見出し画像

直木賞候補作、高校生直木賞受賞作『くちなし』から4年——。気鋭が放つ、新たな代表作 第1話を大公開

美しく、静謐な世界観で注目を集める、次世代を担う作家・彩瀬まるの最新作『新しい星』より、第1話「新しい星」を大公開

note_書影

◇ ◇ ◇

 三年ほど前のある昼下がりの出来事を、森崎青子(もりさきあおこ)はまるで、自分がもう一度産まれ直したような、生々しく忘れがたい感覚として記憶している。

 青子は実家のリビングの床に横向きに寝そべり、下敷きにしたキルト地のラグとフローリングとの境目に両手を投げ出していた。その辺りにはちょうど、ガラス戸から差し込む初夏の日差しが細長い平行四辺形を描いていた。昼食後のデザートを食べるうちに眠くなって、テレビを消して横になったのだ。ローテーブルにはまだカステラが二口ほど残った小皿と、自家製の麦茶のコップが置かれたままになっている。リビングには丈夫な帆布(はんぷ)のカバーがかかったソファも設置されているのだけれど、青子は子供の頃から、日当たりのいい位置を狙って床に寝転がるのが好きだった。

 家はとても静かだった。父も母も出かけていたのだろう。日差しに浮かぶ星のような埃(ほこり)の粒を眺めながら、青子はほんの数ヶ月のうちに自分の身に降りかかった出来事を漠然と思い返した。いや、思い返すというより、それらの出来事は体の奥深くに突き刺さったつららのごとく、じくじくと痛みを湧き出させて意識の中心に居座り続けている。どれだけ辛くても、もう二度と体の外に出せない悲しみのかたまり。青子は産まれて間もない子供を亡くしたばかりだった。そしてトラブル続きだった妊娠期間を通じて、自分の体が——アレルギーも持病もない、むしろ人よりも丈夫なくらいだと信じていた体が——子供を育みにくい性質を有している可能性があることを知った。それが決定的な理由となり、夫の穂高(ほだか)と離婚した。

 よい恋愛をしたと思っていたし、よい結婚をしたと思っていた。よい出産、よい子育てへ、道は真っ直ぐに続いていくのだと意識すらせずに信じていた。展望を失い、一時的に実家に身を寄せた青子は、汚水を吸った綿にでもなった気分だった。黒く濁った心身のどこにも力が入らず、ふとした拍子に涙が止まらなくなり、枕で口を塞(ふさ)いで絶叫した。消毒した手を保育器の小窓から差し入れ、そうっと触れた新生児の体。つまめばちぎれてしまいそうな頼りない皮膚(ひふ)、肋骨のおうとつ、淡く開かれた水っぽい瞳。そんな美しいものを思うだけで、全身から愛おしさと悲しみが鮮血のように噴き出し、止まらなかった。

 なにかを思えば涙になる。叫びとして、ほとばしる。実家に戻って一ヶ月が経ち、二ヶ月が経ち、一つの季節が過ぎる頃、あらゆる感情を放出し続けた青子は、自分が空っぽになったような虚脱感に襲われた。出せるものを全て出してしまうと、なにも感じず、なにも考えずにリビングで転がっている時間が増えた。

 音のない家で一人、ガラス製の置時計の、時計盤の周囲に彫られた百合の花や、フローリングを傷つけないよう椅子の脚に装着されたフェルトのカバーを眺めるうちに、なんだか見知らぬ惑星に寝転んでいるような、怪しく心もとない気分になった。不時着した砂地から顔を上げ、そろりそろりと周囲を見回し、夫や子供を望まない人生を考え始める。床に手をついて頭を下げた夫の清潔なうなじや、乳を吸う赤ん坊の口の動きが脳裏をよぎる。目尻で涙が球を結び——しかしこの涙は、ただの条件反射だ。なくした、大きなものをえぐりとられた、そう思ってきたけれど、私は結局のところ、なにをなくしたのだろう。

 日溜まりに差し入れた両手が温かい。眠さに負けて目を閉じると、手は自然となじんだ形を追った。てのひらに収まるほど小さな頭、平たい背中とおむつのごわつき、皮膚へ染み入る切ない体温。あの子に——なぎさに触れた時間は、気が狂いそうなほど苦しくて、でも、素晴らしかった。命が一つ、目の前で熱を放っていた。忘れていないし、きっともう死ぬまで忘れない。

