娘ですらあまり興味を持てなかった記憶がある。

そんななか夕方に放送していたフジテレビの番組で何気なく目にしたのが チェキッ娘 だった。この時点ではまだアイドルだと認識できずに「素人がわちゃわちゃする番組」だと思っていた。


同時期に音楽きっかけで仲良くなったY氏とJ氏がいた。彼らとは当時 Dir en grey が 残-ZAN- でMステに初登場した回の「Toshiya がタモさんの前を横切るシーン」を繰り返し見てゲラゲラ笑う謎の遊びしていて、そうしたなかY氏の部屋で1stシングル「抱きしめて」をたまたま見つけたことが転機になった。これからはじまる俺たちの物語は「ディルの残」がなければ展開しなかっただろう。

「抱きしめて」のジャケと特典ステッカー

特典のステッカーを眺めて、何気なく好みを指さす感覚で下川をファーストチョイスをしたのが良い意味で人生を狂わせた瞬間だった。ちなみにY氏はその時すでに町田恵を推していて、今回の武道館も一緒に参戦してくれた歴戦の悪友だ。

それからチェキッ娘が出演するDAIBAクシン!! を観るようになり、急激にハマり加藤真由推しとなる。金曜日は生放送のGOLD終了後にY氏の部屋で 集会 がはじまり、録画したビデオを繰り返し見てしこたま騒ぐ。土曜日は昼過ぎに集まり cheki b.を見てから一週間の反省会と称した集会で夜通し騒ぐのだ。

我々は熱心に振りコピをしたりファン同士の交流に参加することはなく、ひたすら番組録画を見て メンバーの言動をオマージュする いう妙な嗜み方をしていた。わかりやすく言うとモノマネの類いだ。具体的には、❶番組内での発言やセリフをコピーする → ❷会話の中でネタを仕掛ける → ❸それを別のネタで返す → ❹ツボに入ってゲラゲラ笑う。といった感じだろうか。それ故この一連の流れを「騒ぐ」という言葉で表現させてもらいたい。

こういったスタンスだったこともあり番組内ドラマ「夏までのダイアリー」はネタの宝庫に感じて、近所の学校や川沿いに出向いてはドラマのオマージュをするのが集会で流行ったこともあった。

ちなみにその集会をするコミュニティは 地区名×チェキッ娘×連合 を略してKCR(K地区チェキッ娘連合)と名乗っていた。母親からは「またチェキ連の集会に行くんか?」とか言われていた。我々が「集会」と言いたがる所もそうだが地元にヤンキー文化が根付いていたこともあり、どうしても表現が族っぽくなってしまうのは北関東育ちだから仕方ない…と思ってほしい。


KCR構成員(4名+準構成員2名)

  • 町田恵 推しY

  • 五十嵐恵 推しJ

  • 森知子 推しT

  • 加藤真由 推し俺

  • 集会に付き合わされたM

  • 集会に付き合わされたN

ちなみにY氏の部屋は自宅の離れにあったため騒いでも問題なかったようだが、近くを通りかかったN氏から「お前らうるさすぎ何か変なクスリやってるんかと思った」と言われるぐらいKCR集会は 狂乱の宴 と化していたようだ。そんな内輪ノリ全開のKCR集会が異様に楽しくて高校2年の夏休みに入る頃にはチェキッ娘に対する熱が最高潮に達したことをよく覚えている。

若さ故の有り余るパッションを独自の解釈で発散していたのは今思うと恥ずかしい点もあるが、それぐらいチェキッ娘に影響を受けていたし、地元に帰省すれば今でも集まるきっかけをくれたのは感謝極まりない。次のチャプターでは当時参加したイベントを思い出せる範囲で掘り下げようと思う。


番組観覧

チェキッ娘の番組 DAIBAッテキ!!~DAIBAクシン!!GOLD は生放送の番組観覧に参加することができた。ハガキを出して当選するとスタッフから電話がかかってきて次の放送に招待されるというシステムだった。高校で知り合った隣町のコミュニティでそれを知った我々は半信半疑で応募してみた所、数週間後J氏に電話連絡があり1999年6月の番組観覧に参加できることになった

