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リレーエッセイ「言葉のプロ・この2冊」/翻訳者としての心構えを思い出させてくれる本(紹介する人:山本真麻)

英日翻訳者の山本真麻です。翻訳で食べていきたいと決意した頃に読んだ本は、いま読み返しても気づきを与えてくれ、情熱を呼び覚ましてくれます。日々のノルマや単価、「正しい日本語」に追われすぎて視野が狭くなったときに気持ちをリセットしてくれる、思い入れのある2冊をご紹介します。

『あなたも翻訳家になれる! エダヒロ式[英語→日本語]力の磨き方』枝廣淳子

著者は、環境分野で通訳・翻訳をはじめ幅広く活動されている枝廣淳子さん。翻訳初学者、特に出版翻訳を目指す人をターゲットに、「買ってもらえる翻訳」とは何か、出版翻訳者への道を切り拓くには、パフォーマンス維持の工夫など、基本知識を教えてくれる本だ。楽観的なタイトルとはうらはらに、プロの翻訳者がいかに地道な改善・工夫・訓練を積み重ねているかがよくわかる。翻訳を勉強中の方、出版翻訳を目指す方にぜひ読んでいただきたい。

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『あなたも翻訳家になれる! エダヒロ式[英語→日本語]力の磨き方』

枝廣淳子(2009, ダイヤモンド社)

本書と出会ったのは、私が実務翻訳者として駆け出した頃だった。地方から海外に引っ越して、翻訳関連の経験も知り合いもほぼゼロ。いったい何をすれば翻訳スキルが上がるのか、いつか出版翻訳の仕事を得るにはどうすればいいのか、情報はあってもイメージが湧かなかった。実務翻訳をしていた枝廣さんが出版翻訳の仕事を得るまでの豪快エピソードはとても参考になったが、やっぱりどこか夢物語。でも、それを裏で支えた「自分を翻訳家にするシステム」づくりは、とても地に足の付いた教えだった。ビジョンと自分マネジメントがキーワードだ。

基本的すぎるように思えるが、ビジョンは意外にも盲点だった。いきなり具体的な計画を立てようとしても、自分に何が足りず、何を使って勉強すべきかよくわからなかったのだ。まず大きなビジョン(目標)を描いて、何ができればそれを達成できるかをゴールから遡る形で考えよう、というのが本書のアドバイス。例として、書籍を訳したい→(そのためには)訳文の表現力をアップする→よい表現にたくさん接する→名文集を買って読んでみる、と挙げられている。矢印は放射状になってもいい。目標達成に繋がる行為だとわかっていると、途中で心が折れにくいし、疲れているときに何をすべきか悩まなくていい。当時の私は「翻訳者のブログを読む」「交流会に出たら出版翻訳者にこれを聞いてみる」なども計画に挙げていた。孤独で挫折することなく1冊目の書籍の仕事に繋がったのも、このアプローチを知ったおかげだと思う。

自分マネジメントの大きな要素に「持久力」があるが、ここにプロとアマの大きな違いが出ると枝廣さんは述べる。納得だ。最大瞬間風速なら、勉強と調べ物をきっちりこなして訳文を練りに練ったら出せるかもしれない。でも、一定レベルの品質と速度を保ちながら数か月かけてひとつの案件を訳し続けるのは至難の業だ。全力疾走でスタートを切った自分を恨みながら這って進む日、もうダメだと逃げ出してしまう日もある。

実行に結びつく計画を立てる力、そして、じょうずに自分をあやしたり、なだめたり、励ましたりしながら、着々と進めていく自分マネジメント力が必要です。(30ページ)

なるほど、「あやす」とはぴったりくる表現だなあとつくづく感じる。体調が優れないとき、仕事以外のトラブルに巻き込まれたとき、子どもが熱を出したときに、どうやって自分の機嫌をとるか。できない自分を叱咤して落ち込んで、さらにパフォーマンスを下げている暇はない。第一線にいて多忙なはずの先輩方が、不思議と多趣味だったり優雅におやつを楽しんでいたりするのは、そういうわけだったのか。

翻訳って結局、自分を相手にした地味で泥臭い闘いだ。でもポジティブに考えれば、相手が自分なら何とかできそうではある。システムを整え、あやし方を覚えたら、きっとスペックがひとつ上がる。何かあっても、そこそこ持ちこたえながら走れそうだし、そうなってからがさらに味わい深いのだろうと信じたい。