 それなら私は、失ったのではなく、得たのではないか。

「青子、ちょっとなにしてるの?」

 怪訝(けげん)そうな声とともに揺り起こされる。目を開けると、眉をひそめた母親の糸子(いとこ)の顔があった。青子は、両親がもう子供を持つのを諦めかけていた三十代の後半に思いがけず授かった子供で、慈しんで育てられた。糸子がよくアニメの曲を弾いてくれた、年季の入ったアップライトピアノ。かつてたくさんの絵本を収納し、今は父親の健太郎(けんたろう)のレコード入れになっている背の低い本棚。幼い青子がたびたびチョークで家族の絵を描いた、壁に立てかけて使う小さな黒板。この家には幸福な記憶をよみがえらせる品物があちこちに置かれている。

 糸子を見た青子は急に心がほどけ、学校で良いことがあった日の帰り道のように、彼女に報告したくなった。今、とても大切なことがわかった気がする、と。ふいに叩き落とされた新しい星で、握り締めていられるものを見つけたかもしれない。

「あのね……なぎさが、そばにいるの。私を慰めてくれてる。だから私はこれから、一人でもちゃんとやっていけると思う」

 もう心配しないでと伝えたかった。もしかしたら、よくそれに気がついたね、と褒められることすら、どこかで期待していたのかも知れない。しかし日溜まりをかき混ぜる娘の手に目を向けた糸子の顔は、みるみる青ざめていった。

「一人でも、って……なに、なに極端なことを言ってるの。一人でなんてそんな……年をとってから後悔したって遅いのよ? あのね青子、辛いのは本当にわかるけど、ちゃんと現実を見なきゃ。気持ちを切り替えて、次の生活に踏み出すの。子供はいらないっていう男性だって探せばきっといるわ。一人なんてだめよ。だってなぎちゃんは、なぎちゃんは……」

 もういないのよ、とうめく糸子の内部で悲しみがみるみる膨らみ、それ以外の感情や思考を塗りつぶしていく様が、見えるようだった。ああお母さん、いっぱいにならないで。青子は胸が詰まった。もう糸子にメッセージは届かない。青子が見つけたどんな真実も、幼稚な妄想として拒まれる。

 新しい星で、青子はやはり一人だった。墜ちた砂地で途方に暮れて、すすり泣く母親を眺めていた。


 水曜日と土曜日を除く週五日、青子は自分が受け持つ授業が始まる十五分前に教室に入り、スマートフォンをプロジェクターに接続して洋楽のミュージックビデオを一つ、リピート再生する。最前列の長机には、その日選んだ曲の歌詞の原文と和訳を並べて印刷したプリントを置いておく。三十人ほどの生徒達は教室に入るとプリントをとって適当な席に座り、休憩しながらミュージックビデオと手元の歌詞を見比べる。なるべくCMで使用された曲や、夏のフェスなどで来日している人気アーティストの曲を選ぶことにしている。英語をただの受験のノルマとみなすのではなく、知らない文化を理解するツールとして少しでも楽しく使いこなして欲しい——というのが志の高い講師としての意見で、実際は、連日の受験勉強と部活に疲れ果てた高校生達の眠気をとにかく覚ましたい、というのが本音だった。特に金曜日の二十時から始まる授業は一週間の疲れが噴き出る魔の時間帯らしく、開始から十分で居眠りを始める生徒が後を絶たなかった。まず始めにメロディアスな曲や、歌詞に面白さのある曲を流し、とっかかりを作ってから授業に入りたい。

 始業のベルが鳴り、ミュージックビデオの再生を止める。

「はい、それじゃあ始めます。歌詞のアンダーラインを見てください。うん、sorrowね。悲しみ、悲嘆、なんて訳されることの多い単語です。この歌では自分を痛めつけた恋人への怒りと決別が歌われているわけですが、このmy sorrowはその前の二行も踏まえて解釈した方がよくて……恋人が他の人と浮気しまくるのを、好きにしなさいって見放してるんだね。しかしそれでは求めているものは手に入らないと、いずれあなたも気づくだろう。そのとき私の悲しみは黄金の宝となる、と挑発しているわけです。ちょくちょく出てくる単語だから、このお姉さんの気迫のこもった歌声と一緒に覚えておいてね。では、テキスト七十二ページの例題を読んでみましょう——」

