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リレーエッセイ「言葉のプロ・この2冊」/翻訳の森を歩くための本 (紹介する人:菊地清香)

英日翻訳者の菊地清香と申します。翻訳の勉強を始めたころから今に至るまで、私にとっての指針となっている2冊をご紹介します。

『翻訳とは何か――職業としての翻訳』

翻訳をするときは虫の目と鳥の目を持つこと、という。前置詞、冠詞を含め、単語ひとつをおろそかにしない虫の目。そして、文章全体の論理展開をつかむ鳥の目。1本1本の木々と森全体を見ることができてこそ、訳語選びに間違いのない筋の通った訳文が生まれる。フリーランスとして自宅でひとり仕事をしていると、自分の仕事そのものが小さな粒のように感じられることがある。表現に悩み、文字がゲシュタルト崩壊しそうなほど原文と訳文を見つめているうちに、文章全体の森どころか、「翻訳」という営みの森そのものがこの世界のどこに位置しているのかを見失いそうになる。山岡洋一氏の『翻訳とは何か』は、私たちが深遠な翻訳の森で迷いそうになったときに歩み出すべき方角を示してくれる1冊である。

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本書は、日本国内と世界の翻訳史を概観するところから始まり、翻訳の秘訣は「完成度の高い日本語で書くようにつとめること」と述べ、学習者と翻訳教育産業の奇妙な現状を指摘する。古代文明から続く大きな流れの中に立って「翻訳とは何か」を解説する本書を読むと、リベラルアーツの視点で翻訳をとらえ直す喜びを感じる一方、この仕事の厳しさ・難しさを再認識して背筋が伸びる。特に、終盤にある次の一段落には、この職業を目指す者に求められる覚悟が集約されていると思う。

少なくとも現代の日本では、翻訳は地味で地位の低い職業なのだ。職業として翻訳に取り組むからには、この現実を現実として認識しておかなければならない。そのうえで、翻訳が社会に果たす役割、文化に果たす役割を認識し、また、翻訳という仕事のたまらないほどの魅力を認識し、翻訳を職業として選ぶのだと言い切れなくてはならない。
山岡洋一, 『翻訳とは何か――職業としての翻訳』日外アソシエーツ, 2001より

私がこの本を購入したのは2009年10月のことだった。仕事も住まいも変わり、まっさらな状態になって、「以前から興味のあった翻訳を一度きちんと勉強してみようか」と思い始めたころだった。本書のほかに、『翻訳事典2010年度版』と鈴木主税氏の『職業としての翻訳』もあわせて買い求め、まずは翻訳業の実態を知り、翻訳学校にまとまった資金を使う価値があるか、翻訳者になってその資金を回収できるかを検討しようと考えていた。この翌年、翻訳の勉強を始めることを決めた。

それから数年が経ち、地元の翻訳者の方々と集まったときに、本書が話題に上がったことがある(たぶん、翻訳者の方々と顔を合わせた初めての機会だったと思う)。まだ翻訳者として駆け出してもいなかった私は、「山岡さんのおっしゃっていることは怖いくらいに厳しいですね」と口にした。心のどこかで、「そうだね」と先輩に笑ってほしかったのかもしれない。しかし先輩の返事は、「厳しいけど、本当のことだよね」だった。やっぱりそうなのか、こんなに厳しい世界に足を踏み入れてもいいのだろうか、と怖くなったことを今でも鮮明に覚えている。

恐れおののきつつも翻訳から離れることはなく、しばらくして私は翻訳業界の片隅に入り込んだ。翻訳業の本当の厳しさを伝える本書に、最初に出会えて幸運だった。著者が述べている通り、翻訳の魅力の真髄は「学び伝えること」であると日々実感している。

『英文法解説 改訂三版』

『翻訳とは何か』が翻訳の森の全体像を見せてくれるのに対し、本書は翻訳の森に生えている木々を1本1本識別する知恵を授けてくれる植物図鑑のような本だ。

本書は、1953年(昭和28年)に初版が発行されて以来、改訂を重ねて現在まで読まれているロングセラーの英文法書である。高校の授業でも使われているそうだが、プロの翻訳者や英語教師にも愛用者が多く、頼りがいのある1冊として様々な方がブログやインタビューで紹介している。

