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月夜を往け(2005年07月16日)

2005年07月16日 記

 夕方の散歩の途中で蝉の幼虫を見つけた。これから夜にかけて脱皮をするのだろう。一生懸命、木の高みを目指し、ゆっくりと歩を進めている。子どもは「うちで蝉になる瞬間を見たい」と言う。少々気が引けたが、摘みあげて家に持ち帰った。だがもちろん我が家には蝉が安心して皮を脱げるような、ほどよい木などありはしない。はじめはカーテンにまとわりついていたようだが、あまりに気の毒だ。そこでベランダの鉢植えをひと鉢、部屋に入れて止まらせてみることにした。はじめは「しぶしぶ」という感じだったが、しばらくすると諦めたようだ。小枝の先で幼虫はじっと動かなくなった。

 子どものほうは、その「瞬間」をビデオ撮影するための準備に余念がない。鉢の前に大判の本を積み重ねて、その上にカメラを置き、ベストポジションをさぐっている。カメラをあっちへ動かし、こっちへ動かしとせわしない。さらには、電気スタンドを勉強机から床におろし、ライティングにも気を遣っている。煌々と灯りで照らされては幼虫も落ち着くまい。ごそごそと尻を振っている。ようやくカメラ位置が決定したのは30分ほど経ってからである。場の雰囲気を虫の側も読んでいたのか知らないが、ほどなくして、背中に切れ目が走った。「ここからが長いよ」と子どもを諌めるものの、目前の不思議の前に、僕の言葉など届くわけもない。ビデオを回しながら、羽化の様子を食い入るように見つめている。

 僕のほうはあまり体調が優れず、布団の上でだらりと横になりながら、その光景を眺めていた。やがて成虫が姿を現す。脱皮をしたばかりのからだは乳白色で、緑や青のまだらがところどころに滲んでいる。「不思議な色だねぇ」と声をかけると、子どもはちょっと考えてから「お月さまの色だよ」と言う。気がつくと窓の外には半月が浮かんでいる。比べてみると、たしかに生まれたばかりの成虫は「月色」をしている。

 ビデオ撮影に区切りがついた頃を見計って、部屋の明かりを消してみた。すると、蝉のからだはもうひとつのお月様のように、闇夜に浮かんでいる。半月と蝉の放つ光だけが、僕たちを照らしていた。しばらくぼんやりと見惚れていると、ふいに正岡子規の俳句が浮かんだ。「鶏頭の十四五本もありぬべし」という有名な句だ。月夜の蝉を見ながら、なぜか僕は病に臥す子規の姿を想像した。真っ赤に色づいた鶏頭の花穂の力強さ、激しさを感じたような気がした。子規がいて、蝉がいて、鶏頭が咲き、半月が、そこにある。気がつくと、すでに朝になっていた。蝉の姿はもうどこにもなかった。

2024年03月27日 追記

 ゼミの脱皮をじっくり観察したのは、あとにも先にもこれ一回きりとなった。子どもが好奇心旺盛な時期は、親のほうもいろいろ新鮮な体験ができる。あの月夜の晩のことは、いまでもありありと目に焼きついている。

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