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音楽家・細野晴臣の決定版評伝 『細野晴臣と彼らの時代』 第一章 「細野の家」冒頭を公開!

もうこれ以上、話すことはないです。——細野晴臣

「はっぴいえんど」「ティン・パン・アレー」「YMO」で彼は何を生み出したのか。

膨大な資料、そして本人をはじめとし、松本隆、鈴木茂、坂本龍一、高橋幸宏、林立夫、松任谷正隆、矢野顕子など共に音楽活動をしてきた人々への取材で浮き彫りになる、音楽家・細野晴臣の決定版評伝。

◇ ◇ ◇

1 細野の家


 細野晴臣はまだ何者でもなかった。

 一九六八年。

 全共闘の運動が全国に広がり、グループ・サウンズのブームがピークを迎え、やがて終息していったこの年、細野は立教大学に通うひとりの学生だった。

 音楽三昧の生活を送っていた。レコードを聴く。楽器を演奏する。細野は音楽に明け暮れた。

 アマチュアのバンド活動をしていた彼のベースの腕は、すでに一部では有名なものだったが、音楽で名を成す未来の展望は彼にはなかった。

 けれどもその思惑とはうらはらに、一九六八年のわずか一年のあいだに、彼はいくつかの決定的な出会いを果たしている。

 その最初の出会い——細野の家にマッシュルーム・カットの青年がやってきた——は一月から三月のあいだのできごとだった。

 東京都港区芝白金台町、現在の港区白金台に細野が青年期まで暮らした家はある。一九四七年七月九日に細野は、その家から歩いて数分のところにあった長屋で生まれた。

「生まれたのは現在のプラチナ通りに面した利庵というお蕎麦屋さんの隣です。当時はそこが長屋になってつながっていて、お産婆さんが住んでいた。お産婆さんというのはぼくの大叔母なんですけど、そこで取りあげられたんですね。そのころ住んでいた家はすぐ近くの日本家屋で、部屋のなかでハイハイしている風景を覚えています。それが最初の記憶です。暗くて、畳敷きで、自分がちっちゃいせいかすごく広いんですよ。遠くには円卓があってね、卓袱台の大きいやつ。そこに向かってハイハイしていって、円卓につかまって、立ちあがった瞬間のことを覚えてる。なぜ覚えてるかというと、立ちあがって力んでいたところを、後ろからいきなり母親に抱きかかえられたからです。その衝撃まで覚えてますから。二歳くらいのときかな」

 三歳になった細野はその日本家屋から白金台の家に引っ越した。それは母の両親と母の弟が三人で暮らす家に隣接した新築の家だった。

 家財道具のいっさいをリヤカーに積みこみ、荷台に細野がちょこんと座り、学生だった母の弟がそれを引いた。その引っ越しの日の光景が細野には鮮明な記憶として残っている。

 引っ越したときには木造モルタルの平屋だったが、子どもたちの成長にともない建てましされ、その後二階建てになり、細野の部屋が二階に作られた。「お神楽建築っていうんですけど、当時の日本の家はそうやってよく増築したんです」細野は言う。

 父の日出臣と母の玲子はふたりの子どもをもうけた。細野と、彼の三歳上の姉、理恵子である。姉弟は引っ越したその日からふたりで近所を散策した。あたりにはまだ戦争の跡が残っており、あちらこちらに空地があった。

 現在ではプラチナ通りと呼ばれている外苑西通りのその一角は、そもそも太平洋戦争中まで民家の並ぶ宅地だったのだが、戦争の影響により一度更地になった。リヤカーを引いた叔父の中谷滋が回顧している。

〈もともと道路計画があったことと、近くに焼夷弾が落ちたので延焼を防ぐねらいで、そのあたりの家が意図的に壊されたのです。戦後4~5年は、皆さんあの通りを畑として使い野菜を育てたりしたのですよ〉(『みなとっぷ』二〇一二年八月号)

 細野の家の前は、そういった理由から原っぱになっていて、幼い姉弟はそこを格好の遊び場にした。細野は姉の遊び相手をさせられ、姉の女の子の友だちにまじり毬つきやゴム跳びをして、メンコやベーゴマ遊びをする男の子たちを遠くから眺めた。

 彼は集団行動が苦手だった。集団から離れたところで、ひとりで遊ぶのを好んでいた。そのため白金幼稚園に入園する前日には、生まれてはじめて抱く絶望感に苛まれていた。

「なにしろ集団が怖かったから、家の縁側でそれまでの幸せだった人生を反芻していたんです。明日からはいままでのように自由にはいかないんだなと。あきらめましたけどね。あきらめて、幸せだったそれまでの時間におさらばしたんです」

