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生物の進化はあたりまえのつみ重ねで、完全に自発的なんだと気づいた、衝撃の瞬間


ドミノ倒しを思い浮かべてほしい。ドミノの最初のピースを指で押していく。するとピースは傾いていき、ついに倒れる。倒れたピースは2番目のピースに当たる。すると2番目のピースが傾いて、倒れて・・・ こんな、あたりまえのできごとを繰り返して、ドミノ倒しは前に進んでいく。

生物の進化は、ドミノに似ている。ごくあたりまえで、秘密なんてどこにもないようなステップを、気が遠くなるほどたくさん積み重ねて、ただそれだけで、生物は進化していく。

ほんとうに、そうだろうか?生物の進化をうながす何か、駆動力のようなものは、ほんとうに必要ないんだろうか?僕は10代のころ、この疑問について何年も考え続けた。そしてとうとう、ある瞬間に、雷に撃たれたように気づいたんだ。

生物の進化は、ほんとうに、完全に自発的なんだと。

僕が書きたい「自発的」の意味

自発的という言葉は、外からの駆動力に作用されなくても、ものごとが自然に進展していくさまを意味している。

もちろん生物のふるまいは、この宇宙にあまねくみられるいろんな物理法則に従っている。生物のふるまいが、ニュートンの万有引力の法則とか、熱力学や電磁気学の法則に従っていないというケースは、今のところ見つかっていない。

ドミノも同じだ。万有引力の法則に従ってピースが地球に引っぱられているから、ドミノは倒れていく。

だから、こういう物理法則が進化やドミノの駆動力だと言われれば、たしかにそういう見かたもできると思う。

でも、僕がここで言いたいのはそういうことじゃない。

ドミノは倒れ始めたら、自然に次々と倒れていく。誰かが手で、ドミノのピースをひとつずつ順番に倒していく必要はない。ドミノが倒れるという現象は、自発的に前に進んでいくのだ。

生物の進化も、同じように自発的だ。うんと遠ざかって見れば、地球は太陽のまわりをクルクルと回っているだけだ。ただそれだけで、地球の表面では生命が誕生し、進化のプロセスを経て、現在の生態系が自発的にできあがった。

太古の海で最初の細胞がうまれ、多細胞生物がうまれ、魚が誕生したのも自発的だし、高速道路ができ、飛行機が飛び、スマホが大量生産されるようになったことすら、宇宙から見れば自発的なプロセスの結果だと思う。

宇宙にぽっかりと浮かぶ地球に、外から手を加えられたとは思えない。誰かが地球に細工して、最初の細胞がうまれるように、人類がうまれるように、そしてスマホが作られるように仕向けたとは、考えにくいように思われる。

中学校で習った進化のプロセス

でも、ほんとうにそうだろうか? 

生物の進化を前に進めようとする力、進化をある方向に向けようとする力は、ほんとうにどこにもないんだろうか?

中学時代の一時期、僕はこの疑問に夢中になっていた。

きっかけは、中学で習った進化のプロセスだ。それはこんなストーリーだった。

*    *    *

むかしむかしあるところに、黄色い魚の群れがあって、みんな仲よくくらしていました。

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群れのまわりには、ある大きさのエサがありました。

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黄色い魚たちがエサを食べて生きていくためには、まわりのエサをぱっくり食べられるだけの大きさの口が必要です。

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でも、口をあまり大きくしすぎる必要もありません。なのでほとんどの黄色い魚たちは、エサを食べるのにちょうどいい大きさの口を持っていました。つまり、黄色い魚の群れには「ふつうの大きさの口」というのがあって、黄色い魚たちの多くはふつうの大きさの口を持っていました。

でも、変わり者もいました。ふつうより、ちょっと大きな口を持った魚もいたのです。ふつうよりちょっと大きい口を持っているので、体全体もふつうよりやや大きめにならざるを得ませんでした。

