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翻訳者雑感 ことばと文化(星野靖子)新しい日本語の書きことばを作った翻訳家・若松賤子(後編)

後編では、奇跡の名訳と評される訳文を生み出した翻訳家・若松賤子の経歴、人物面に注目していきたい。『小公子』の翻訳についてご紹介した前編はこちら。

圧倒的な語学力と文章力

インターネットやスマホ、PCのない幕末維新の時代にも、語学に長けて優れた翻訳作品を著した人物は少なからず存在した。国家の近代化を進めて西洋列強に肩を並べるべく官立校や私立校で外国語教育が進められ、西洋の新しい概念を啓蒙するため、さまざまなジャンルの翻訳書が刊行された。

ただし、それは男性に限った話。女性には外国語教育どころか教育そのものを受ける機会がなかった。公立の女学校が設立されてもほとんどの女性は就学できず、10代で嫁いだり年季奉公や女中にやられたりしていた。

そんな時代の日本で女子教育に貢献したのがミッションスクールだ。19世紀後半に米国でアジア各地へのキリスト教伝道が本格化する中で、日本にも米国プロテスタント諸派の伝道局から多数の宣教師が派遣されるようになる。その1人が、若松の師となるメアリー・エディ・キダーだった。

ミス・キダーとフェリス・セミナリー

米国オランダ改革派宣教師のキダーは1869(明治2)年に来日し、翌年横浜居留地でヘボン夫妻の生徒を受け継いで開塾。このキダー塾がやがて日本初のキリスト教主義女子教育機関、フェリス・セミナリーへと発展する。

7歳から「キダーさんの学校」に通い始めた若松は、やがて快活なミス・キダーを慕うようになる。寄宿舎完成前にはキダーの自宅で生活もした。親のような存在のキダーに誰にも打ち明けない話をした。会話は英語中心、手紙も英語。キダーと暮らす中で、若松にとって英語は身近な存在になっていった。

フェリス・セミナリーの教育レベルの高さは知られていた。フェリス女学院校史には「地理や歴史は勿論、倫理、論理も、家政も、生理も、動物も、植物も」すべて英語で学び、寄宿生活の日常会話も英語だったと、若松の教員時代に入学した林貞子の回想が紹介されている。

若松は12歳で受洗後、14歳には日曜学校で年下の少女たちに教理問答を教え始める。15歳頃になると英語の小説を読みこなし、ディケンズ、ジョージ・エリオット、ストウ、オルコット、ホーソン、ユーゴー、シャーロット・ブロンテ等、当時の最新文学に原書で親しむ。18歳で高等科を卒業する時点で大学教養課程程度の学問を修めたとされる。卒業式では唯一の卒業生として、日本人有力者や在留外国人ら250名の来賓や在校生を前に英語で祝辞を述べた。

若松の卒業式にこれほど多くの来賓を招いた背景には、当時のミッションスクールが置かれた立場がある。女子の教育環境がない時代に、フェリスをはじめ全国各地のミッションスクールは西洋式の近代化を進めたい国家の思惑ともマッチし、政府高官の子女も通っていた。にもかかわらず正規の学校として認められず、さまざまな制約を受けていた。女に高等教育はいらない、むしろ弊害であるという論説がまかり通る時代、ミッションスクールに対する世間への批判的な見方もあった。

たとえ教育の機会が得られても、女性が卒業まで学び続けるのは簡単ではない。非正規のミッションスクールを出ても免状がもらえない、家族には縁談をすすめられる。級友達が高等科修了を待たずに学校を去って行く中、若松1人が卒業まで残った理由は後に述べるが、若松の卒業式は学校にとって、フェリス育ちの学力を世間に披露する好機だった。

文筆家、翻訳家への道~時習会の設立

18歳で卒業した若松はそのまま同校の教員となり、生理学、健全学、家事経済、読み方、作文、翻訳教科を教えた。

フェリスの教育は英語一辺倒ではなかった。キダーはヘボンの辞書等で日本語を学び、聖書を教える際にも日本語に訳された教材があれば採用した。午前中は英語、午後は和文や漢語の授業を毎日実施。生徒は全員和装で、校舎は畳だった。

また、若松は学内に文学サークル「時習会」を設立する。週1度の例会を開き、生徒に英語や日本語の暗誦朗読を課したほか月刊誌を発行し、熱心に活動した。会の名称は論語の「学而時習之(学びて時にこれを習う)」から取った。英語の名称にしなかったのは、ミッションスクールの女子は英語はできても和漢語はだめだという世間の風評に対抗する思いもあったのだろう。設立の趣旨を若松はこう綴っている。

我ら教育を受くるものにして、時習の功なくんば決して成業を期すべからず。我らは孔子の間学に時習の功を用ゆべき事をいひしを深く感じ、他日の成業を期してかく名づくるなり。何ぞその文字の新古を論ぜん。
(「時習会の趣意」『女学雑誌』13号、明治19.1、山口玲子『とくと我を見たまえ』1980)