『今を生きる人のための世界文学案内』都甲幸治

アメリカ文学研究の第一人者であり翻訳家の都甲幸治さんは書評家としても知られている。『今を生きる人のための世界文学案内』は世界の文学作品の書評集だが、都甲さんの読書日記とエッセイも多数収録されており、ぱらぱらとめくるたびに、読みたい本との出会いがある。今回もうっかり『スーパー・サッド・トゥルー・ラブ・ストーリー』(ゲイリー・シュタインガート著、NHK出版)を取り寄せてしまった(分厚さにおののいている)。

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『今を生きる人のための世界文学案内』都甲幸治(2017, 立東舎)

まずは読書量に圧倒される。聞いたことのない作家名が次々に登場し、世界中で生まれる文学の点と点が、都甲さんによって鮮やかに繋がれていく。私なんぞが文学を語るのは百万年早いが、文学には何かうねりというか波のようなものがあり、世界中の作品にまんべんなく触れることで見える流れがあるようだ。

「文学以外で、敗者の声に耳を傾けよう、なんて分野はそうそうないのだから(218ページ)」と都甲さんは書いている。敗者や弱者、マイノリティが上げた声が、翻訳を介して別の国々に伝わる。私は近所の小さな書店でそれを手に入れ、自室に持ち帰って一人きりで聴くことができる。雑に言えば「いまを生きている」感がすごいなあと思うし、やっぱり翻訳ってすごく意義深い作業だ。

インターネットやSNSの進化で、世界中の一般人の声が簡単に届くようになった。言葉がわからなくても、ひとつ端末があれば動画や音楽を拡散できる。そんな現代にあえて文字を選び、文学というボリュームで発信する意味は何なのだろう。この形でしかあげられない種類の声が、あるということなのだろう。英文科にいたのでいわゆる名作文学を読みあさってきたが、本書と出会ったことで、書かれたばかりの鮮度の高い小説を読む面白さを知った。

都甲さんが世界文学について説明する箇所がある。

僕にとって力のある作品とはどういうものか。それは、ほんの少しでも自由の空間を開いてくれるものだ。触れることで、息がしやすくなる作品だ。(中略)
[世界文学、特に少数派の文学の]肯定する力に触れると、自己否定の地獄から僕も少しだけ解き放たれる。(5~6ページ)

窮屈な時代に、息をする隙間をくれるのが文学作品。今こそ、日本にめいっぱい呼び込めたらいいのに。私もそれに関わっていきたいと強く思う。

とはいえいまは、自分の訳文を読み返すと自信喪失して手が止まり、それでも訳さねば終わらないという穴にたびたび落ちる。あれだけやりたかったはずの翻訳が苦行に感じられる。コーディネーターさんや尊敬する翻訳者の方々の顔が浮かび、情けなさに泣きたくなる。でも、自分の文章が、とめそめそする暇があるなら、まず向き合うべきは作者の声であり、原文なのだ。もう一度、丁寧に集中して読もう。こうして、独りよがりのネガティブ沼から私を引っ張り上げてくれるのが本書である。

最後に、本書収録の都甲さんのエッセイ「前山君のこと」は、絶対に読んでいただきたい。旧友との思い出を綴った短い文章なのだが、決して感情的ではないのに、痛みがひしひしと伝わってくる。静かに聞き入っているあいだは字を読んでいる感覚がなく、いつの間にか話が終わっていて名残惜しく思う。一流の翻訳家はエッセイもこんなにうまいのかと、感動と絶望を同時に味わった。道のりはまだまだ長い。

■執筆者プロフィール 山本真麻(やまもとまあさ)
英日翻訳者。訳書に『それはデートでもトキメキでもセックスでもない』(イースト・プレス)、『クソみたいな仕事から抜け出す49の秘訣』(双葉社)、『アニマルアトラス 動きだす世界の動物』(青幻舎)などがある。25歳のときに会社員からフリーランス翻訳者に。いつか全身全霊を込めて熱いエッセイを訳したい。知らない人が部屋にいる気分になるので積ん読はしない派、でもデジタル積ん読は別。

ブログ:http://blog.livedoor.jp/mlikesbooks/


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