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そして、やや大きめの体で生きていくために、ふつうよりやや多めにエサを食べる必要がありました。つまり、平均より維持コストが少し高めの体を持つことになって、ふつうの黄色い魚たちより少し不利でした。

なのでこの口が大きめの黄色い魚は、群れの中でメジャーにはなれなくて、常にマイナーな存在でした。

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つまりこの黄色い魚の群れのメンバーは、ほとんどはふつうの魚でしたが、変わり者も少しいた。いわば、多様性のストックを持っていたということです。

ところが、黄色い魚たちの平和なくらしは、突然終わりを告げました。

近くに、青い魚たちの群れがやってきたのです。

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青い魚たちは、黄色い「ふつうの」魚たちと、同じぐらいの大きさの口を持っていました。つまり、黄色い魚と青い魚は、同じ大きさのエサを食べるのです。当然、エサの奪い合いが起きてしまいました。ふつうの黄色い魚が食べられる大きさのエサは、あっという間に少なくなってしまったのです。

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こうなると、マイナーな存在だった大きめの魚の大きめの口が、がぜん威力を発揮します。なにしろ、ふつうの黄色い魚も、新参者の青い魚も食べられないような、大きなエサを食べられるのです。大きなエサは枯渇していませんから、これはものすごく大きなメリットです。ちょっと体が大きめで維持コストがかかるなんていうささいなデメリットは、一気にふっ飛んでしまいました。

こうして黄色い魚の群れの中で、大きな口の魚の方が生き残りやすくなると、世代を重ねるごとに、大きな口の魚が少しずつ増えていきました。

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ついには、黄色い魚の群れでは口の大きな魚がメジャーになりました。そして、黄色い魚は大きめのエサ、青い魚は小さめのエサを食べるという「住み分け」ができるようになり、ふたつの群れは仲よくくらせるようになりましたとさ。

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と、こういうストーリーだった。

これは、今現在の僕の知識や理解も多少は加えてるけど、中学で習った進化のお話っていうのは、おおむねこんな感じだったと思う。

この話を聞いて、僕はすっかり感動してしまった。

僕が思いついた、進化の「駆動力」

なにしろ、このストーリーによれば、生物がどのような姿になるべきかを考える「デザイナー」は必要ない。生物がどのような道すじで進化すべきかを考える「プランナー」も必要ない。ただ群れの中にある程度の多様性があって、そこに環境の変化が起これば、生物は自発的に進化していく、っていうんだから!

すばらしい。シンプルで美しい。心打たれてしまった。

このリクツを使えば、地球上のあらゆる生物が、なぜ今のような姿をし、今のような生き方をしているのかを、すべて説明できてしまうような気がした。

それからしばらく、僕は進化の理論に夢中になり、このことばかり考えていた。正確にはバスケにも夢中だったので、一時期の僕の中学生生活は、進化の理論とバスケで占められていた。

でも、そのうちに僕は気づいた。

どうしても説明できないことがある。

エサの奪い合いが起きるのは、その場にいるすべての生物が、なんとかして生きようとするからだ。すべての生物が生きようとするから、エサの奪い合いが起きて、より確実にエサを得られるように進化する。

同じように、すべての生物は、なんとかして子孫を残そうとする。子孫を産むためには栄養がいるので、やはりエサの奪い合いにつながる。さらに、より確実に子孫を残せるような卵の産み方をしたり、卵ではなく赤ちゃんを産むように進化したりもする。

ということは、すべての生物が、

① 生きようとすること。

② 子孫を残そうとすること。

このふたつが、進化の駆動力なのだ、と思った。

そして実際、地球上には生きようとしない生物や、子孫を残そうとしない生物は、いないように思われる。

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ではなぜ、すべての生物は生きようとし、子孫を残そうとするんだろう?ここが分からなかった。進化の理論では説明できない気がした。