 ある日、自転車に乗る細野の前に原っぱからボールが転がってきた。近所の少年たちが野球をしていたのだ。だが集団とは関わりあいになりたくなかった細野が、素知らぬ顔で通りすぎようとしたところ、彼らに呼びとめられ、言いがかりをつけられた挙句にグローブで頭を叩かれた。細野は泣いて逃げ帰った。「ぼくが野球嫌いになったのはそのせいかもしれない」彼は回想する。

 白金小学校に通いだしたころの細野は、おとなしい、引っこみ思案の少年だった。ところがクラス会の余興でしぶしぶ猿の真似をしたところ、それが思わぬ好反応だったことに味をしめた。おさるさんとあだ名を付けられた彼は、ほどなくつねにふざけてばかりいるお調子者の少年になった。

「ぼくの原点はほとんどすべて杉浦茂なんです」

 小学生の細野は『猿飛佐助』をはじめとする杉浦茂のナンセンスなギャグ漫画に魅了され、作中のキャラクターになりきり、その仕草や言葉づかいを真似した。「トトイケナイ」とか「レレレ」とかいった漫画のキャラクターの言いまわしを、そのまま。

 彼はいつしか漫画家を志していた。小学校の同級に画家の父を持つ友人がいた関係から、絵のうまいその少年と張りあうかたちで、細野もたくさんのいたずら書きをノートにした。

 青山中学校に進み、貸本屋で白土三平の『忍者武芸帳』に出会った細野は、同じころ黒澤明の『用心棒』を見て驚愕したこともあり、すっかり時代劇の虜になった。中学時代の夏休みに彼がはじめてわら半紙に描いた長編漫画は『影蔵伝』という時代物だった。

 立教高等学校に進学すると、のちに漫画家となる西岸良平が同じクラスにいた。彼と意気投合した細野は『洞穴』と題した忍者漫画を共作した。西岸はそのころの細野を評して、〈忍者ものにおけるこの形式の先駆者は立教一の奇人マンガ家細野晴臣先生で、僕などは大いに彼の影響をうけた一人であります〉と、そのあとがきに記している。

 けれども西岸と比べたとき、自分の絵はあまりにも見劣りして稚拙だと感じた細野は、漫画家になることをあきらめた。


 漫画と同様に細野を夢中にしたのが音楽である。

 細野は幼いときから音に抱かれるようにして育った。細野の家はつねに多様な音に包まれていた。

 明け方になると、あさり売りやしじみ売りの売り声が静けさを破って聞こえてくる。ほどなく朝の気配を連れてやって来るのが牛乳配達の自転車だ。かちゃかちゃと牛乳瓶を揺らしながら。そして新聞配達の自転車の音があとに続く。

 もの売りの立てる声や音が路地に響いた時代である。戦後の数年を同じ芝白金台町で過ごした作家の古井由吉が当時のことを記録している。

〈物売りの声が耳に立つようになったのは物資の統制がややゆるんできたしるしだろうか。(中略)野菜売りの「千葉の小母さん」が十日に一度ほど路地を入ってくる。背丈に余るほどの荷物を担いでいる。上のほうには野菜や佃煮を載せているが、下には闇米が詰まっていて、それで我が家も助かっていた〉(『半自叙伝』)

 細野の家にも千葉のおばさんたちはたびたびやってきた。

「大きな行李を背負って、もんぺを穿いていてね。収穫ごとにここに来てくれたんです。五、六歳ごろかな、ずいぶん来てたと思うけど。ぼくがいちばん好きだったのは茶まんじゅうね。手作りの茶まんじゅうで、わらの匂いがして、すごくおいしいんだ。おばちゃんが縁側に来て座ると、坊やには茶まんじゅうって言ってすぐくれる。もちろん後でお金を取られるんだけど(笑)」

 もの売りにもさまざまな種類があった。昼には竿竹売りや金魚売りが呼びあるき、豆腐売りはラッパを鳴らし、風鈴売りが涼しげな音色を響かせた。風鈴のちりんちりんという音を聞くたびに、「あ、夏だ」と細野は思った。

 隣家に住む母方の祖父、中谷孝男は日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)を経て、調律師として独立していた。そのため中谷家の作業場からは、ピアノを調律する音がたえず聞こえてきて、それに近くの材木工場が木を加工する電気ノコギリの音が入りまじった。