 授業が終わり、ホワイトボードの板書を消していると、虹色の角を持つユニコーンのぬいぐるみを学生鞄につけた女子生徒が声をかけてきた。

「ねえ、今年は夏期講習やるの?」

「え、やるよもちろん。どうして?」

「塾のホームページの夏期講習のところ、森崎先生の写真がなくなってたから。もしかして中止になったのかなと思って」

「たぶんなにかのエラーだよ。教えてくれてありがとう」

「来週はテイラーの新曲がいいな」

「考えておくね」

 生徒たちを送り出し、青子は教室の扉を施錠して職員室へ向かった。スマホでホームページを確認したところ、確かに数日前まで英語科の常任講師として表示されていた自分の写真が消え、名前と経歴のみの紹介に変わっていた。システム担当のスタッフに声をかけ、写真について確認する。すると難しい顔で、塾長室を示された。不穏な予感に胃が重くなる。

 塾長の牧原(まきはら)は五十代半(なか)ば、物腰は丁寧だがどことなくつかみどころのない人物だ。小柄で背が丸く、羊を思わせる柔和な顔立ちをしていて、黒縁の眼鏡の印象が強い。

「保護者からのクレームが入ったんですよ。おたくの森崎ってのは、授業で宗教を押しつけているのかって」

「一体なんのことですか?」

「授業で賛美歌を流し、歌詞を配ったそうじゃないですか」

「賛美歌は流していません。確かにサビにハレルヤという歌詞が入った曲は先週の授業で使用しましたが、あれは映画やドラマでたびたび使用されているメジャーなポップソングです。教養として、また、breakという単語を説明するのに適切なテキストとして紹介しました」

「ええ、ええ、わかりますよ。森崎先生にも考えがあったのでしょう。でも保護者の中には誤解をする人もいます。しかもネット上で先生の名前を検索すると、特定の宗教施設で子供たちを指導している写真が出てくるそうですね。もちろん信教の自由があるのだから、先生がなにを信じるかは自由です。ただ、うちの塾がまるで特定の宗教を推奨しているかのような印象が広まるのは、ちょっと」

「指導って……子守りのアルバイトでしょうか。手遊び歌を教えただけです。なにが問題視されているのか、よくわからないのですが……」

 実家を出て新しい住居に移ったばかりの頃、なんとなく近くのステンドグラスの美しい教会に立ち寄り、入り口で電球を替えていたスタッフの女性と仲良くなった。英語版の聖書を勉強している最中だという彼女と一緒にわかりにくい部分を検討したり、幾度か頼まれて教会に通う子供たちの面倒をみたりと、しばらく交流が続いた。

 ネット上の写真とは、その子守りの様子を写したもののことだろう。親たちがお堅い勉強会に参加する間の、一時間ほどの会だったが、日本でもよく知られたマザー・グースの童謡を英語で手遊びつきで教えたところ、ずいぶん盛り上がった。早期の英語教育になる、と親たちからも喜ばれ、教会は青子を正式な講師とみなして謝礼を払ってくれた。塾の仕事が忙しくなるにつれて足は遠のいたが、いい近所づきあいができた、と爽快な印象が残っている。青子の後は、英語に堪能な大学生アルバイトが託児サービスを引き継いでいると聞く。

 眼鏡の薄いガラスで隔てられた牧原の黒い瞳はのっぺりとしていて、奥行きがあまり感じられない。青子は迷いつつ口を開いた。

「ようするに、授業の前に音楽を流すのをやめてほしい、ということでしょうか」

「そうは言っていません。実際に生徒たちは喜んでいるようですし、わざわざ他クラスからも歌詞のプリントをもらいに行く生徒がいるくらいだと聞いています。先生の取り組みに関心を持っている保護者も多い。ただ、変な誤解を生まないようにしてほしい、というだけですよ」