どうしても説明を思いつかなかった僕は、

「生物が生きようとし、子孫を残そうとすることには、何か特別な意味があるのでは?」

「つまり生物の存在には、なにか特別な意味があるのでは?」

と考えるようになった。

では、この宇宙に、生物が存在する意味とはなんだろ?と考えた僕は、仮説をひとつ思いついた。

生物の存在意義を説明するための、僕の仮説

この仮説を僕が思いついたのは、父の影響が大きい。僕の父はエンジニアだった。僕がまだ幼い頃から、物理や数学の考え方を(今思えばおもしろ半分で)僕に教え込むような父だった。父は哲学も好きで、僕に「存在」についての哲学的な議論も教えてくれた。「だれからも認識されていないモノは、存在しているといえるか?」というやつだ。「そりゃ存在しているとはいえないだろう。」というのが、中学生の頃の僕の感覚だった。

そこで、僕が思いついた仮設は、こうだ。

目の前にエンピツが一本あるとする。僕がそのエンピツを見たり、触ったりして、「ここにエンピツがある」と認識する。そうして初めてエンピツは存在するといえる。だれからも認識されていないエンピツは、存在しているとはいえない。

では、エンピツではなく、宇宙ならどうだろう?宇宙を存在させるには、だれかが宇宙を「正しく」認識しないといけない。キリンが星空を見上げても、ビッグバンによって始まった宇宙、今も膨張しつづける宇宙を、正しく認識することはできない。人間が誕生し、科学や技術を進歩させ、宇宙理論を発展させてはじめて、宇宙は正しく認識されるようになったのだ。

ということは、生命が誕生し、人間が生まれ、宇宙理論が発展したのは、宇宙がそれを望んだからでは?宇宙は宇宙自体を存在させるために、生物に生きようとし、子孫を残そうとする傾向を植えつけたのではないか?

つまり、

「宇宙を存在させるために、生命は存在している!」

・・・のではないか?

と、こんな仮説を、僕は思いついた。

なんとも中二病的な発想だ。書いててはずかしい。

でも、この説を思いついた僕は有頂天になって、父のところに飛んでいって、この説を披露した。

そして、

「そんなのは傲慢な考えだ」

と、一蹴されてしまった。

大好きな父に、自慢の仮説をバッサリ否定されて、僕はすっかりしょげ返ってしまった。

大学時代に、雷に撃たれたように気づいた

というわけで、「なぜ、すべての生物は生きようとし、子孫を残そうとするのか?」という疑問は解けないままだった。

そして他にもいろいろなことがあって、中学、高校生活は忙しく過ぎ、僕は大学生になった。

大学で初めて、本格的な進化論の講義を受けた。なにしろ生物の進化について実際に研究している研究者が、その最新の成果もまじえて進化について語るのだ。おもしろくないはずがなかった。そして、そう思っていたのは僕だけではなかったようだ。進化論の講義は、2~300人は入りそうな大きな教室で行われ、しかも満席。居眠りや私語をしている学生もほとんどいなかった。進化論はみんなの心を惹きつけてやまないようだった。

大学で学んだ進化論では、生物の姿かたちだけでなく、行動のしかたも進化するのだ、というところが新しかった。でも、進化についての僕の理解がひっくりかえるような新しい発見は、講義では得られなかった。

それでも、講義のおかげで、進化論についての理解は少しずつ深まっていったんだと思う。ある日、とうとう、その瞬間がやってきたのだ。

大学1年生の時だ。何月ぐらいだったかは、よく覚えていない。場所はよく覚えている。大学 の図書館の前に大きな木が立っていて、僕はその下を歩いていた。

その時、突然、雷に撃たれたように気づいたのだ。

「あっったりまえじゃないか!!」と。

僕はぼう然として、立ち止まってしまった。なぜ、こんな簡単なことに何年も気づかなかったのかと、自分が信じられなかった。

その気づきとは、こうだった。

ある時、ある場所に、「生きようとしない生物」がいたとする。その生物はどうなるか?生きようとしないんだから、すぐに死んでしまうだろう。

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すると当然、あとに残るのはすべて、「生きようとする生物」だ。

