「ばかばかしい事」にこそ輝きがある。
ある日の夕方、夫婦で散歩に出かけた。本当は子供達と行こうと思ったが「じーじとこで待っとる!」と断られてしまった。
芝生の広場があり、小高い丘のある公園。丘に登ると街並みを見下ろせる。
気持ちの良い風が吹く。一番高い所では若い男女が楽しそうに話をしている。
「いいなぁ、私も若い頃に戻ってここでデートしたいなぁ。」
何気なくそんな事を言ってみる。
「いや、やっぱりもう若い頃に戻りたいとは思わへんな。」
すぐに訂正する。
「うん、もうめんどくさい事多いのは嫌やな。」
夫が答える。
そんな時、ふと昔の記憶がよみがえった。
初めて勤めた会社は時間がとても不規則で、たとえ家が近くても一年は寮に入るのが決まりになっていた。
その寮は居心地が良く、一年で出る人はほとんどいなかった。必然的に同僚、先輩、後輩と生活を共にした。
とは言っても部屋は一人一つずつ貸してもらえたし、時間がそれぞれバラバラだったのでマイペースに過ごせた。
一階に共同のキッチンがあり、そこでよく集まってお酒を飲んだ。仕事の愚痴はもちろん、恋愛の話や家族の話なんかもした。
二人の時もあれば、四、五人集まる事もあった。みんなビールが好きだった。あれよあれよと増える空き缶。
やり始めたのが誰だったのか、今となっては思い出せないのだが、誰かがその空き缶を上に積み始めた。
最初は一本から始まり、空いたらその都度積んでいく。「アサヒタワー」だ。ビールの銘柄はもちろんスーパードライ。
床から始めて、手が届かなくなったら椅子に乗って積む。何本くらい積めたのだろう、徐々に傾くタワー。そして崩れ落ちる。
わーーっ!崩れるーー!ガラガラガッシャーン、カラカラカラカラ…
大爆笑。ものすごく盛り上がった。うまく積めたらみんなで拍手して喜んだ。
社員寮のキッチンでの記憶。いつもバカな事をしていた訳ではない。励ましあったり、慰めあったり、真面目な話もしたはず。なのにどの記憶もおぼろげ。
結局一番鮮明に思い出せるのがこの「アサヒタワー」だった。ばかばかしくて、どうしようもなく楽しくて、そして「あの頃には戻れない」という少しの切なさが含まれている。
記憶なんてそんなものなのかもしれない。
ドラマチックで「絶対この事は忘れない!」と思ってたような事を忘れてしまったり、どうでもいいくだらない日常の風景をふっと思い出したり。
懐かしくて愛おしくて。戻れないけれど確かに存在していた時間。それはキラキラと輝いている。
公園の丘の上。
夫に、ふと思い出した「アサヒタワー」の話をしようかと思った。でもやめた。静かに景色を眺める事にした。
キャッキャと楽しそうな若い男女。
若いって素晴らしいんだよと、どこかのおっちゃんの様な事を思う。
気持ちの良い風。静かに街並みを見下ろす。いつかこの時間をふと思い出す時が来るのだろうか。
その時はもれなく「アサヒタワー」の記憶もセットで付いてくるかもしれないな。
なんだか得をしたような気分になった。
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