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ゲーム実況とかいう感情代行サービス

折角買ったゲームを中途で放棄してしまった、と久々に喋った友人が語っていた。いざ遊び初めても中々身が入らず、ほどほどで止めてしまったらしい。いわゆる、大人になったらゲームができなくなる現象というやつ。身に覚えのない僕はまだガキだという説がある。結局そのゲームの続きはYoutubeの実況プレイを見て消化してしまったそうだ。

曰く、「自分でプレイしても漫然とした感覚ばかりで飽きちゃうんだけど、同じゲームでも、実況プレイで見てると面白い気がしてくるんだよね」とのこと。

これは中々に興味深いエピソードだった。ゲームそのものに飽いたのかと思いきや、他人のプレイを見て楽しめたとはどういうことか。そのゲームはオーソドックスなRPGで、特別に操作難度が高いものでも無かったという。僕はふと、「餅は餅屋」という諺を浮かべていた。

「餅は餅屋」とは、何事においてもその専門家に任せるのが一番良いという事のたとえです。また、たとえどんなに上手だとしても素人は専門家にはかなわないという意味もあります。
もともと江戸時代の頃には、各家庭や近所で寄り合ってお餅をつく習慣がありましたが、やはり餅屋のついた餅が一番美味だということから、そのような例えとして使用されるようになりました。

巨大な社会の中で分業を極めて発展した人類にとって、何かしらの役割に沿って任せたり任せられたりすることは、もはや日常茶飯事を通り越して生活の根底である。そしてゲーム実況を見るという行為もまた、何かを専門家にアウトソーシングしているように僕は思えたのだ。

「何か」とは何か。
ゲームプレイを通して様々な感情を得る、という一連の工程である。

いやいや、娯楽の体験そのものを人任せにするなんて意味無いだろ、と思うだろうか。実は意味があるのだ。ていうか結果論だけで言えばゲーム実況めちゃ流行ってますしね。

娯楽とは体験すること自体が目的ではない。体験することを通して、「楽しい」「面白い」といったポジティブな感情を得ることだ。なればこそ、ポジティブな感情を得るという最終着地点へ到達できるのならば、実は体験行為そのものは必要不可欠ではないのだ。

言い換えれば、ゲームを満喫するにおいて、ゲームをプレイすることは必須ではないということだ。これがゲーム実況を楽しめることのロジックである。

勿論、自分でプレイしてナンボの主義に従えば、実体験こそ何事にも勝る正義のように思えるだろう。

だが、それも結局は一面的な価値感だ。疲労とか手間とか孤独感とか色々、多忙で複雑な事情を抱えがちな現代人にとって、時に自力で遊ぶことが「楽しむ」ための最適解でない場合もままあるだろう。タイミングや状況次第で、感情を娯楽用に上手くチューニングできないこともあるだろう。

そんな最中、派手なリアクションと共に「コレ面白い!」とか実況者が言ってれば、まあ何かそんな気がしてくるのが人間心理というものだ。実はゲーム自体がそもそもつまらんかった場合でも、同様に起こり得る話だ。

感情とは案外、無為でも不随意でもないものである。我々は社会生活の中でよっぽど意図的に感情をコントロールしているし、一方で意図的に誘導されたり増長させられることも多々ある。笑い声や泣き声がコンテンツの演出だと理解していて尚、感化されたという経験は誰しもあるだろう。

例えばお笑い番組に効果音的に挿入される観客の声(拍手や笑いのタイミングはスタッフ指示で統制されてるという噂)や、スポーツ試合観戦における実況なんかにも同様の要素を見出せるかもしれない。

あれらも「笑い所」「盛り上がり所」「見せ場」といった要所を視聴者へ明らかにし、内容理解・集中といったコストを低減し、喚起すべき感情のタイミングや方向性を示してくれる役割がある。要は、頭を働かせなくても、今のがおもろくてすごいんだなってことが何となく分かる。そういった誘導は決してコンテンツの本質ではないが、明確さによってエンタメ性を強調するという点において、演出の一環ではあるのだ。そしてラクチンで分かりやすいことは、エンタメにおいては必ず一定の正義が担保されるというものだ。

「実況プレイだと面白い気がしてくるんだよね」

ゲーム実況とは言わば、それらに類する感情表現の代行サービスとも言えるだろう。代行という言葉に丸投げで全任せのような違和感を覚えるならば、「感情補助」「感情誘導」といった表現が適切かもしれない。

ゲームという本来のコンテンツから操作(楽しい実体験であり、煩わしい手間である)を取り除く一方で、トークや笑いといったエンタメ要素を付加したスタイル。何に驚き、何に感動し、何に笑えば良いのか。それを他人のリアクションによって示してもらって倣うという点において、上記の例と同類の感情代行サービス、ないし感情補助の要素を孕んだコンテンツの一つと捉えられるかもしれない。

かの有名な『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という小説には、ボタン操作によって自分の感情を調整するラジオが登場する。機械による意図的な感情の制御とはいかにも影ある未来的な価値観のようだが、その簡易版は既に現代の我々も実践しているのかもしれない。

え? ゲームの楽しみ云々とは関係なく、推しの声を聞くために見てる場合もあるって? 知らんがな。

冷静になるんだ。