「変な誤解」

「ええ。ネット上の森崎先生のイメージと、うちの講師としての森崎先生のイメージが簡単につながるから厄介なことになるんです。だから、一時的にこちらの写真は下げさせてもらいました。よければ宗教施設のホームページに掲載された写真を取り下げてもらってください。そうすればこちらの写真をのせられます」

「ちょっと待ってください。賛美歌は流していない、布教をしていたわけじゃない、そして私が授業で使用した曲が一般的なポップソングであることは、それこそ曲名やアーティスト名を少し検索すればわかることです。私のプライベートを勝手に詮索した挙げ句、そんな軽率な誤解をする人のために、私が行動を変えなければならないんですか?」

 そもそも言いがかりをつけられた時点で対象者の意見を聞き、「そのような事実はありません」と否定するのが組織の長の役割ではないのか。牧原は自分もとても困っているとでも言いたげに肩をすくめた。

「まあ、こういうご時世ですから、悪い噂は広まりやすいものです。そのあたりをもう少し、森崎先生にも考えてもらわないと」

 驚いてしまう。牧原は青子とその保護者のどちらの言い分が正当であるかなど、微塵(みじん)も興味がないのだ。言いがかりをつけられること自体を落ち度と見なし、「人の目に留まるようなことはするな」となんの思想もなく被雇用者にプレッシャーをかけている。

「牧原先生がおっしゃりたいことはわかりました。失礼します」

 それだけ言って塾長室を出た。扉を閉め、深々と息を吐く。


 なぎさは、育つのが遅い胎児だった。

 脈拍が出るのも、体重が増えるのも、手足が伸びるのも、遅め。それでも、じりじりと育ってはいた。心配が雪のように降り積もる重苦しい日々を耐えながら、青子と穂高は生まれてくる子供に関するあらゆる可能性を考え、話し合い、心の準備をした。妊娠四ヶ月目には正常とみなされる発育の範囲から外れてしまい、青子は近所の産科から、より体制の整った子供向けの総合病院へ転院した。

 精密検査を受けても、発育不良の原因はわからなかった。青子は妊娠がわかってから酒は一滴も飲まなかったし、煙草も吸わなかった。血圧が上がり気味で、妊娠高血圧症候群の前兆が見られたため、三食をほとんど味のしない、冗談のようにまずい減塩食で過ごした。不正出血があり、幾度か入院もした。有休はあっという間になくなり、休職制度のない小さな英語教材製作会社は、それ以上青子を雇っていられなくなった。妊娠八ヶ月、青子の血液検査の結果が急激に悪くなり、それ以上の妊娠の継続は母体が危険だと判断され、帝王切開手術で胎児を取り出すことになった。

 生まれてきたなぎさは、両のてのひらに納まってしまいそうなほど小さかった。鼻と口は人工呼吸器で覆われ、他にも全身がいくつもの管につながれていた。

「とにかく二人とも無事でよかったよ。俺は、最悪の想像もしてた」

 青子となぎさの両方が手術室から生きて戻らない、そんな可能性もあった。そうだね、と頷(うなず)きながら、車椅子に乗った青子は縫い合わせたばかりの腹を押さえて保育器を覗き込んだ。

「なんてかわいいんだ」

 穂高がたまりかねたように言う。青子は深く混乱していた。麻酔で朦朧(もうろう)としながら、手術室で産声を聞いた。その瞬間に胸に降り落ちたのは喜びや安堵(あんど)ではなく、真っ黒な罪悪感だった。産んでしまった。まだ体ができていないのに、産んでしまった!

「そうだね、かわいいね」

 なぎさは目を閉じていた。ショックで心が痺れていて、本当にかわいいのか、かわいくないのかもわからない。看護師に促されてそっと裸の背中に触れる。赤みを帯びた新生児の体はこの世で触れたどんなものよりも熱く、少しの弾みで潰してしまいそうなほど柔かった。畏(おそ)れのあまり、指先が痛む。火傷(やけど)でもしたみたいに。


 バスに揺られるうちに雨が降り出した。車窓を埋めた水滴が斜めの筋を描いて後方に流れていく。青子は授業中にスマートフォンに届いていた糸子からのメッセージの通知をタップし、なるべくなにも感じないよう努めつつ文面を開いた。なにか感じ始めると、読むのがいやになってしまう。そして彼女のメールは今日も小さな「いや」を運んできた。入院中の母方の祖父が消息を聞きたがっているから、お見舞いに行きなさいという指示だった。先月実家に顔を出した際にも同じことを言われ、断ったばかりだ。

