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エホバの証人 ~JW2世の回想~

はじめに

エホバの証人の家に生まれ、その”組織”から離れるまでを語ります。事実とは異なるかもしれませんが、エホバの証人を知らない方に向けて読みやすさを優先し、記憶と主観をもとに書きます。


1984年に生まれる

既に両親はバプテスマを受けており、証人用語でいうところの”献身”したエホバの証人だった。

エホバの証人といっても、いわゆる平信者になるまでにステップがあり、聖書研究生 → 神権宣教学校 → 伝道者 → 献身(平信者)となる。発表されている信者数は伝道者の数であるが、感覚的には献身して一人前である。ちなみに献身すると兄弟・姉妹と呼び合うようになる。献身してからもステップがあり、補助開拓者 → 正規開拓者 → 特別開拓者 →・・・果ては海外まで広がっている。開拓者とは大きく括れば伝道者であり、伝道者は”奉仕”(伝道=布教・宣教)活動時間の報告義務がある。伝道者の階級の違いは奉仕時間のノルマの違いである。

そしてエホバの証人は”会衆”という10~100人(田舎と都会で差異がある)程度のグループに属することになる。学区のようなもので、地図上で線引きされた地域内に住む信者が集い、地域内にある”王国会館”という名の教会で”集会”(ミサ)をする。女性の会衆内での出世は正規開拓者が天井だが、男性の出世は 平信者 → 奉仕の僕 → 長老 → 主宰監督(会衆の頂点)と続く。この出世は独立したもので、長老が開拓者でなければいけないということはない。家庭のある男性は”世”の仕事で金を稼がねばならず、伝道している暇はないのだ。世とは組織の外のことで悪と同義である。ちなみにエホバの証人の教えは完全なる男尊女卑で、聖書にも「女は地味な格好で黙って家の隅にスッコんでろ!男に従え!」と書いてある。そして階級社会でもある。

私が生まれたとき父は献身したばかり、母は献身して4年の平信者。今思えば信仰がなんたるかも分かっていないぺーぺーである。信仰が無いのに献身したのか!と思われる方もいるかもしれないが、献身してから真の意味での信仰を培っていくのがクリスチャンの生きる道らしい。私は幼かった頃から両親のことを敬虔なクリスチャン、キリスト者だったと思っていたが、そうではなかった。しかし”敬虔なエホバの証人”ではあったようだ。そして今現在も両親共に現役の敬虔なエホバの証人である。


80年代のエホバの証人はバブリー

エホバの証人にとってのバブルとは何か。明日にでもハルマゲドンが来るのではないか、つまり世界が物理的に滅びるという期待感が満ちることである。いや、今現在も満ちているのだが、そんな終末感に加え、若さと喜びも満ちていた、と言えばよいだろうか。証人だけがハルマゲドンを生き残り、地球上の楽園で永遠の命を享受するという教えの前には、預言されている戦争も飢饉も災害も、そして自分自身への迫害も喜ばしいことなのである。就職進学する暇があるなら伝道をして神に対して徳を積みなさい、そんな風潮であった。実際、80年代の会衆内には若者が多く、日本のバブル経済と共に活気に満ちていた。現在はといえば高齢化が進み老人が大半を占め、まさに社会の縮図である。


教義への疑念

そんな中、私の幼少期といえば、歩けるようになったら伝道に付いて回り、気付けば10歳、神権宣教学校(王国会館の壇上から聖書朗読とそこから得られる教訓について話をする)に入り、12歳で伝道者となる。

幼少期の体験談として有名であろう愛のムチ、学区内での伝道、数多い禁止事項、これらを語るのは先人達に任せようと思う。

代わりに私は幼少期の信仰と教義への疑念について話したい。が、やはりムチについてはその理不尽さゆえに語ってしまうのをお許し願いたい。私の場合はオレンジ色のガスホースで尻を叩かれたのだが、理由はというと集会中に居眠りしたからである。大人でさえ居眠りするのは珍しくなく、ましてや眠るのが仕事の幼い子にそれを理由に体罰を加えたことは納得できない。このルールには聖書的根拠は無く、先輩信者から口伝されていたようである。このことを今になって両親に問い詰めても「なぜ尻を叩いたのか分からない」とのことだった。