地元から東京までは在来線を乗り継ぎ片道3時間かかった。今のように便利な乗り換え案内や地図アプリも無く不慣れだったはずだが「チェキッ娘に会える!」その一心で目的地のフジテレビに辿り着いたことは今でもよく覚えている。このエピソードは都内のチェキ男と感覚が異なるかもしれないが、どうか地方民のキモチであることを理解してもらえると助かる。

他の観覧者と待機場のような所で諸注意や説明を受けスタジオへ。そこにはテレビの中の世界が広がっていた。雰囲気に感動していると程なくしてメンバーが登場。事前に受けた諸注意を思い出して声は掛けられなかったが、目の前にはチェキッ娘がいて夢にまでみたスタジオで今から放送がはじまる… うまく表現できないが、後にも先にもそれを超える体験はないだろう。


番組観覧で覚えていること

  • aikoが曲提供した「あたしの靴あなたの靴」初披露

  • さざんかの宿でおなじみの大川栄策がタンスを担ぐ超展開

  • 町田が井手らっきょのコスプレ披露(Y氏涙目)

放送終了後フジテレビをあとにして気持ちが昂ったまま帰路に着き、その日の反省会は過去最高の集会となった。

なぜチェキッ娘を追ったのか。という話はチェキ男それぞれだと思うが、自分達の場合はチェキッ娘がコンセプトに掲げていた「身近さ」に共感できたことが一番だった気がする。当時はSNSもなければインターネットの普及もまだまだな時代。現代の身近さとは感覚が全く異なるが、番組でのわちゃわちゃ加減やユルい雰囲気が時代と17歳の自分達にフィットしたんだと思う。


Zepp東京での1stライブ

番組観覧から程なくして1stアルバム「CXCO」発売。そして高校2年の夏休みに突入し、チェキッ娘への熱が最高潮に達した頃に開催されたのが1stライブだった。会場は開業したてのZepp東京。お台場観覧車のお膝元でわかりやすい場所だったが、我々は会場の最寄り駅を悠々と通り過ごし、なぜか有明で下車して徒歩でZepp東京へと向かった。

有明から徒歩で向かう我々(1999年)

話を戻そう。それまで番組内での歌披露しか互いに経験がなかったため、ライブがどうなるのか全く予想がつかなかった。しかし1stアルバムを全曲披露したセトリに加え、ライブに飢えたチェキ男達による狂気乱舞も相まって大成功だったことを覚えている。当時はまだライブ用ペンライトはおろかサイリウムもなかったが、交通整理の誘導棒を振り回す時代の先駆者がいて我々はそれを「勇者」と呼んだ。


他に覚えていること

  • 会場に着いた頃には物販が枯れていた

  • 売れ残ったレディースサイズのTシャツを仕方なく着るチェキ男が続出

  • 隣町のコミュニティと共闘「栃木チェキッ娘連合-TCR-」爆誕

  • 隣町のS氏が「ピンクのチェリー」でダイブするもすぐに落とされて軽傷

会場入りから色々あったけど、ライブも上々でコミュニティが大きくなったこともあり我々は大満足で帰路についた。そして夏が終ってもこの先いつまでも楽しい時間が続くと思っていた8月下旬、チェキ男をどん底に突き落とす事件が起きた。


番組終了と卒業

  • 1999年9月24日 DAIBAクシン!!GOLD 終了

  • 1999年11月3日 旅立ちライブをもって全員卒業

番組内で発表されたそれは夏の終わりと共に一気に現実を突きつけられた瞬間でもあった。その頃の自分達は大人の事情での打ち切りなんて到底理解できるわけもなくただただ落胆した。しかし残された時間はあと2ヶ月。行けるところまで突き進むしか俺たちに選択肢は無かった。

旅立ちライブは昼夜2回公演があり、電話受付でのチケット争奪戦を経て昼はスタンド・夜はアリーナ席を確保することができた。とりあえずこれでラストを迎えられることに安堵しつつ、次はどうしようか…と考え、我々は再び番組観覧に行こうと決めた。

最終回まで数回放送があるからどれかには当選するだろう…とハガキを送ってみたものの 9月の番組観覧は全滅に終わった。単純に当選倍率が上がっていただけかもしれないが、実は6月に観覧した翌月も招待の電話を受けていて「その週はいけない」と軽い気持ちで断ってしまったことがあり、それが原因かもしれないことを悟り、最初のキモチを無為にした自分達を呪った… 「最初のキモチ 大事にしましょ」と僕らは教わったはずなのに。そして9月24日のGOLD最終回はそれぞれ自宅テレビの前で迎えた。