 しばらくおじいちゃんには会いたくない、とリビングでコーヒーを飲みながら告げたところ、糸子はカップを唇に当てたまま、まるで壊れた機械のように動きを止めた。

「ど……どうしちゃったの、あなた。あんなにおじいちゃんが好きだったのに」

「お母さんだって聞いたはずだよ。あの人はなぎさが保育器に入ったって聞いた途端、青子ちゃん煙草吸ったんだろう、って決めつけた」

 知的で、茶目っ気があって、クリスマスに訪ねるたびに大きなケーキを用意して待っていてくれて、寒い日にはこたつを挟んで将棋を教えてくれた母方の祖父に対して、青子は親族の中で一番親しみを感じていた。だからこそ、なにげない一言に刺された傷は今でも血が止まっていない。

 糸子は頭痛でもこらえるように、こめかみを押さえた。

「古い人なんだよ。悪気はないんだから……」

「違う。あの人はあの年齢まで、人生にはどうにもならないことがあるって学ばなかったんだ」

「そんなことを言ったってしょうがないでしょう。おかしいよ。性格が曲がって、おかしくなってる。あんたがだよ、青子」

「そうだね。一緒にいるとおかしくなるから、やっぱり私はここを離れた方がいいんだ」

 なぎさを身近に感じたあの昼下がりから、糸子との会話は食い違い続けていた。翌年、青子が二十九歳になると、溝はますます深まった。子供を産めないのだからせめて二十代のうちに出会いを探すべきだ、と糸子は青子に婚活を強いた。一人でもいいんだ、無理をして相手を見つけたいとは思わないといくら説明しても「私を安心させてほしい」の一点張りで、聞く耳を持たなかった。父親は時々彼女をいさめるものの、この問題には関わらないと決めた様子で口を閉ざしていた。結局、青子は戻ってから二年も経たないうちに実家を出た。

 顔を上げると、濡れたバスの窓に赤とオレンジと緑の光が映っているのが見えた。かつて子供たちに手遊び歌を教えた教会のステンドグラスだ。夜間の礼拝か、もしくは仏教でいうところの通夜にあたる儀式でもやっているのだろうか。まだ活動中らしくライトアップされている。

 あのステンドグラスを、礼拝堂の内側から見上げた日々があった。昼間は礼拝中でも一般の出入りが自由な、開かれた教会だ。堅い木の長椅子に座り、静けさの中で日光に輝くガラスを眺めていたり、響きの良い牧師の祈りに耳を傾けたり、そうした時間を過ごすうちに、青子は波立った心が均(なら)されていくのを感じた。あんなに好きだったのに、母親や祖父と一緒にいるのが苦しい。昔の青子に戻って欲しい、と願う彼らからは、「普通」からはみ出してしまった自分を咎(とが)め、治したがっている気配を感じた。

 そしてそれは、物事の実情よりも「誰にも批難されないこと」を第一とする牧原の姿勢にもつながっている気がする。みんなが想像する「普通」からはみ出してはいけない。「普通」じゃないことが起こるのは、なにかしらの恥ずべき異常があるからだ。年頃の娘が再婚を望まないのは、ストレスで頭がおかしくなったから。子供が死ぬのは、母親に不手際があったから。クレームはどれだけ見当違いでも、つけられた方にも落ち度がある。あなたが普通じゃないから、普通じゃないことが起こった——。

「家族と仲良くしたかった」

 教会で午前中を過ごしたある日、ぽつりとこぼれた幼稚な本音を、隣の席でミサのプリントを用意するスタッフの鶴島(つるしま)だけが聞いていた。彼女は短く青子を見つめ「わかりますとも」と厳(おごそ)かに頷いた。

「でも、それを選べない時があるのも、わかります」

 青子と同年代の鶴島は、教会のスタッフになる前は幼稚園教諭だったらしい。結婚式や葬儀で教会が忙しい時を除いて、今でも教会附属の認定こども園でアルバイトをしている。もうすぐ中学生になる息子がいて、夫との死別をきっかけに教会に通い始めたという。色んな人がいるものだ。それぞれの人が、生きるうちに思いがけず運ばれた未知の場所で格闘している。