後に夫となる巌本善治と出会ったのもこの頃だった。巌本が編集人を務める『女学雑誌』は、若松が「時習会」を設立した3か月前に創刊したばかり。同時期に明治女学校も創立されていた。2人の出会いには諸説あるが、婦人の教育推進や地位向上を目指す『女学雑誌』の趣旨に、読者の若松が感銘を受けたことは間違いない。若松はすでにその前年、20歳の時に校舎の増改築落成式で、教員を代表して「日本では文明の外形部分は模倣していても、その真髄や精神を取り入れもせず、見習ってもいない」「女はあまりにも長い間、不当な扱いを受け権利を否定されてきた。尊敬すべき立派な伴侶として男と並び立つ真の地位を、奪われてきたのではないか」と、女子教育と女性の社会的地位向上の必要性を英語で演説し、これほどはっきりと女の権利の主張を聞くのは初めてだと300名の来賓を驚かせていた。

その後若松は、上記の時習会趣意書やプロクター(Adelaide Anne Procter)の詩を和訳した「まどふこヽろの歌」を『女学雑誌』に投稿し、翌年には翻訳「優しき姫の物語」を連載し、同誌や巌本との関係を深めていく。若松が文筆家として世に立つきっかけとなったのが「時習会」であり『女学雑誌』だった。

英文ライターとしても活躍

若松が並外れた語学力や知性を備えていたことは、米国の名門大から英文調査レポートの執筆を依頼されたことからもうかがえる。ヴァッサー大学で世界各国の女性の状況を調べて出版する企画があり、その日本編を若松が担当したのだ。ヴァッサー大といえば、岩倉具視使節団の官費女子留学生で、日本人女性として初めて米国大学を優秀な成績で卒業した山川捨松の出身校である。この調査も、元は捨松への依頼だったが、既に結婚し大山伯爵夫人となっていたため若松に話が行った。若松は統計データや国内外の資料を丹念に調べ、自らの考察も加えて「The Condition of Women in Japan」(日本における女性の状況)をまとめた。

「教育」と「自立の手段」の2部構成からなるこのレポートは高く評価された。内容、文章ともに明晰で米国の優秀な大卒女性にも引けを取らないと米国メディアで絶賛されたことが日本の新聞でも報じられ、全文が『女学雑誌』の附録に英語のまま掲載された。

英文ライター・若松のもうひとつ忘れてはならない仕事が、晩年にかかわった『The Japan Evangelist』(日本伝道新報)である。日本のキリスト教活動を伝える目的で東北学院宣教師ホーイが1892年に創刊した英文雑誌で、在日宣教師、信者、米国ミッション本部、海外のクリスチャンを読者対象とした。若松は婦人欄、子ども欄の編集責任者として、日本の文化風俗、歴史、有名無名の人物などを紹介する英語記事を執筆した。

女性と子ども~生涯のテーマへ

「HOME」理想の家庭

若松賤子は当時の女性としては希有な教育機会に恵まれたが、富裕な上流階級出身というわけではなく、むしろ辛苦の多い幼少期を過ごした。

会津藩士の長女に生まれ、4歳のときに戊辰戦争の混乱で一家が離散。6歳で実母を亡くす。その後、父の知人である横浜の商人夫妻の養女になり、西洋流の教育をという養父の意向でキダー塾に通うが、最初は怠けてばかり。勤勉な生徒のなかで若松だけやる気がなく、侍女が付ききりで勉強を見ていたという。もらわれた先の養母と打ち解けられず、亡くなった母や生き別れた家族が恋しかった。

その後、一時再会した実父と養父との話し合いにより、若松は横浜のキダーに預けられることになり、以後結婚までの14年間フェリス・セミナリーで過ごす。級友達が結婚等で去って行く中で若松が独り学校に残ったのは、給費生として学校に奉仕する義務であり、フェリスが自分らしくいられる唯一の「Home」だったからだ。この寄宿舎をキダーは教員や生徒らを「わが大家族」と呼んだ。18歳の秋、若松は米国に一時帰国中のキダーに宛てた手紙で、卒業後も教師として母校に残ると報告し、こんな思いを綴っている。

You see I know of no other “home” beside this school, this is to me the only dear spot on Earth and I dread to think of the time when I shall have to leave it. (巌本嘉志子, 龍渓書舎, 1981, p161)

若松の文章や翻訳作品には、家庭や母はこうあるべきとする教訓的な話が多いという見方もある。西洋式の新しい家庭像を啓蒙する『女学雑誌』の趣旨を若松が意識していたのは確かだ。だがそこには、若松自身の幼い頃の原風景や、自分が持っていないものへのあこがれも反映されていたようだ。「Home」が血縁の家族に限らないことを、身をもって知っていたのだから。高等科卒業式で250名の来賓を前に英語スピーチをした若松だが、その晴れの舞台を見届けた家族、親戚は1人もいなかった。

家庭・女性・子ども~新しいジャンルを作る

若松賤子は児童文学翻訳家と紹介される場合が多いが、最初から子ども向けの翻訳を目指したわけではない。当時は世界的にも児童文学というジャンルが確立されておらず、『小公子』の原書も大人向けの家庭小説として読まれていた。若松は翻訳する作品を自分で選んでいた。日本の婦人に紹介したい話、『女学雑誌』の趣旨に合った作品を英語文献から探し出す若松は、翻訳者であると同時に優れた編集者だったといえる。

