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リレーエッセイ「訳書を語る」/インドネシア文学出版までの道(西野恵子)

はじめまして。インドネシア語翻訳者の西野恵子と申します。現代インドネシア文学を代表する作家ディー・レスタリの小説『スーパーノヴァ エピソード1 騎士と姫と流星』(上智大学出版、2021)および短編集『珈琲の哲学-ディー・レスタリ短編集1995-2005-』(上智大学出版、2019)の翻訳を担当させていただきました。一般的にはマイナーな分野に含まれるであろうインドネシア文学が幸運にも出版に辿り着くまでの道のりを、翻訳者目線でご紹介いたします。

大きな蜘蛛の巣のすみっこに引っかかる

2013年冬。
大学時代からの友人である加藤ひろあきさんと、上智大学の福武慎太郎教授が翻訳したインドネシアの大ヒット小説『虹の少年たち』(サンマーク出版、2013年)が出版された。発売からほどなく、私は加藤くん(いつも通りに呼ばせていただく)と二人、新宿のカフェにいた。発売したての『虹の少年たち』を紀伊國屋書店で購入し、その足で入ったカフェで直筆サインを入れてもらい、久しぶりの再会を楽しんでいるところだった。当時加藤くんは、上智大学でインドネシア語の非常勤講師をしていた。大学時代には、同じ教室で、プラムディアの名著をインドネシア語原文のまま共に苦労して読んでいた彼が、今や大学で教えていている。しかも翻訳本まで出版されただなんて。とても眩しかった。

あの日私は「いいな、すごいな」を連発していた気がする。そこで加藤くんが私に放った何気ない質問「恵子ちゃんは、どんな本を訳したい?」が、すべてのはじまりだった。私の口をついて出たのは「ディー・レスタリの『Filosofi Kopi』(邦題『珈琲の哲学』)」。直感というか、降って湧いてきたように、あのときはそれ以外に思いつかなかった。それを聞いた加藤くんは「できるよ、それ。やろう!」と言い、本当に著者本人に連絡を取ってくれた。当時の私は、なぜそんなにすぐ著者と連絡がつくのか事情がよくわかっていなかったのだけれど、後に加藤くんはディー・レスタリの実妹と結婚した。つまり、ディー・レスタリは、加藤くんの義姉になった。

もしも、あのとき私が違う本を答えていたら、記憶にすら残らないただの会話となっていたかもしれない。今こうしてこの記事を書くこともなかっただろう。何も知らなかった私が、加藤ひろあきという人物の前で、ピンポイントで『珈琲の哲学』を翻訳したいと発言したことは、何度思い返しても運命に思えてならない。『スーパーノヴァ エピソード1 騎士と姫と流星』から言葉を借りるならば、「蜘蛛の巣に引っかかった」ということなのかもしれない。とにもかくにも、そんなことがきっかけで、いつかできるかもしれない出版を目指して、私は誰に宣言することもなく、ひっそりと翻訳を始めた。

『珈琲の哲学-ディー・レスタリ短編集1995-2005-』

月日は流れ、2017年。
ご縁あって、上智大学でインドネシア語の非常勤講師を務めることとなった。ここで後に監訳をしてくださることとなる福武慎太郎教授と出会い、2年後、ついに『珈琲の哲学-ディー・レスタリ短編集1995-2005-』(上智大学出版、2019、監訳:福武慎太郎、訳:西野恵子、加藤ひろあき)が刊行された。長らく私のPCの中で上書きされては保存されてを繰り返していた訳文がついに日の目を見たのだ。初めての翻訳本が段ボールで我が家に到着したときの興奮と感動は、忘れられない。

本の帯に入れていただいたメッセージは「あなたとインドネシアを繋ぐ」。私は翻訳を通じて、ずっとこれを目標にしてやってきた。どんな種類の翻訳(普段私は、産業翻訳をすることの方が圧倒的に多い)でも「繋ぐ」ことには変わりないのだけれど、この本はもっと深いところで「心と心を繋ぐ」ことができるのではないかと期待している。

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表題作「珈琲の哲学」をはじめ、様々な形の愛を追い求める人たちの
痛みと迷いと癒しを鮮やかに描き出す珠玉の18篇を収録。

