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リレーエッセイ「訳書を語る」/巨人の肩の上で翻訳を味わう(久保尚子)

「はじめまして。英日翻訳者の久保尚子です。バイオ・サイエンス分野を中心にノンフィクションの書籍を翻訳しています」――翻訳者になってすぐのころから、そう自己紹介するように心がけてきました。でも実のところ、希望分野に近い仕事が舞い込むようになったのは、ここ数年のことです。コツコツと続けてきたアピールがようやく浸透してきたようで、嬉しく思っています。

私は高校2年生ぐらいまで自分のことを文系人間だと思っていました。ところが、高校3年生のときに化学の授業の面白さに魅了され、気づいたときには大学の理系学部を志望していました。そこからいろいろあって、有機化学、分子生物学、プログラミングと分野を転々とするのですが、理系の道に転がってからも、読書と英会話は趣味としてずっと続けていました。読書と英語と科学――次に気づいたときには、翻訳の仕事を選んでいました。

科学を愛する者として、翻訳に向き合うときに強く意識していることがあります。「巨人の肩の上で」仕事をしている、という自覚をもつことです。これは、科学者にも翻訳者にも通じる考え方です。先人が積み重ねてきた成果の上に、新しい発見を積み重ねる。自分では書けないような素晴らしい本を、原書を訳すという形で日本語で綴る。科学も翻訳も、未来へと、読者へとつなぐバトンだと思っていますし、そう思える本を訳したいと願っています。翻訳者として著者と原書をリスペクトしているのはもちろんですが、著者に寄り添うように心がけながらも、それ以上に、著者の思いのバトンをつなぐことを大切に考えています。巨人の肩の上まで必死でよじ登り、そこで精いっぱい背伸びして、読者にバトンを届けようともがいています。読者よ、私を踏み台にして進め! と願いながら。

そうやって翻訳の仕事を続けてきて、ようやく、「こういう本を待っていた!」と思わせてくれたのが、2018年10月初版の『美しき免疫の力』(NHK出版)でした。

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『美しき免疫の力』とノーベル賞

『美しき免疫の力――人体の動的ネットワークを解き明かす』
ダニエル・M・デイヴィス 著、久保尚子 訳、NHK出版

私がこの本に出逢ったとき、この本はまだ生まれていませんでした。プロポーザル(企画書)のリーディングを依頼されたのです。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、海外の著者はエージェントに所属していることが少なくありません。ちょうど日本の芸能人のように事務所に所属していて、本を書く前の企画書の段階から版権取引がはじまります。このようなリーディング依頼を受けたのは初めてではありませんでしたが、本書のプロポーザルを読んだときには、これまでになく胸が高鳴りました。「これは面白いぞ」「読みたい!」と。ちなみに、リーディングというのは、日本の出版社が海外の書籍の版権に手を出すかどうかを判断するために原書(や企画書)の下読みを翻訳者に依頼するもので、本の概要や所感をまとめたシノプシス(レジュメ)が納品物になります。

もちろん私はこの企画を絶賛し、猛プッシュしました。プロポーザルの端々から、読者にわかりやすく伝える文章力、読者を惹き込む構成力、免疫学に魅せられた研究者として著者の愛情が感じられ、概要紹介を読んだだけですでに好奇心が掻き立てられました。また、翻訳の仕事を始めた当初からかれこれ10年以上、書籍翻訳と並行して科学論文や医学論文のアブストラクトの和訳を毎週定例で担当し続けてきたおかげで、プロポーザルには具体的に書かれていない部分についても、「おそらくあの研究についても触れるはず!」「あの話も登場するのでは?」と深読みできました。免疫分野でまだノーベル賞を受賞していないけれど近いうちに受賞しそうな日本人の研究がいくつか思い浮かび、訳書の出版を受賞までに間に合わせたい! という野心にも火がつきました。かつての脳科学ブームのように、免疫学ブームもきっと来る! 眉唾な免疫力アップ本の氾濫やワクチンへの不安感を解消するには、正しい知識こそが必要! という思いもありました。そんな思いのすべてをシノプシスに託したのです。

それが功を奏したかどうかはわかりませんが、無事に版権が取得され、翻訳のご依頼をいただきました。いつも思うのですが、もしかしたら、翻訳者にとってここが一番楽しい瞬間かもしれません。面白そうな本の翻訳依頼を受けて、期待に胸膨らませる、歓喜の瞬間。そして、七転八倒の苦しい日々が始まります。たぶん、仕事を受ける自分と訳す自分は別の人なのだと思います。