 細野はその音楽的な音と、非音楽的な音とがどちらも好きだった。

 彼が幼心に驚いたのは、夜になって遠くから近づいてくるブーという音だ。「あれは羅宇屋だよ」と祖父は言った。羅宇屋とは、羅宇と呼ばれる煙管の管の部分を、蒸気を利用して掃除する屋台のことだ。そのオーボエみたいな蒸気の音色が細野の耳に心地よく響いた。

 細野が寝床に入るころには、街は静寂に包まれた。ところがしんとした街の彼方から、ときおり警笛やレールの軋む音が聞こえてくる。夜間の交通量が少なかった当時は、一キロメートル近く離れた国鉄目黒駅の騒音が細野の家にまで届いたのだ。その響きを夢うつつで耳にしながら、細野はすやすやと寝息を立てた。

 幼少期の細野にとって、音の出るものはなんでもおもちゃだった。

 なかでも祖父が所有した木製の電気式蓄音機、いわゆる電蓄は彼のいちばんのお気に入りだった。

 彼の母方の家系には音楽好きが多かった。祖父はクラシック、母はハリウッドの映画音楽、叔父はジャズやポップスを愛好し、そのため祖父の家にはたくさんのSPレコードがあった。細野は母や叔父にねだってレコードをかけてもらい、ときには二時間も三時間もじっとして電蓄に聴きいっていることがあった。

——あの太鼓のレコードかけて。

 そう言って母に頼み、何遍もくり返し聴いたいちばん好きなレコードは、ビッグバンドによるブギウギだった。ドラムの軽快なリズムが印象的だったブギウギは、幼い細野の体を自然と揺らした。そのうち彼はひとりでレコードに針を落とし、好きな音楽を聴くようになっていった。

 白金小学校に通っていた二年生の冬には、姉が教わっていた先生のもとでピアノを習いはじめた。

 最初はバイエルの教本からスタートし、次にメトードローズに移ったのだが、細野はこの初級用の教本が取りあげた、メロディの美しい練習曲を弾くのが好きだった。そのメロディは彼に深く入りこみ、小学五年生でピアノをやめたあとも彼のなかに残った。

 細野をますます音楽に引きよせたのは当時の大衆的なメディアだった。

 彼は道を隔てた向かいの家に住む母の妹夫婦の家に足繁く通い、そこでさらに多くの音楽に触れた。というのは、その叔母は戦前からパラマウント映画の日本支社で秘書の仕事をしており、ハリウッドの映画音楽をはじめ欧米のSPレコードをたくさん所有していたからだ。あるとき叔母の家が突如として大騒ぎになったことを細野は覚えている。

「普段からにぎやかな家だったんですけど、ハリウッドから映画スターが来るといってみんなが大騒ぎしたことがあったんです。母親もダンス・パーティがあるからってそわそわしていてね。いろんな人が家に集まってきて、まずはじまったのがパーマのこて当て大会(笑)。美容師さんが来て、カプセルみたいなものが置かれて、あたりにはパーマ液の匂いが立ちこめてね。それを見てたら、あんたは関係ないから帰りなさいって怒られたりして。結局、誰が来たかというとジェームズ・スチュアートだったんです。サインしてもらってる写真が家にありますけど、あれは大変なイベントでしたね」

 細野はパラマウントで働く叔母や映画好きだった母の影響で幼いころから映画に親しみ、たくさんの映画音楽を耳にした。

「母に連れられてよく映画館に行って、映画の音楽に感動してました。覚えてるのは、母と姉と日比谷映画劇場で観た『ホワイト・クリスマス』ですね。アーヴィング・バーリンが作曲した歌が印象的でしたから。そのメロディを覚えて帰ってきて、姉と一緒にああでもないこうでもないと言いあいながら、思いだして歌うんです。当時はサウンドトラック盤のない映画ばかりだったので、覚えておくしかないわけでね。でもメロディだけ覚えていても意味がない。雰囲気をまるごと覚えておくことが大事なんです」

 映画音楽は細野と音楽との距離を縮め、のちに彼の創作を触発することになる。

 テレビが家にやって来たのは小学四年生になる前後だった。そのころまだテレビは高級品だったが、電器店が売りこみに来て、細野の家にテレビを置いていった。試しに見て、気に入ればあとで購入すればいいのだと言って。「それからテレビっ子になっちゃいましたね」細野は言う。

「電器屋さんが最初に置いていったのはゼネラル・エレクトリック社製の十七インチのテレビだったんです。フィフティーズっぽいデザインの真ん丸なテレビでね。でもいざ買うことになったら、代わりに十二インチか十四インチくらいのちっちゃなテレビが来た。日本製の角ばったやつです。相撲なんかも見たけど、それよりアメリカのカートゥーンやバラエティ・ショーが好きでしたね」