脱線ついでに話したいのが格闘技についてである。エホバの証人は”戦いを好まず”と教えられ、戦争に加担する行為はもちろん、格闘技の観戦、暴力的な映画・漫画・ゲーム等の娯楽を避けるように教えられる。しかし私の家庭では相撲はOKだった。今でも両親は大相撲をテレビ観戦している。このことについて尋ねても答えは返ってこない。他にも各家庭でのゴジラの是非、ディズニーの是非など細かい例をあげればキリがない。ムチを含めこれらのことは本来、各個人の”良心”に判断を任されることである。しかしエホバの証人にはローカルルールが数多くあり、その締め付けが幼い私に組織への不信感を抱かせたのは間違いない。余談だが私は、自分の良心を持たず組織に妄信的な信者のことを”パリサイ人”と呼んでいて、同じ境遇の友人と笑いの種にしている。パリサイ人とは聖書に登場する戒律に囚われた人々で、イエスから糾弾されているため証人用語では悪役の代名詞になっている。組織の外から眺めると証人たちは皮肉にもパリサイ人のようである。


宇宙主権の論争

話を戻して、幼少期に抱いてた疑念について。まずはエホバの証人が描く”宇宙主権の論争”と呼ばれるストーリーは次のようなものである。

神は天使を創り、それから人間を創った。ある1人の天使が自分の方が人間をうまくコントロールできると神に挑戦した。のちにサタンと呼ばれる彼は、人間には神への信仰はなく、欲望にまみれた世界こそが人間の望むものだと主張する。神は挑戦を受けて、サタンに世界を支配する権利を与える。今現在、世界はサタンが支配しているのだ。戦争や飢饉が起きても神が手を差し伸べないのはこのためである。しかし、それでも神への信仰を捨てない人間たちがいる。神だけが知っている定められた時(ハルマゲドン)に神はその人間たちだけを救い、他の人間とサタンを滅ぼす。これは聖書で預言されていることである。

子供ながらに思ったことは、サタンを過小評価している、ということだ。サタンは位の高い天使で、私なりの証人的解釈からすればエホバ、イエスに次ぐNo.3の力と知恵を持っている。神の絶対的な力を間近で体感し、我々の想像も及ばないような思考力を有している大天使が反逆するであろうか?しかも預言されている結末を知りながらこの戦いに挑んでいるのだ。当時の私には嘘くさいストーリーに思えたのである。そして納得できなかったのは、世界はサタンに支配されていると言いながらエホバの証人とその組織は神の精霊の力によって守られる、と教えている点だ。サタンは事の結末を知って躍起になり、1人でも多くの人を自分の側に引きずり込もうとしているとされているが、神の力で守られていてはアンフェアではないか!


義者と不義者の復活

組織はハルマゲドンの後、過去に死んでいったエホバの証人たち(義者)は生き返ると教えている。ではエホバを知ることなく死んでいった人たち(不義者)はどうなるのか?その人たちも生き返る。そして千年の猶予が与えられ、その後再び審判が下るとされている。

ん?エホバを知らずに死んだほうが得ではないか!?千年間地上の楽園で生きられるぞ!?私はどうであろうか、すでにエホバを知ってしまっている。知りながら組織から離れた場合はどうなるのか、それは復活の希望がない永遠の死である。エホバの証人の2世は生まれながらにして選択を迫られている。組織に献身するか、永遠の死か。

なぜこの家に生まれてしまったのか、他の家に生まれエホバを知らずに欲にまみれた生活を送りプラス千年のボーナスゲットしたかった!私は自分の運を呪い、世の人々を羨んだ。実際のところはエホバの証人や聖書に接することなく人生を全うすることは難しい。いわゆる普通の生活を送ることができたとしても、人生の中で何回かはエホバの証人や聖書を拒んでしまうであろう。

