見出し画像

『探偵・武蔵(仮』第2話

 河原町の宿に戻った武蔵は、二階の窓から静かな往来を眺める。無精ひげをぷちぷち抜いていると、もし、と襖の向こうから呼びかけられた。
「ご飯をお持ちいたしましたが、お運びしてもようござりますかの」
 武蔵は、おお! と声を上げて両の手で膝を打った。
「待ってたんだ! 運んでくれ!」
 団子侍に団子を奪われたので、腹が減っている。
「ほな、失礼します」
 湯気の立つ一汁二菜が並ぶ盆を、亭主がかしこまって卓上に置く。
 武蔵が鴨川の上流で釣った鮎を渡し、薪の代金──木賃を払って作ってもらった。雑穀や芋が混じる麦飯と鮎の塩焼きに味噌汁、白菜の漬け物。魚を多く渡したからか、夕なのにわざわざ飯を炊いてくれたようだ。
 これは腹が鳴る。
「なんもお構いできません糧飯ですが、おあがりください」
「何の! 麦飯が食いたかったんだ」
 それはようございます、と敷居まで下がった亭主が手もみをしながら、
「残りの鮎は、私どもでちょうだいしてもいいので?」
 と聞いてきたので、武蔵はうなずいた。
「ああ、古く臭くならんうちに皆で食ってくれい」
「ほな、ありがたくちょうだいします」
 魚は、町人はなかなか食えないようだが、武蔵は旅道中でもう食い飽きている。同じく食い飽きた野兎も渡したのだが、調理の仕方がわからない、と断られた。皮を剥いで丸焼きにすれば、肉も肝もうまいのだが。
「どうぞ、ごゆるり」

 亭主が下がると、武蔵はさっそく飯にありつく。流浪の暮らしで使い方を忘れかけている箸を何とか持ち、温かい麦飯を口の中にかきこむと、師走の寒さを忘れる心地がする。町の良さはやはりこれ、麦飯に限る。
 いつの間にか部屋の隅にいる女人に、武蔵は膳を見せる。
「ほれ、おぬしも食ってみぃ。麦飯はうまいぞぉ」
 おもてを伏せている女人は、動きやすいよう袖口と袴の足首を細く絞ったぬめり柿色の装束姿で壁際の暗がりに潜んでいる。
「いえ、私は四条で天ぷらを食べてまいりましたゆえ」
「天ぷら? 何だ、そりゃ」
「魚を油で揚げて、ネギやニラなどをすりかけた南蛮料理でございます」
「うまいのか」
「それはもう」
 武蔵はごくりと唾を飲んだ。天ぷらなる物の味を想いながら口に麦飯をかきこむ。うまかったその飯が、ぱさぱさとした味気ない物に感じられる。
 大根の漬け物をぼりぼりかじった武蔵は、で、と女人に言う。
「聞いてたか? 先の団子侍との話」
「はい。町人に扮して」
「元日の蓮華王院、参拝人らのただ中で仇敵を討ち、吉岡の健在っぷりを見せつけるのが吉岡方の企みのようだが、あの団子侍、ありゃおかしな男だなぁ。果し合いを申し込むってときに、まるで気迫を感じなかったぞ」
 女人は面を伏せたまま、恐れながら、と言った。
「私からすれば武蔵様もたいがい、おかしなお方、でございますが」
「ん、俺が?」
「無類の剣腕を持ちながら、武蔵様は少しもお侍様らしくありません。女人の私にも対等に接してくださいます。そんなお侍様はおりませんよ」
 この女人は真名は明かさないので、無名、むめい、と呼んでいる。
 武蔵は知らなかったが、徳川の臣下に服部なにがしかという者がいたらしい。姉川や三方ヶ原の役で武功を挙げ、幾度も槍を賜った勇猛な武将だったが、その正体は伊賀の上忍、服部家の〝半六蔵人〟を継ぐ忍びだと。
 むめいはその配下の、くノ一。〝伊賀組〟として各地をめぐって将軍や大名の剣術師範にふさわしい剣豪を見出し、推挙するのが役目だとか。

 むめいと会ったのは、もう三年前か。夜半の峠道だった。
 肩がぶつかっただの、体がくせぇだの、あらぬ因縁をつけて斬り剥ごうとしてきた盗賊三人を、武蔵は返り討ちにした。そんないつもの旅道中、逆に賊どもの金品をがさごそ懐に収めているときに、森の暗がりにいつの間にやら立っていた女人にぼそりと声をかけられたのだ。
「今宵はさぞ、つれづれでございましょう」
 月明かりの下に歩み出てきた女人には妖しげな美しさがあった。およそ峠道じゃ出会わない白面。さては妖狐の類が出たか、と身構えた。
 それがむめいだった。
 面を伏せた女はその場で素性を明かし、旅の同行を願い出た。
 武蔵の剣腕を見て、ゆくゆくは将軍家剣術師範に推挙したい、と語ったむめいは、服従の証として武器をすべて差し出し、着物を脱いだ。
 裸になって伏せたむめいに、武蔵は尋ねた。
「で、白飯は食えるか」
「はい?」
「剣術師範になりゃ、白飯は食えんのかい?」
 世には米が白い飯というものがあり、何と、麦飯よりもうまいと聞く。武蔵のような賊崩れの浪人者がそんな飯に至るには、剣の道しかない。
 世に名を馳せる剣豪らを倒し、天下無双の剣豪となり、剣術師範に推挙され、天にも昇るうまさだという白飯を頬張る。
 それが武蔵の夢。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?