見出し画像

この面倒くささまで一つのパターンに当てはめないで

・物語のパターン

ミステリー小説の全てのトリックはアガサ・クリスティーが書き尽くしてしまった、らしい。真偽はともかく、言わんとすることは分かる。この言説は賛辞であると同時に、物語パターンの鋳型が有限であることの示唆であるとも思う。

昨今のミステリー小説は、斬新なトリックを追及するより寧ろ、鮮やかな叙述であったり人間同士の関係性に重きを置いた作品が多いと聞く。いわゆるホワイダニットというやつだ。読者層もまた、ミステリーに精通していればいるほど、物語のトリック構成以外の、別の部分の魅力を重視している気がしている。

構成が何種類かの定型に分類できるのは、ミステリーというジャンルに限った話ではないだろう。冒険譚でも恋愛小説でも何でも、王道・邪道の類型とは存在するものだ。

そして、それらのパターンって文化に堆積されていくものであると同時に、個人経験という側面でも計れるものだ。要するに「人生の中で新鮮な気持ちで楽しめる作品数には限りがあるのでは」みたいな話だ。

いい年こいた大人が趣味人として生きる場合、この「知り過ぎてしまっている」状態はちょっとした障害だなと度々感じる。ディティールに精通すると表現すれば聞こえは良い。だけどもう、そこくらいしか楽しめる余白がないんじゃないか、という薄ぼんやりとした懸念が浮かぶ日もあるのだ。

まあ、青年期の終わり頃って、普通は育児や仕事に注力し始めるから問題にならないんだろうけど。

……少なくとも、若年層向けの作品(ジャンプ漫画とかJ-POP音楽とか)に対して、陳腐だ見飽きた、みたいに愚痴るおじさんにはなりたくない。オタクの高齢化問題じゃないけど、己がお呼びでない客層であるという自覚だけは持つべきだ。

・納豆料理

納豆を使った料理、納豆を食材として扱う手間と、その労力に見合うだけの美味しいレシピってこの世に存在しない気がしている。

確かに、味のバリエーションや最大値を伸ばすだけの料理ならいくらでもあるだろう。ただ、如何せんあのネバネバした食材を調理するのが面倒くさ過ぎるのだ。調理によって多少美味しさのレベルが上がった所で、その上昇幅は、かかった手間には釣り合わないと感じてしまう。結局、納豆はパックでかき混ぜて食べるのが一番という結論に至る。

食事に精神的な充足を追及せず、栄養バランスと工数の少なさばかり重視していると、日々の献立はどんどんパターン化されてゆく。なまじ飽きづらい性格なのだ。

この方向性は突き詰めると「新しい料理を作ってみよう」という試みすら無価値になりかねない。最適化された献立のサイクルは、もうある程度確立してしまっているのだから。

その、静かな停滞の予兆を、どこまで疑問視するべきだろうか。たかが自炊だと切り捨てても問題ない気はする。それでも「危機感は慣れてくると抱けなくなる」という言葉が、僕の脳裏で未だ途切れず糸を引いている。

・熱量と純度

とあるピアニストのyoutubeチャンネルの、月額制メンバーシップに加入しようかずっと悩んでいる。メンバー加入特典として、ピアノのライブ配信が期間限定でアーカイブ視聴可能になるのだ。

※そのチャンネルの配信は基本的にライブ限定だ。音楽アーティストが配信をアーカイブに残さない風潮は割と主流で、阿漕とは思わない。

月額数百円の費用は社会人にとって大した負担じゃない。ただ、お金を払うとなった段で、僕は全てのアーカイブを網羅的に視聴するようになるだろうなぁと確信している。「折角お金払ってるんだし」。その義務感めいた動機に縛られることが、何かを好きであるという感情の純度を濁す気がして、躊躇ってしまうのだ。

ケチ臭いとか、愛の熱量が足りないだけと思われるかもしれない。多分それは、ある程度は事実だ。しょうもないメタ認知を超越できるほど、僕は当該コンテンツが滅茶苦茶好きって訳じゃないんだろう。例えば更新を待ち望んでるレベルでお気に入りブログとか、普通に定期購読していたりするし。

お金を払う、会員登録する、ファンを自称する。これらは自分が、今後何を好きであり続けるかを決定・設定する行為だ。本当はそんなことにすら無自覚に、ただ衝動的に踏み込めるほど熱量が高いのが良いんだろうけど。

一方で僕はこんなことも考えてしまう。いつでも止められる・義務感が一切ない状態でも好きだからこそ純粋である、と。マッチングアプリを軽んじて自然恋愛を崇拝するような、幼稚で青臭い発想なのかもしれない。

・心の声

座り仕事&インドア趣味なので、ちゃんとした整体を探したいという気持ちが常にある。面倒くさいので中々行動に至らないのだけど。僕は整体師に話しかけられるのが苦手だ。そして、検索段階でお喋りの有無や度合は判別しにくいのだ。

これは、単に美容室での会話が億劫みたいな理由だけではない。整体で言われがちな「お客様すごい凝ってますね~」「この固さ……相当お疲れのようですね……」「ホラ楽になったでしょう~?」みたいな言葉が、全て印象を操作して体感効果を水増ししようとするセコい話術に思えてしまって、煩わしく感じるのだ。黙って手を動かせ。

僕は賢い人間なので、安直なリップサービスやセールストークに騙されないよう全てを疑って構えているし、誉め言葉だって裏の意図を読みがちだ。……冗談はさておき、実際の効果を求めているのに「気にさせる」商法の術中にまんまと嵌まるのは望む所ではない。そういう心的な納得まで含めて本質なんだという話は一旦さておく。

あの手の話術、研修マニュアルにきちんと(?)組み込まれている定型句なんだとか。広義では顧客満足度を高める一環なんだろうけど、どうも詐欺めいた印象があって釈然としない。

ただ、望まれている言葉を表に出すこと自体は、万ジャンルにおける成功パターンの一つだ。整体であれば、あなたは大変な仕事をしているんですね、という苦労への理解と共感。承認に飢えがちな現代人には一定の効果が見込めるのだろう。

これは物語作品なんかでも同様だ。キャラクターによる突っ込みや解説、常識的な視点による疑問の投げかけ。これらは情報整理であると同時に、読者の価値観に寄り添うという役割もある。

誰しも己の感情を言語化してくれることを望んでいるし、だから代弁者・代弁行為はいつの時代も脚光を浴びがちだ。SNSにだって「これな」系の引用リツイートは溢れ返っている。

当然、それらの手法はエッセイにも適応できる部分があるだろう。よし、あくまで打算じゃなく興味関心という意味で、このnoteでも試験的に実践してみよう。読者の視点で、思考を言葉で表現するのだ。



──────面倒くさいのはお前の考え方だよ。

冷静になるんだ。