 実家を飛び出し、一人暮らしを始めた自分が教会の前で足を止めたのは、ただの気まぐれではなかった、と振り返って青子は思う。静けさなり、誰かとの落ち着いた会話なり、なにかしら求めるものがあったのだ。様々な選択、様々な出会いを積み重ね、なんとか立て直して今の自分がある。それを思えば、世話になった教会に当時の写真を削除してほしい、なんて筋違いの依頼を出すのは気が引けた。かといって、あの馬鹿馬鹿しいやりとりをこれからずっと、牧原と繰り返していくのも憂鬱だ。正直なところ牧原の下を離れたい気分だったが、少子化に伴い塾講師、とくに社員講師の求人は激減している。そう簡単には辞められない。

 まもなく終点です、とバスの運転手が平たいトーンでアナウンスする。手元のスマホが点(とも)り、新しいメッセージの到着を告げた。明日、一緒にドライブに行く約束をしている茅乃(かやの)からだ。

 【おつかれさま! 明日はいつも通り駅前に八時で大丈夫?】

 大丈夫、と青子はすぐに返信する。三秒ほど考え、少し足を延ばして海を見下ろす温泉にも入らない? と付け足した。

 【いいねえ、もちろん。露天風呂でゆっくりしよう】

 大学の合気道部で出会い、十年を超える付き合いのある茅乃は、いまや五歳の娘の母親だ。二ヶ月に一度くらいの間隔で連れ立って郊外の道の駅に買い出しに出かけたり、近場の行楽地に遊びに行ったりしている。

 やりとりは終わりかと思いきや、茅乃からもう一つ、メッセージが届いた。

 【色々話したい】

 茅乃がこういう思わせぶりな書き方をするのは珍しい。なにかあるとすぐに長文で打ち明けてくる、ざっくばらんな人だ。

 【なにかあったの?】

 夫婦喧嘩でもしたのだろうか。それとも、娘の保育園での悩み? 共通の知人に関すること? わからない。返事が来るよりも先に、バスが駅のロータリーにすべり込んだ。一斉に席を立つ乗客の流れに乗って、青子も車両を降りる。

 雨は降り始めよりは弱まったものの、まだぱらついていた。パンプスから覗いた足の甲に細かな雨粒がかかり、不快だ。キャンバスバッグから折り畳み傘を取り出す。今日はなんだかついていない。濡れてぎらぎらと光るアスファルトを見ていたら、急に疲れを感じた。甘いものが欲しい。

 最近流行(はや)りの中国茶の店に立ち寄り、ホットのジャスミンミルクティーをシロップ多めのテイクアウトで注文する。青子よりも先に注文し、目の前でチョコタピオカミルクティーを受け取った小学生ぐらいの女の子と目が合った。女の子の目が少し大きくなる。よく外遊びをしているのだろう、日焼けをして活発そうな、見覚えのある子だ。

「マザー・グースの先生だ」

「ああ……どうも、こんばんは」

「じゃあね」

 子供は愛想笑いをしない。透明な無表情でひらっと手を揺らし、少女は店の外で待っていた母親と、手を繫いで帰っていった。


 こぢんまりとしたワンルームに帰り着いたのは二十三時だった。湿った服を脱いで熱いシャワーを浴び、部屋着に着替えて一息つく。

「なぎ、ただいま」

 青子は冷蔵庫から子供向けの林檎ジュースを取り出し、敷きっぱなしの布団のそばに設置した小さな仏壇にそなえた。黒漆の位牌を、親指でくすぐるように撫(な)でる。

「今日は雨だよ。少し疲れた。もう六月なのに、なかなか暖かくならないね」

 グラス一杯の赤ワインの他、レトルトのトマトソースに解凍したごはんを入れて煮立て、最後にとろけるチーズをまぶした簡単なリゾットを用意して、遅い夕飯にした。

 スマホが光る。

 【明日ゆっくり話すよ】

 ずいぶん間が空いたなと思いつつ、茅乃からの返信にOKとサムズアップをした猫のスタンプを返す。続けて、おやすみ、と布団に入ったうさぎのスタンプを送る。すぐに茅乃からも似たようなスタンプが届いた。