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私が本書に出会ったのは、翻訳学習者から翻訳者への境目をさまよっていたころ、地元で一番大きな書店でのことだった。英文と向き合っているときに、「辞書に載っている語釈やインターネット上の情報だけでは解釈が定まらない」、「頭の中できちんと絵が描けない」、「なぜこの訳語にしたのか説明ができない」といった状況にぶつかり、仕事の参考書となるような文法書が必要だと感じていた。書籍の実物を見て決めようと思って書店に足を運び、英語学習の棚から何冊か手に取ってめくってみた中で一番しっくりきたのが本書だった。

本書をいいなと思った理由は、例文が全体の大半を占めていること、例文の訳が自然な日本語で書かれていること、そして「解説」がユーモラスであることの3つだった。基本的な文法の説明は最小限に抑えられているが、その分多彩な例文が豊富に掲載されていて、例文を吟味することで英語という言語の特徴と作り(つまり文法)が見えてくる。その例文に添えられている訳文は文法書とは思えないほど滑らかで、英文和訳のにおいがまったくしない。例えば、本文1ページ目、第1章「名詞」の「普通名詞」の項には、次のような例文がある。

Circus performers risk their lives every day.
(サーカスの曲芸師は毎日が命がけである)
江川泰一郎, 『英文法解説 改訂三版』金子書房, 1991より

自分の言葉の引き出しに加えたくなるような例文がどのページにも登場するので、一時期私は「翻訳ストレッチ*」の教材としても本書を活用していた(*金融翻訳者の鈴木立哉氏が提唱されている翻訳勉強法)。

冒頭の「本書の利用法」によると、「解説」は英語教師や文法の研究者といった読者が各自で研究を深められるように補足的な情報を加えた欄であるというが、先生が授業で生徒に向けて語りかけているような口調で書かれていて、著者のお人柄が垣間見えるようなものも多く、読んでいるだけでも楽しい。なおかつ、微に入り細を穿つ説明のおかげで英語表現の微妙な違いを知ることができ、翻訳のヒントをいただくこともよくある。

翻訳の勉強を始めた当初は、「文法書を見ながら翻訳をするなんてプロではない」という意見を見かけたこともあった。翻訳を生業とするなら、文法事項はいちいち確認する必要がないくらい身に着けているのが当然、という意味合いだったのだろうと思う。けれど、言うまでもなく、文法の、そして翻訳の森は深い。文法を一通り学び、日々英文と向き合っていても、足を踏み出す方向に迷うことは際限なくある。特に私の場合は、留学や月単位の海外生活、社内翻訳を経験したことがなく、英語と接した時間が少ないため、英語を理解する肌感覚に乏しい。だから、辞書に加えて文法書も参照することが、翻訳品質の向上には欠かせない。本書は、英文を正しく理解して根拠をもって翻訳するための心強いパートナーだ。

■菊地 清香(きくちさやか)
英日翻訳者。
外国語学部英語学科の米国社会史ゼミで、一次史料の重要性やシカゴ・マニュアルにのっとった脚注と参考文献の書き方を学び、19世紀米国におけるヒスパニック系女性とシスターフッドの不均一性をテーマに卒論を書く。生涯教育機関での講座企画および運営事務、印刷会社での校正等に携わったのち、2012年よりフリーランス翻訳者として実務翻訳に従事、2016年に個人事業「つばめ翻訳」開業。プレスリリース、マーケティング資料、議事録などの和訳のほか、ノンフィクション書籍の下訳を二度経験。歴史小説、ドキュメンタリー、社会派ドラマ、アンティーク、野鳥、仕組みを知ることが好き。家族は、夫、3歳男児、黒柴1匹。
ブログ:『歴史と本と翻訳と~つばめ翻訳~

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