唯一無二の勇気がほしいときには「砂漠の雪」を。
一風変わった初恋物語なら「チョロのリコ」を。
サスペンスのようなドキドキ感を味わいたいなら「ヘルマンを探して」を。
そして、人生の意味を探したい気分のときには「珈琲の哲学」を。
短く洗練された言葉でまとまった個性豊かな物語・散文からは、きっと普遍性を感じていただけると思う。

『スーパーノヴァ エピソード1 騎士と姫と流星』

2020年春。
新型コロナウイルスの影響をもろに受け、私の元に入ってくる産業翻訳の仕事は激減した。外出することもはばかられる状況で、突然休校になった子どもたちと家の中で一日中向き合うのは正直しんどい。そんなとき、私の逃げ場は翻訳だった。仕事としての翻訳は入ってこないけれど、いつも通り早朝に起きて翻訳を静かに続けることで、なんとか自分を保っていた。こうして完成したのが『スーパーノヴァ エピソード1 騎士と姫と流星』(上智大学出版、2021年、監訳:福武慎太郎、訳:西野恵子)だ。本作の翻訳を実現することができたのも、前作同様、様々な状況がピタリとはまったからこそのものだと思う。もしもあのとき産業翻訳の仕事が途切れることがなければ、集中的に本作を翻訳することは叶わなかっただろうから。そして事後報告にも関わらず、出版までの道筋を整えてくださった福武教授と、出版を快諾してくださった著者には感謝してもしきれない。

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二つの世界が次第に重なり合ってゆく…
混沌と秩序が交錯するジャカルタで渦巻く、
禁断のサイエンス・ラブストーリー
数学、量子力学などの科学的知識を駆使し、
恋愛小説『騎士と姫と流星』を構想するレウベンとディマス。
禁断の関係に陥っていくフェレーとラナ。
類まれな知性と教養を備えた娼婦、ディーヴァ。
交錯する虚構と現実世界。
それぞれの世界に生きる者たちが、“スーパーノヴァ"の存在によって
少しずつ繋がっていく――。

この記事を今読んでいるあなたも、すでに蜘蛛の巣に引っかかり、衝撃に邪魔されないレベルにある壮大な物語の一部に入り込んでいる…、かもしれない。そんな不思議な感覚を、ぜひとも本書で味わっていただきたい。

サイエンスとラブが絡み合い、最後の最後まで展開が読めない「サイエンス・ラブストーリー」。数学や物理の知識と恋愛を組み合わせた著者の頭の中は「いったいどうなっているのだろう?」とうならされることと思う。物語のメインストリームもさることながら、ぜひご注目いただきたいのは、メールの文面として表現されるスーパーノヴァのメッセージだ。中でもステイホーム中に翻訳していた私の心に刺さったのは、「あなたが何を考えるのか、つまり考えたいことを考えることで、あなたの脳は、その機能を壊すことなく、天国へ行くことができます。」(p.142-p.143)という言葉。思わず、「なぜスーパーノヴァは、私が今どこかへ行きたいことを知っているのだろう?」と感じたと同時に、その解決法までも示してくれた。数年後、またはもっと先の未来に、違う状況で読み返したら、きっとまたその状況に響く言葉がこの本の中に見つかるのではないかと期待している。

『スーパーノヴァ』には続きがある。全6巻におよぶ長編だ。私はこれを、ディー・レスタリが執筆した当時の年齢にできるだけ近い年齢でいられるうちに翻訳したいという、密かな野望を持っている。ゴールはまだ果てしなく遠く、越えなくてはならない山がたくさんある。けれど、銀の糸を辿っているうちにきっとまたその瞬間がやってくると信じているし、それを逃さないように進んでいきたいと思っている。


執筆者プロフィール 西野恵子(にしの けいこ)
東京外国語大学インドネシア語科卒。2010年からフリーランスのインドネシア語翻訳者。現在は、東京インドネシア学校(Sekolah Republik Indonesia)にて日本語教師も務める。インドネシア人の夫、子ども二人、ネコ2匹と埼玉県に在住。
https://translate-nishinokeiko.jp/


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