 重めのワインを一口飲む。

 茅乃と、食事をした。あれは確か、なぎさの葬式のあとだった。なぎさのことも離婚のことも、あまりに話題として重苦しく、一番親しい茅乃にも話せるようになるまで数週間かかった。子供を亡くした、もう家族で葬儀はした。色々あって、環境が激変した。そう連絡した翌日の夜には、茅乃は黒いワンピースを着て青子の実家を訪ねてきた。青子とその両親に丁寧なお悔やみを言い、実家の仏壇に置かれていたなぎさの位牌に手を合わせた。それから、青子を近所のレストランへ連れ出した。

 アルコールが入った方が話しやすい気がして、二人で赤ワインを飲んだ。あのときにも。

「そういや青子、お酒好きだものね。妊娠中に禁酒するの辛くなかった? 私はもうめちゃくちゃ辛くてさ、おしゃれな料理で晩酌してる有名人のインスタグラムとか、目の毒過ぎて全部フォロー外したの覚えてる」

 茅乃は答えやすい話題を選んで振ってくれた。だから青子も、それほど身構えずに答えることが出来た。

「禁酒も辛かったけど、一番しんどかったのは減塩かな。三ヶ月ぐらい、毎日ほとんど味のないものばかり食べて、自分の分だけ味噌汁も薄くして……なんかずっとイライラしてた。うまく眠れないし、自宅安静だったからあまり気軽に外に出られるわけでもないし、血圧計が怖くなってさ、測らなきゃって思うと、もうそれだけで十くらい数値が上がるの」

「我慢してえらいよ。頑張ったね」

「でも、だめだった。ほんとはもっと、他の人みたいに、普通の、健康な状態で」

 産んであげられたら良かった、と言いかけた言葉が、喉で詰まる。ワインを一口飲み、代わりの言葉を探していると、茅乃が先に口を開いた。

「青子がそうして頑張ったから二ヶ月間、一緒にいられたんだよ。なぎさちゃんは絶対に嬉しかったよ。きっとお腹にいた頃から、ずっと」

 青子は驚いた。そんな風に言ってもらえるとは思わなかった。そして、同じ言葉を祖父が言ってくれたらどんなに良かっただろうと泣きたくなった。

 食事を終え、歯を磨き、明日に備えて少し早めに横になる。茅乃の話がどんなものでも、慎重に耳を傾けて彼女に寄り添おう。そしてそれは、けっして簡単なことではない。これほど言葉が嚙(か)み合わなくなった糸子だって、心から娘を心配してくれている。だから余計に、辛い。

 照明を消した。薄い毛布を体にかける。

「なぎ」

 目をつむって呼びかけると、心に甘いものが湧いた。手のひらに、温かな皮膚の感触がよみがえる。生のパン生地みたいな頰の柔らかさも、小さな爪のひっかかりも。

「大好きだよ」

 なぎさがいる、と青子は確信している。自分の中に、ずっといる。慈しんで生きていけるほどの確かさで。

 そして、穂高を気の毒に思う。仕事が忙しい彼は病院の面会時間に間に合わず、週に二日しかなぎさに会えなかった。手に体温が染み渡るよりも先に、別れの時が来てしまった。

 なぎさは保育器で順調に大きくなった。人工呼吸器が外れ、体につながれたチューブが減った。体重が増え、肉づきが良くなり、髪が増えた。肌の赤みが消え、黒い目をしっかりと見開いて、赤ん坊らしいかわいさが出てきた。授乳の練習も始まり、退院の見通しが立っていた。

 亡くなった原因は不明で、眠っている間に呼吸が止まってしまった。未明に呼び出しを受けた青子と穂高はタクシーで病院へ駆けつけ、まだ温かいなぎさを抱いた。まぶたを閉じていた。眠り続けているみたいだった。

 葬儀の後、穂高は塞ぎ込んだ。寂しくて寒くて仕方がない、と小さくなってずっと毛布を肩にかけていた。長い話し合いをした。出産前になぎさが上手く育たなかった理由は結局、わからなかった。こういうものはわかることの方が少ないらしい。なぎさ自身に目立った因子は発見されず、胎盤やへその緒にも異常はなかった。そうなると母体になんらかの体質的な因子がある可能性が残った。もちろん原因はまったく別で、次の妊娠では問題なく発育するのかもしれない。ただ、妊娠するなら設備の整った総合病院に通うようにしてください、と医者からは念を押された。自分がハイリスクな妊婦であることは間違いなかった。