 細野はカートゥーンやバラエティ・ショーや西部劇などといったアメリカのテレビ番組に夢中になった。それどころか彼はテレビ・コマーシャルや放送休止時間に流れるテストパターンにも興味を持った。

 ヤシマのボンボンのコマーシャルに用いられたレス・ポールの「キャラバン」、テストパターンの背後から聴こえてくるコール・ポーターの「ユー・ドゥ・サムシング・トゥ・ミー」、そういった音楽が優美なメロディで細野を魅了した。

 小学五年生になった細野ははじめて自分のレコードを買ってもらった。映画『ぼくの伯父さん』の日本語版シングルである。次に買ってもらったのはテレビの西部劇『ローハイド』のシングル盤で、彼は小学六年生になっていた。

 細野は映画やテレビを通して西部劇に魅了され、西部劇に関連したレコードを何枚も買い、カントリー&ウエスタンに愛着を寄せた。そのころになると、『ローハイド』のディミトリ・ティオムキンやら『荒野の七人』のエルマー・バーンスタインやら、そういった作曲家の名前を意識しながら音楽を聴いた。

 一方で、幼少期から少年期にかけて彼に最も大きな影響を与えたのはラジオである。

 細野にとってラジオは最大の娯楽だったし、祖母とこたつに入って聴く冬の日の寄席中継や、音楽コントで世相を風刺した三木鶏郎の冗談音楽は、彼に最高の喜びを与えた。

 細野が強いショックを受けたのがラジオの深夜放送だ。

 イヤホンをして寝床に入り、トランジスタラジオで深夜放送を聴くようになった小学五年生のある日、彼の音楽地図は一気に広がった。

 午後十一時二十分、ディスクジョッキーのケン田島が「グッド・イブニング」と美声を響かせると、ラジオ関東(現在のラジオ日本)の人気番組『ポート・ジョッキー』ははじまる。細野は寝床のなかでこの深夜プログラムを聴きながら、ビリー・ヴォーン楽団によるテーマ曲に胸を弾ませ、番組が紹介するムード音楽の数々に興奮した。

 彼はまたアメリカの人気曲を紹介するヒットチャート番組を好んで聴いた。

 なかでもお気に入りはラジオ関東の『バンド・スタンドUSA』や、在日米軍向けの極東放送網であるFEN(現在のAFN)の『トップ・トゥエンティ』だった。彼はそれらを通して一九六〇年代初頭に一世を風靡するアメリカン・ポップスに親しんだ。ニール・セダカやコニー・フランシスやポール・アンカや、もちろん人気絶頂だったエルヴィス・プレスリーにも。

 中学生になり、テレビが普及しだしたあとも、細野にとってなにより重要な音楽の窓口はラジオだった。彼は小型のオープンリール・テープレコーダーを手に入れ、ラジオのエア・チェックに精を出し、アメリカのヒットチャートの動きに関心を寄せた。


 同じころ東北の山間の町でも、ある少年が大好きな音楽を聴きたいがために、中学校のラジオ・クラブに入部していた。

 彼はクラブの先生が作ってくれたラジオ——それは彼の住む町でもクリアに短波放送を受信した——を使用し、短波放送を経由してFENを聴き、アメリカのヒットチャートを毎週記録した。それだけでなく、番組とは異なるヒットチャートを独自に作成した。

 中学二年生のとき、修学旅行で東京にやってきた彼は、土産物代として決められていた額の小遣いをすべて日本橋三越のレコード売場で使い果たしてしまった。そのとき購入したのはフォー・シーズンズの「シェリー」と、カスケーズの「悲しき雨音(Rhythm Of The Rain)」と、その他洋楽のシングル盤数枚。それは計画した通りの行動だった。

 彼がそこまで音楽に夢中になったのは小学五年生の夏休み、親戚の家でコニー・フランシスの「カラーに口紅(Lipstick On Your Collar)」を聴いた衝撃が大きい。すっかり気に入ってしまい、その曲のレコードばかりくり返し聴いていた彼は、レコードがすり減るという理由からそれを聴くことを親戚に禁止されてしまった。

「カラーに口紅」には〈アメリカン・ポップスの良いエッセンスが全部込められてると思う〉と、彼は後年になって語っている。

〈あのリズム。ドラムとベースのタイトな感じと楽しい感じ。イントロのジェームズ・バートン風のカッコいいギター〉

 少年は瞬く間に音楽に魅了されてしまった。

 彼の名が大滝詠一である(引用は『大瀧詠一 Writing & Talking』)。


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続きは本書でお読みください。



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