しかし、全ての人を救う方法がある。それはエホバの証人が今すぐ一切の宣教活動を停止することだ。そうすれば世の人はエホバを知ることなく生活を送ることができ、不義者としての復活が確定する。それで少なくとも千年間は楽園で平和な日々を送ることができるのだ。エホバの証人は宣教活動をすることが義務なので、この作戦を実行するとエホバの証人だけが滅ぼされるという結末になってしまうことには目を瞑ろう。このようにジレンマを含むように見える教義は、私の不信感を強めるばかりだった。


旧約聖書と新約聖書

エホバの証人の信仰の終着点はエホバを愛することができるかどうかだ。エホバの人格を理解し、畏怖と畏敬の念をもって崇拝する。この域まで達すると、まさに献身して「永遠の命などいらない」などと言い出す。私はエホバを愛することができなかった。新約聖書でイエスが語るような慈愛に満ちた神に対し、旧約聖書の神は暴力的で儀式的に思えた。神と悪魔がそれぞれ聖書中で殺した人間の数を比べ揶揄するのをネットで目にすることがあるが、私にも戦争を好む神に映った。焼燔の捧げ物を要求することも気に入らなかった。今現在そんなことをしたら悪魔的儀式だと批判されるだろうに。神の基準は絶対で普遍的なものなはずなのに、旧約聖書と新約聖書で基準が異なるように見えるのが納得できなかった。


神権家族のプレッシャー

このような思いを抱え、信仰を抱くことはできなかった私だが、選択はしなくてはいけない。”真理”かもしれない組織の道か、永遠の死が待っている世の道か。この2択しか考えられなくなるのがマインドコントロールされている証なのだが、幼い私には抗う知恵も知識もなかった。

1世ならば信仰が得られるまで万年研究生、なんてことも許されるのだが、2世となるとそうはいかない。しかも”神権家族”に生まれたのだ。神権家族とは両親共に献身している家庭のことだ。組織内の相手と結婚すると必然的に神権家族となるのだが、その場合子供を持たないことが多い。子作りしてる暇あったら伝道しろ!という風潮のせいである。そのため子供がいる神権家族は少なく、100人の会衆で3組程度、生まれながらにして両親共に献身していた人となると1人いるかいないかだと思う。大抵の2世は母親だけが入信、しかもある程度の歳になってから集会に連れて行かれるようになるので、私のような純度100%の2世は稀である。そして私はそのことを誇りに思っていた。周囲からの期待を感じていたし、それに応えたいと思っていた。それは早く献身し、組織に貢献するということである。

私が10歳になる頃には父は長老になっていた。そして長老の息子として模範的に振舞わなくてはと強く思うようになっていた。小学校高学年で献身する人も珍しくなく、私も早く献身しなければという焦りとプレッシャーも感じていた。聖書への信仰も組織への信仰もなかった私は、バプテスマを受ける若者を、この人たちは本当に信仰をもっているのだろうか、一生を組織に捧げるとはどういう事か理解しているのだろうか、と、まるで別の生き物かのように眺めていたのだった。

組織の道を選んだ場合の行く末は、はっきりと見えていた。10代のうちには奉仕の僕、20代で長老、30歳になる頃には今の会衆を飛び出し全国的に活動する。そんな道に私の未熟な信仰で耐えられるだろうか。表面的にはうまく振舞えるであろう、しかし心の中はどうか、神は心をご覧になる。私はきっと裁かれるであろう。この道に良い結末は待っていない。私は14歳の時の集会が控える夕暮れ、友人の家へ遊びに行ったまま帰らなかった。その日を境に組織から離れたのである。


おわりに

読んでくださり、ありがとうございます。当時の言葉を使ったので、今の証人用語や教義とは異なると思います。そして今の私の組織や教義に対する考え方も異なります。組織から離れたからといってマインドコントロールから解放されたわけではありません。次はマインドコントロールから解放されるに至るまでと、今の私の聖書に対する考え方を書きたいと思います。


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