訳しているときが一番楽しい、という翻訳者さんもいらっしゃるとは思うのですが、私の場合は、楽しいのか苦しいのか、よくわかりません。とにかく必死。原書と辞書と参考文献と参考図書とインターネット。使えるものは全部使い、調べたことや教わったことのすべてを頭のなかに放り込んだうえで、出すときは瞬間芸。何をどう考えてそう訳したのか、誰かに説明を求められたなら、後付けでいろいろ考えますし、考えてみればそれなりに道筋も根拠もあるので説明できるのですが、訳しているときは意識していないのが本当のところです。一度は目を通しているはずの本でも、訳しながら細かく見ていくと、思っていたのと違うように感じることがあります。訳し終えたあとで読み直して初めて、そういうことが書かれていたのか! と気づくこともあります。時間を置いて読み直したときには、これ本当に私が訳したのかなぁ、よくこんなふうに訳せるなぁ、などと臆面もなく感心することもなきにしもあらず……ですが、ゲラになって編集者さんや校正者さんから指摘の入った箇所を見直すと、おっしゃるとおり! 単なる間違いの場合もありますが、新たな視点からのご指摘を噛みしめて、再び瞬間芸で訳を出す。自分で読んだときの違和感はもちろんのこと、他の人が読んだときの違和感にも何らかの形で対応していく。時間が許す限り、延々とその繰り返しです。そして、喉元を過ぎれば熱さ忘れる。訳していたときの詳細はあまり思い出せません。他の翻訳者さんはどうなのでしょうか?

ただ、この『美しき免疫の力』については、編集者さんとのやりとりがとても印象に残っています。最先端の科学知識を解説している箇所については、多少は原文を離れてでも、できるだけわかりやすく伝えるように意識していたのですが、「そもそもウイルスと細菌は何がどう違うんですか?」「細胞ってそんなに大きいんですか?」といった質問を受けたときには、「えー、そこからー?」と崩れ落ちるような思いでした。誰にとってのわかりやすさを目指すのか。自分を基準にしていては視野が狭くなることに気づいた瞬間でもありました。おそらく編集者さんは、広く読者の目線に立って、根本的な質問を投げてくださったのだと思います。原書にはそのような根本的なところの説明や図表はなかったので、イメージしやすいように、できる限り言葉で補足を入れたり、小見出しを入れて理解のガイドになるようにしたり、章タイトルを工夫したりして、とにかくブラッシュアップを重ねました。最後の最後はもう、昼過ぎから夜の8時過ぎまで出版社の部屋で編集者さんと休憩なしで向き合い、ご指摘を受けたその場で瞬間的に訳を出す、という真剣勝負になりました。これがまた、少なくとも私は、思い出すだけでゾクゾクするほど楽しい時間でした。原書も素晴らしい良書ですが、訳書は訳書で、きっと良い本になる、と確信しながら心地よい疲労感を抱えて帰ったのを覚えています。

一番楽しい瞬間は仕事が決まったとき、と書きましたが、本当に幸せなのは、完成した訳書が世に出てからかもしれません。残念ながら、今の日本ではポピュラーサイエンスを嬉々として読む人はけっして多くはありませんが、それでもコアな読者層は存在します。この本も、届けるべき層にはしっかり届いているようで、夜中のエゴサーチをひそかに楽しんでいます。ポピュラーサイエンスを読む喜びの王道を堪能してくださっている方が多いように思います。物語を読みながら免疫学の基礎に触れ、推理小説を読むように免疫の謎を追う。単なる科学的知識の説明に終始するのではなく、そこに至る科学者の人生のドラマが描かれているのも嬉しいところ。科学者にとってこの上なくスリリングな大発見の瞬間を、読者はこの一冊を読むだけで何度も疑似体験できる。そんな楽しいアトラクションが、他にあるでしょうか?

本が出てしまえば、私自身もそんな喜びを堪能する読者の一人です。何をどう訳したのかすっかり忘れたころに出版社から見本が届くと、案外、まっさらな気持ちで受け取ることになります。『美しき免疫の力』を手にしたときは、まず装丁の美しさに心打ち震えました。編集者さんからは事前に、「装丁の方からこのような表紙の提案を受けたのですが、これは美しいのでしょうか?」という素朴なお問い合わせを受けていたのですが、え? えっ! 美しいです。見る人が見れば、これ以上ないほど美しい表紙です。わかっていただけますでしょうか? 表紙に描かれているのは、免疫システムで重要な役割を担う「抗体」の真の姿。抗体の正体は巨大なタンパク質分子なのですが、多数のアミノ酸が鎖のように連なっていて、その配列の解読も、その鎖の折り畳み構造の解析も、科学の輝かしい成果に他なりません。そして、この「抗体」のおかげで、どれほど多くの「命」が救われてきたことか――この本が出た2018年10月の時点ではピンとこなかった方でも、今なら、その尊さを感じていただけるのではないでしょうか。この表紙は、この本の「はじめに」で語られている、科学が追求する「美」の世界そのもののように思えます。

この本について語るうえで、もう1つ忘れられないのが、ノーベル賞です。2018年10月、『美しき免疫の力』が出たのとほぼ同時期に、8章に登場する本庶佑氏とジェームズ・アリソン氏がノーベル医学生理学賞を受賞しました。そうです。リーディングのときに思い描いた目論見が、現実になりました。動画中継で発表を聞いた瞬間は夢のようで、夢心地のまますぐに編集者さんにメールを送りました。

ですが、この本には本庶氏のほかにも日本人研究者が多く登場します。なかでも7章の主役ともいえる坂口志文氏の物語は、まだこれからノーベル賞へとつながっていくに違いありません。まだ間に合いますよ。よろしければ7章だけでも読んで、いずれ迎える受賞の喜びを一緒に味わいませんか?

