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『死』を意識したら、人間はどんな生き方をするだろうか

「もし自分の死ぬ年齢を知っていたら、大半の人間の生きようは一変するだろう。従って社会の様相も一変するだろう。そして歴史そのものが一変するだろう。」

これは戦後日本を代表する小説家、山田風太郎が著書『人間臨終図巻』内で述べている言葉である。


自分が死に向かって歩いていることを、普段わたしたちは忘れている。
たしかに存在しているが、概ね知らないふりをしていると言ったほうが正しいだろう。


『死』を意識したら、人間はどんな生き方をするだろうか。


過去に、自殺願望のある主人公が死を求めてあれこれやらかす小説『命売ります(三島由紀夫著)』について書いたことがある。




進んで死に急ぐ人間の気持ちが理解できなかった。
著者三島の死生観が反映されていると考えていたわたしは、その自殺願望を理解したいがゆえに本書を読んでいたわけだが、何度読み返してもついぞ分からなかった。

『死』とそれに至るまでのあれやこれやを体験したことがないのだから当然といえば当然だ。

だから「死にたがるやつの気持ちはわかんねぇ」。
当時はそう結論づけたが、その後、一度だけ死んでもいいかもしれないと思ったことがある。

それは自宅で風呂に入ったあと、濡れた髪をドライヤーで乾かしているときだった。
具体的に何かに悲観していたわけではない。
ただ『今の人生と次の人生(来世)どっちが楽しいだろう?今はこういう感じだけど、次の人生はどんな感じだろう。』と思った。
その思いが前提にあって、『じゃあ今を終わらせて、次にいくのもありだな』という選択肢を認識をした瞬間だった。その瞬間、わたしの中で『死を通したあの世』が明確なものになったのを覚えている。

それはある意味絶望だったのかも知れない。
自分という『個人』を何の違和感もなく諦めるという意味の、前向きな絶望だった。

その時、死に向かう人の気持ちを少しだけ理解できたような気がした。
もちろん、全ての死にゆく人の気持ちと同じとは思わない。
だが、このとき確かにわたしは『死』を受け入れかけていた。

しかしやはりというべきか、この感覚はずっと持ち続けられるものでもなかった。事実わたしは死んでいない。この原稿を書いているのも本人だ。

だが、この『死とあの世』と通じる感覚を生きながらにして持ち続けられたなら、どうだろう。自分という肉体を逸脱して、『死』を受け入れることが当然になったら、どんな生き方が待っているだろうか。

恐らく、現在進行中の人生を終わらせることも、続けることも今以上に自由になるだろう。

また別の意味では、死で終わりにする必要はなく、同じ人生で何度でも生まれ変わることができるとも言える。

どちらでもいいのだろう。
その選択をする人間の意識の変化を指しているだけのことかも知れない。

その変化で、山田が言うように社会はかわるだろうか。歴史はかわるだろうか。
わたしの生活がかわるだろうか。

今のわたしにはわからない。
だがそれを理解するとき、確かに歴史は変わっているのかも知れない。

編集:アカ ヨシロウ


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