「私はもう、やめておく」

 時間をかけて決めて、伝えた。万が一、再びあの真っ黒な罪悪感に苛(さいな)まれるような事態に陥ったら、耐えられる気がしなかった。すると、毛布をかぶった穂高の体が一回り小さくなった。

「俺は……どうしても諦められない」

 ごめんなさい、とうめく夫の頰がみるみる濡れ、全身が細かく震えだした。生まれたばかりの未熟児を青子よりも先にかわいいと言った夫は、それだけ子供へのこだわりが強かったのだろう。うん、と頷き、青子は穂高の背をさすった。自分たちは気の合う夫婦だったし、愛し合っていたと思う。愛が選ばれない状況もあるのだと初めて知った。そうして夫は、別の人生へ向かった。


 駅前でクラクションを鳴らす茅乃に、普段と変わった様子はなかった。メタリックな光沢のあるピンクのロングプリーツスカートに、深い緑のシフォンブラウスを合わせている。相変わらず、派手で可愛い服が好きだ。腰まで伸ばした栗色の髪を、美しい金のバレッタで留めている。

「なんか浮かれてる?」

「そりゃあもう。漁協の市場のホームページをチェックしたら、もう岩牡蠣(いわがき)があがってるって。牡蠣様のためにお洒落しなきゃ」

「好きだねえ」

 茅乃とは反対にワイドデニムにワッフルTシャツというラフな格好で、青子は助手席に乗り込んだ。お互いの仕事の話、子供の話など、近況報告を交わして高速を走る。茅乃の望み通り、海っぺりの市場で獲れたての牡蠣を食べ、ノンアルコールビールを片手に海岸を散歩し、道の駅で野菜と卵を買って、最後に日帰り入浴のできるホテルに立ち寄った。

「乳癌になったよ。来週、手術」

 長い髪をタオルでまとめた茅乃は、露天風呂のへりに腕をのせて午後の海を見ながら言った。二秒、青子は思わず言葉を失った。

「……それで、容体は?」

 口に出してから、馬鹿なことを聞いた、と後悔した。どんな容体であれ、不安なことには変わりないだろう。茅乃は軽く肩をすくめた。

「んん、ちょっとは心配な感じ、かな」

「そう……」

 目の前の海よりもよほど濁った感情の海が、青子の内側で水位を上げた。ひらっと軽く手を振った、命を宝石のように輝かせた女の子が瞼(まぶた)をよぎる。茅乃の娘は、まだ五歳だ。中国茶の店で出会ったあの女の子よりもさらに幼い。自分たちの年齢でまさか、若すぎる、いやだ、なんてこと、ひどい、ひどすぎる——だめだ、自分の感情でいっぱいになったらだめだ。青子は細く息を吸った。手桶を使い、新しい星に叩き落とされたばかりの友人の肩に湯をかける。

「まずは、ペースを作ろう」

「ペース?」

「うん。これから、治療を生活に組み込んでいくことになるんでしょう? 一番楽なペースを考えよう。私も一緒に探す」

 茅乃はぽかんと口を開き、緩慢なまばたきをした。

「そうか、生活……どんな時でも、生活があるのね、きっと」

 幾度目かのまばたきの後、茅乃の目尻からぽつりと涙が落ちた。声が小刻みに揺れる。

「む、娘の、前で、泣きたく、なくて」

「そうだよね、わかるよ」

「怖くなったら、電話していい?」

「もちろん。朝でも夜でも、いつでもいいよ。仕事中だったら、終わってから必ず折り返す」

 茅乃は濡れた目尻を手の甲で押さえ、顔をそらした。よく晴れていて、温泉の水面には光の網が浮かんでいた。白い海鳥が水平線の近くを飛んでいる。

 彼女の涙が止まるまで、それぞれに景色を眺めながら、静かに湯につかっていた。


◇ ◇ ◇

 続きは本書でお読みください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?