五感で訳した『スペシャルティコーヒー物語』

『スペシャルティコーヒー物語――最高品質コーヒーを世界に広めた人々』
マイケル・ワイスマン 著、久保尚子 訳、旦部幸博 監訳・解説、楽工社

そうそう、翻訳を味わうといえば、『スペシャルティコーヒー物語』を訳したときのことを思い出します。前述のとおり、訳すときはひたすら必死で訳すことが多いのですが、この本のときだけは、ちょっと贅沢な訳し方をしました。スペシャルティコーヒーをご存じでしょうか? シングルオリジンコーヒーと呼ばれることもあります。

かつては上流階級の嗜みだったコーヒーが、貧困国の農家からの搾取によって大量生産されるようになり、安くて苦い飲み物として庶民に浸透したのが〈ファーストウェーブ〉だとすると、コーヒーの美味しさが追及されるようになり、スターバックスに代表されるようなシアトル系チェーン店が人気を博したのが〈セカンドウェーブ〉。スペシャルティコーヒーという概念もそのころに生まれました。その次に来た〈サードウェーブ〉では、さらに豆の品質にこだわり、その豆の個性を引き出すために一杯ずつ丁寧にハンドドリップで淹れられるようになりました。もっと言えば、豆の品種、産地、農園、作り手とのダイレクトトレードやフェアトレードにまで徹底的にこだわります。その味わいは、ファーストウェーブのコーヒーとはまったくの別物です。『スペシャルティコーヒー物語』は、そんなサードウェーブを牽引し、スペシャルティコーヒーを世界に広めた立役者ともいうべき3人の人物を女性ジャーナリストが追いかけた、密着取材のルポルタージュです。

その3人は、単に上質の豆を買い付けるのではなく、原産地に赴き、農家の窮状を知り、改善を働きかけ、業界のあり方を変革させた革命児でもありました。彼らは世界中を旅して回るので、物語の舞台も、ニカラグア、グラナダ、ルワンダ、ブルンジ、エチオピア、パナマ、オレゴン州ポートランド、ロサンゼルス……と、章ごとに移り変わっていきます。そして、それを訳しながら私が飲むコーヒーの産地も一緒に……。

面白い体験でした。それまでインスタントコーヒーばかり飲んでいた私も、豆から挽いて淹れるようになりました。奮発してシングルオリジンのコーヒー豆を取り寄せたり、スペシャルティコーヒーにこだわっているカフェに足しげく通ったりもしました。登場人物たちがエチオピアのイルガチェフェの町を訪れているときは、私もイルガチェフェのコーヒーを飲み、パナマの品評会が舞台のときは、パナマ産ゲイシャ種のコーヒーを飲み……著者と一緒に旅するような心持ちで訳していきました。首都でも村でも空気中にコーヒーの香りが充満する魅惑の国、エチオピア。なかでも最も輝かしく最も香り高いコーヒーの生産地であるイルガチェフェ。エチオピアの森は今も多種多様な野生のコーヒーノキが自生しているコーヒー資源の宝庫なのだそうです。その近隣の国、ルワンダとブルンジは、温暖な気候、豊かな雨、緑に覆われた標高の高い山地、楽園のような田園風景とは裏腹に、植民地支配や内戦に長く苦しんできた貧しい国ですが、スペシャルティコーヒー産業を足がかりとして、経済的に生まれ変わろうとしています。パナマでは、エスメラルダ農園が育てたゲイシャ種「エスメラルダ・スペシャル」が宝石のようにもてはやされ、他の農園も品評会やオークションで凌ぎを削っています。そういった生産地ごとの風土や内情を噛みしめながら味わうコーヒーの味は、驚くほど多様で印象的でした。

狭い部屋でただ読んで訳す小人にすぎないのに、こんなふうに世界が広がっていく。それが、巨人の肩の上で背伸びをする仕事の醍醐味なのだと日々実感しています。足をすべらせて落っこちないように気をつけながら、もうしばらくここに居ようと思います。


■執筆者プロフィール 久保尚子(くぼなおこ)
フリーランスの英日翻訳者。ノンフィクション出版翻訳と医療・科学系の実務翻訳に従事。訳書は『超耐性菌』(光文社)、『口に入れるな、感染する!』(インターシフト)、『美しき免疫の力』(NHK出版)、『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』(インターシフト)、『スペシャルティコーヒー物語』(楽工社)、『データサイエンティストが創る未来』(講談社)、『ビッグクエスチョンズ物理』(ディスカバー・トゥエンティワン)、『「自助論」の教え』(PHP研究者)など。最近の趣味は日本酒と料理のペアリング。

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