そして、みんなが生きようとするもんだから、激しい競争が起きる。生き残るのは、「生きようとする傾向」がひときわ強い生物だろう。

「子孫を残そうとする傾向」についても、同じように考えることができる。

こうして地球は、

 生きようとする傾向がとても強い生物

 子孫を残そうとする傾向がとても強い生物

で埋めつくされることになる。

これは当然の結果であって、なにか意味があってこうなっているわけじゃない。

つまり、地球上のすべての生物が生きようとし、子孫を残そうとしているように見えるのは当然の結果であって、特別な「意味」があるわけじゃない。

というわけで、生物の存在に、なにか意味があるわけじゃない。

というのが、僕の気づきの内容だ。

書くと長いなぁ・・・

実際は、一瞬で気づいたんだけど。

衝撃のあとで

どうだろう?

「なぁんだ、たったそれだけ?」と思ったかな?

でも、僕にとっては、この衝撃はとてつもなく大きかった。

「すべての生物が生きようとし、子孫を残そうとすること」が、進化の駆動力だと僕は思っていた。そして、この駆動力がどこから生じるかが分からなくて、何年も悩んでいた。ここが、生物学のいちばん根底にある謎だと思っていたのだ。僕は大学1年生のこの瞬間まで、この謎を解くために生物学を志していた。

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でも突然、「すべての生物が生きようとし、子孫を残そうとすること」はあたりまえのことで、そこにはなんの秘密もない、と気づいた。根底にあると思っていた謎が、実はそんなものはないと分かった。

進化はほんとうに、どこまで行っても自発的なのだ。

いきなり視界が、バン!!っとひらけた。

この時、僕の生物学への情熱は一瞬でさめてしまった。

正確には、「生物を分子生物学的なアプローチで研究すること」に興味がなくなってしまった。この後しばらくはどうしていいか分からなかった。「細胞を生きたまま観察する」というアプローチに活路を見出すまで、2~3年かかった。分子生物学は、ある意味では細胞の時間を止めてしまうアプローチだ。基本的には、細胞をすりつぶして、その中に含まれる分子を分析する、というのが分子生物学のやり方だからだ。そこで、細胞を生きたまま、リアルタイムで観察すれば、分子生物学だけでは発見できないなにかを発見できる可能性があるわけだ。これは僕が考えたわけじゃなくて、僕が師事した教授を含め、何人かの研究者が当時期待していたアイデアだった。この話は、機会があれば別の稿で書いてみたい。

あと、今回書いた話は「進化」の話で、「生命の誕生」は説明できていない。生命の進化の話と、生命誕生の話とはまったく違うのだ。このことが気になり始めたのは、ごく最近になってからだ。ここ何年かで、生命誕生に関する研究には重要な進展があって、すごいことになっている。これも、僕の力がおよぶなら、いつか紹介してみたい。

おわりに

僕の得意分野はストーリーであって、たくさんの情報がちらかった複雑な状況から、いちばん大切な太い流れを見つけて、それをシンプルにまとめてみせることだ。詳細な情報を書き連ねていくのは得意じゃない。

「それにしては、今回の話は長すぎだろう!」と思うかもしれないけど、今回の話は進化についての詳細を、かなり大胆に省いている。クジラはなぜ海でくらすようになったのか?クジャクの羽はなぜあんなに美しいのか?そういう具体的な生物の、具体的な進化の道すじについては書かなかった。あと、遺伝子や、遺伝子の突然変異についても一切書いていない。こういう詳しいことに興味があれば、ぜひ進化についての本や、ウェブサイトや、論文なんかを読んでみてほしい。

また、もちろん今回の話は注意して書いたつもりだけれど、どこかに間違いがあるかもしれない。なにか間違いに気づかれた方は、ぜひ教えて頂ければと思います。

*    *    *

僕の、進化をめぐる冒険は、おおむねこれでおしまい。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。楽しんで頂けたのなら、とてもうれしいです。

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