本当に辛いのは番組が終了してから旅立ちライブまでの1ヶ月間だった。それまで日曜日以外は毎日番組が放送されていたため、何かしら新しい情報が入るのが当たり前だったが、番組終了からそれがパッタリなくなってしまったのだ。そうなると過去の録画を見返すしかやることがないのだが、決まって最後は番組最終回になるため楽しかった集会も盛り上がりに欠けてしまう。新しい情報はない。その繰り返しがとてもきつかった。


旅立ちライブ

チェキッ娘 LIVE ver.2.0.1-f旅立ち2000〜泣いたモン勝ち〜 と称され、満を持して訪れた旅立ちライブ当日。我々は1stライブでの反省も踏まえて朝早く家を出て会場である 東京ベイNKホール へ向かった。到着後は物販を堪能。私は購入しなかったがこの日発売されたトレカに散財するチェキ男が続出し、会場付近の至る所でトレカ開封に沸くヲタクがたくさんいたのを覚えている。

物販後、ご満悦な我々(1999年)

昼公演はスタンド席からゆったり観ることができた。一度会場から出て夜公演に備える。これで最後か…と思いながら再び入場しアリーナ席へ。たまたま10列目ぐらいの席を引き当てたこともあり我々は幸運に恵まれたと感じた。程なくしてラストライブ開演。たしかアンコール以外は昼公演と同じセトリだったが「はじまり」だけ演出が違って、落ちサビで下川みくに登場。この展開は予想していたものの会場にいた全員が涙したと思う。あとは喉が潰れるぐらい騒いだことと、試合に負けた高校球児よりもグシャグシャに泣いた記憶がある。泣いたモン勝ちという意味では全員が優勝だった。加えてこれは内輪ネタだが、チェキ男でもないのにこれまでずっと俺たちの集会に付き合ってくれた寡黙なM氏が「最後だしな…」と同行してくれたことに自分は一番泣けた。これこそまさに「ありがとう」だ。


その後の活動

グループを卒業したとは言え、2001年ぐらいまではメンバー個人が出演するイベントや派生ユニットのライブがあり各々アクティブに活動していた。推しの加藤真由はラジオ出演のみだったと思うが、コミュニティのなかに森知子推しと五十嵐恵推しがいたため、その二人についていくかたちでMETAMOが出演する文化祭や渋谷DESEOで開催されたワンマンライブに行った記憶がある。埼玉の男子校での文化祭は、他に出演していた 芸人の号泣がゴリゴリの下ネタで笑いをとっていた のを覚えている。まだ島田秀平が占いをやる前の話だ。

「文化祭に行くなら制服だろう」と中学時代の学ランを着る我々(1999年)


その後は自身が大学に進学したことや、下川や熊切あとchee'sメンバーはメディアで見かけるものの他メンバーは徐々に活動が終息していったこともあり、チェキッ娘だったメンバーを追うことはなくなっていった。

ただ自分にはひとつ変化が訪れて、大学の軽音部で 新井推しのT先輩 との出会いがあった。そして当時の話をした時に先輩も我々KCRと近い活動をしていたことを知って驚いた。例えば「ランキング」だ。

当時はCDTVや雑誌オリコンなど「ランキング」が今よりもコンテンツとして賑わっていた。それをオマージュするかたちで番組放送後の集会で「メンバーランキング」を毎週開催して個別に申告する。そんなことをやっていたのだが、どうやらT先輩が所属する群馬のコミュニティにもそれがあったらしい。同じ北関東出身だからなのか…不思議な感覚だった。


GIRL POP FACTORY 04

T先輩が大学を卒業した年に私は大学4年生となり、わりと早く就職が決まったことと前期で卒業単位を取得できたこともあり、学生最後の夏休みを悠々自適に過ごしていた。この頃のエンタメは変わらずテレビ主体ではあったものの、インターネットも普及してきて徐々にWEBでも展開する時代だった。そうしたなかフジテレビでは夏に「お台場冒険王」が開催されるようになり、その年は「GIRL POP FACTORY 04」が開催され、オープニングアクトに チェキッ娘 が出演することを知る。

