見出し画像

東大生ラッパーと大雑把につかむ世界史【第8章】

 こんにちは!東大生ラッパーの法念です。前回は「第7章」で「14世紀の危機の時代」の話をしましたね。(目次はこちら
 今回は、15世紀の様子をみていきます。この講座では、この時代を、「アジアへのあこがれの時代」と呼ぶことにしますよ!ではいきましょう。

アジアへのあこがれの時代(全体像)

 15世紀は、いってみれば14世紀の危機から立ち直る世紀です。アジアの帝国が繁栄し、西ヨーロッパ世界も「大航海」(次回説明します!)にむけて準備をする時代となりました。このようなアジアの繁栄が、「大航海」の背景になったことだけを述べておきます(詳しくは次回!)。

2020年04月12日21時58分20秒_page-0001

アジアへのあこがれの時代(それぞれの世界)

 東アジア世界は、が繁栄していました。明はこの時代、東アジア世界を拡大させようと、大艦隊による遠征を繰り返していました。東アジア世界のシステムを覚えていますか? 貢物を持ってこさせ、支配を任せる、という形をとっていました。この貢物を持ってこさせる国々を増やそうとしたのです。東南アジア世界のほかにも、一部の艦隊は東アフリカまで到達したようでした。

 中央ユーラシア世界は、明の北方にモンゴルがありましたが、その力は弱っていました。彼らは「元」の後を継ぐ部族で、チンギス家を王族としていました。一方その西側には、チンギス家ではない別の遊牧部族が束ねた、オイラトというくにが力をつけて明を圧迫していました。

 東ヨーロッパ世界は、ビザンツ帝国がオスマン帝国の攻撃により滅亡してしまいました。一方モスクワがジョチ=ウルスから自立し、大国への歩みを進めます。同時に皇帝をなのり、ビザンツ帝国の後継者を自称しました。つまり、モスクワが正教の中心であるというわけです。
 モスクワは「第三のローマ」だと主張します。第一のローマはローマ、第二のローマはコンスタンティノープル(ビザンツ帝国の首都)なので、ビザンツ帝国の後を継いだモスクワは第三のローマということなのです。形の上ではローマ帝国の後継である、ということなのですね!

 西ヨーロッパ世界は、ハプスブルク家という王家が神聖ローマ帝国の皇帝を代々受け継いでいくことになった、ということをおさえておきましょう。また、イギリスとフランスの百年戦争も終わり、それぞれ自分たちの国のかたちを、よりしっかりと整え始めます。さらに、スペインとポルトガルという国がこの時代力を持つのですが、その話は次回のお楽しみです!

 イスラーム世界は、ティムールの建てたティムール帝国が繁栄していましたね。ティムールは、明への遠征も企てたのですが、遠征の途中で亡くなってしまいます。その後ティムール帝国は衰退していくのです。
 一方オスマン帝国は、ティムールに一度破られますが、すぐに立て直し、急速に勢力を拡大します。そしてビザンツ帝国を滅亡させました。マムルーク朝は存続しています。
 なお、この時期には、南アジア世界よりもさらに先の東南アジア世界にまでイスラームは拡大していますよ。

 南アジア世界は、あいかわらずデリー=スルタン朝が続いていました。一方海の道で繁栄した王国も多く、南方には14世紀より力をつけていたヴィジャヤナガル王国という国が繁栄していました。

 東南アジア世界も、とくに明の遠征によって交易が活発になっており、マラッカ王国という国が交易の中心地として繁栄しました。マラッカ王国は明に朝貢(貢物をもっていって、支配を任されること)したのです。またマラッカ王国はイスラームを受け入れ、マラッカ王国を通じて東南アジア世界の一部はイスラームを受け入れていきました。

 今回は以上になります。こまかい「世界」の話は高校生の方だけで大丈夫ですよ! 14世紀の危機から立ち直るように明やオスマン、マラッカ王国などが繁栄したこと、モスクワがビザンツにかわる存在として台頭したことをおさえておきましょう。
 では、最後に「アジアへのあこがれの時代」の復習ラップを聴いて復習しましょう!
https://youtu.be/H1zNC1UR7uI

 次回、第9章は、西ヨーロッパ世界がどのように14世紀の危機から立ち直ろうとしたのか、といったことについて見ていきますよ! お楽しみに!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?