謎にホームページが残っていた

T先輩・KCRの数名でそのイベントに参加した。出演者が豪華だったこともあり、会場にはアクティブなヲタクが群がっていた思い出がある。この日はオープニングアクトのため「抱きしめて」「はじまり」の2曲とMCで早々にチェキッ娘の出番は終わったが、久しぶりにメンバーの姿を見ることができた我々は満足していた。

その後も引き続きライブを楽しむことができたが、お目当ての出演が終わったため会場を出てお台場冒険王で遊ぶことにした。そのなかで新型SUVの試乗会を見つけた我々は、特設会場内に作られたコースを運転できる催しに参加することにした。列に並んで係員から説明を受けT先輩と試乗。助手席で「良いクルマっすねー!」なんて言いながら試乗を楽しみ、コースの終盤にさしかかったときサプライズが起きた…


「コースの外にチェキッ娘がいる!!」

試乗コースのそばに出演者の楽屋が建てられたらしく、出演を終えたチェキッ娘がいたのだ。我々が手を振るとレスをくれた。思わぬ展開に興奮した我々は試乗を繰り返した。そのためこのイベントは会場でライブを観た記憶よりも、SUVの車窓からメンバーを観た記憶の方が脳裏に強く刻まれていたりする。


再会ライブ~TIF出演

  • 2009年「再会ライブ」

  • 2012年~2013年「blue chee's と出演したTIF」

私はどちらも不参加だったため割愛するが、このあたりから徐々に現代に近づいているため非公式ではあるが映像がアップされているのはありがたい。


満堂フェス in 日本武道館

やっと本題である。ここまでの約6000字を読んでくれた方には感謝を伝えたい。20年以上前のこととは言え、それぐらい入れ込んでいたのだ。

2009年の再会ライブから14年半ぶりの出演に加え、サンドイッチマンやナイツといった豪華な芸人も見れて(一番安い席で)5000円という価格だったこともあり、私はすぐに参戦を決めた。前述したKCRとT先輩に連絡したところ、この物語のはじまりにいたKCRのY氏が一緒に観てくれることになりチケットを2枚購入して武道館ライブの当日を迎えた。

士気を高める我々(2024年)

タイムテーブル公開がないイベントだったため、開演に間に合うよう15時前に入場。45分続いた長めのオープニングが終わり、主催の満堂さんが DAIBAッテキ!! の素人コーナーに登場した過去映像や簡単な紹介VTRなどを挟んで「抱きしめて」のイントロが武道館に鳴り響いた。そしていつものカウントと共にチェキッ娘が登場した。

本人のツイートから下川が出演することはわかっていたが、それ以外は事前情報がまったくなかったため、1曲目の前半はモニターを凝視して「誰がいるか?」を確認するのでいっぱいいっぱいだった。メンバーを把握した後半からやっと歌声が耳に入ってきてステージを直視することができた。推しの加藤真由はそこにいた。

MCを挟んで下川の曲紹介から2曲目の「はじまり」へ。イントロを聴いて込み上げる感情は1999年の頃と同じで、落ちサビで下川がソロパートを歌う姿を見た時は 17才の自分に戻れた。そんな気がした。

Y氏と共通解は「みんな良いオンナになったなー」だった。2004年に観たときは全体的に派手になった印象で現役の頃とのギャップを感じたが、時を経て今回はナチュラルで良い印象を受けることができた。スタイリスト大瀧のセンスがメンバーの今とマッチした素晴らしい衣装だった。

誰も聞いてもいないことを一つ言うと、25年ぶりに開催した俺のメンバーランキングでは 町田恵 が第2位に急上昇した。


地元へ帰省したときにY氏達と前述した当時の思い出話で盛り上がることはあっても、チェキッ娘をもう一度見れるとは思っていなかったため今回のイベントは本当に嬉しい出来事だった。正直に言うと主催の 錦笑亭満堂(末高斗夢)さんは今回はじめて知ったけど、ヤングタウンの漫才はすごく面白かったし、初見ながらイベントを通してみんなから愛されていることも感じた。おかげで20年ぶりに チェキッ娘 を観ることができたため、最大限の感謝を伝えたい。

ここまで読んでくれてありがとうございました。

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