文学を女性教育推進のための社会活動と捉えていた若松だったが、しだいに子ども向けの読み物へと関心が移っていく。『女学雑誌』ではすでに巌本が子ども欄を設けて執筆しており、後に若松も書くようになった。読みやすい言文一致体の作品が増え始め、『小公子』の名訳につながった。やがて子ども自身が読むための少年少女向け雑誌が創刊され、若松も寄稿するようになる。結婚、出産を経て母となった若松の心境の変化もあったようだ。

明治女学校と『女学雑誌』

巌本善治と結婚した若松は、夫の学校運営と雑誌編集を内助しつつ、『女学雑誌』にほぼ毎号作品を発表していった。週刊誌だから週に1本以上だ。若松の著作一覧を時系列順に見ると、病身で3人の子を産み育てながら超人的なペースで翻訳や執筆を続けていたことに驚嘆する。

『女学雑誌』の人気は年々高まり、発行部数も最盛期には10万部まで達する。新時代の恋愛結婚をした文士カップル、巌本・若松夫妻は女学生の憧れの的で、明治女学校には全国から生徒が集まった。

しかし、黄金時代は長くは続かなかった。ワンマンな巌本の啓蒙主義思想についていけない執筆陣が離れ、浪漫主義の文芸誌を起ち上げる。日清戦争が勃発すると巌本は戦意高揚をさかんに訴える。戦争協力事業や朝鮮伝道の準備を始めた関係で『女学雑誌』は週刊から月刊に失速し、若松が執筆していた「小説」「児藍」欄も消えた。フェリス教員時代から8年間『女学雑誌』で執筆を続けた若松だが、30歳を迎えたこの年から『The Japan Evangelist』『少年園』『少年世界』等に活動の場を移す。以後体調が悪化して2年後、32歳を迎える直前に召天した。

『女学雑誌』と明治女学校は若松逝去後いずれも衰退の一途をたどり、雑誌は1904年に廃刊、学校は1909年に閉校する。すでに一線から退いていた巌本は毀誉褒貶に包まれる。卒業生の相馬黒光、野上弥生子、羽仁もと子、元教員の島崎藤村ら身内だった者達がそれぞれの著作で巌本の女性問題や詐欺行為を指摘し、人格や経営を批判した。巌本は南米移民事業に手を出すがそこでも不正を行い撤退、晩年は神道に傾倒する。日本の敗戦を知ることなく昭和17年に79歳で死去した。

什の掟と神の僕~若松賤子の生涯

若松賤子の筆名は故郷の会津若松と、キリスト教徒として神の恵に感謝するしもべ(賤)の意味であり、生涯そのものを象徴している。

会津出身で幼少時に戊辰戦争を経験したことを、若松は晩年になり『The Japan Evangelist』に綴っている。7歳からキダー塾に通った若松だが、8歳から約3年間は養家の転居でブランクがある。その間に若松が実父と再会したことはすでに述べたが、父はそれまで敗軍の隠密となって行方知れずだった。ようやく会えた父に帰りたいと泣いてすがるが叶わず、父は武士の娘が苦しいなどと口にしてはならないと言い聞かせ、「思無邪」と銘入れた短刀を渡して去った。その短刀を若松は、以来ぬいぐるみのように毎夜抱いて眠っていたという(山口玲子『とくと我を見たまえ』第二章)。「思い邪(よこしま)無し」の言葉に10歳の若松は何を思っただろう。

会津若松市「八重と会津博」サイトには、会津藩士の心得である「什の掟」 が紹介されている。会津の子どもなら誰でも知っている10の心得や「ならぬことは、ならぬものです」の精神は、西洋式の教育を受けた若松にもしっかり根付いていたようだ。結婚生活中、巌本家に一時寄宿していた川合山月が、多忙な上に来客があまりにも多いのを見かねて、先生の靴を隠して留守だと言ったらどうかと若松に助言したが、若松は「そんな嘘を言うことは嫌いです」と一蹴したという。川合道雄「若松賤子没後八十年を迎えて---賤子と山月---」(若松賤子・刊行委員会編『若松賤子』共榮社出版, 1977, p.11-12)

一方で若松は、フェリスでクリスチャンとして成長していく。若松は在学中は給費生として、卒業後は教師として給与を得ていた。その金額面について、女性史、ジェンダー研究者の小檜山ルイ氏は次のように分析している。
“教員に採用された当初の給与はわからないが、1887年にはニューヨーク市のマディソン街改革派教会がかし(筆者註: 若松の本名)をこの教会の「宣教師」に採用、年俸360ドル(月俸30ドル。40円くらいか)を支払う決議をしている。当時アメリカ人女性宣教師の年俸の相場はおよそ600ドルであったから、それよりはずっと少ないが、当時の日本人女性としては高額である。”小檜山ルイ『若松賤子考 : 結婚まで』フェリス女学院大学キリスト教研究所紀要,05,55-75 (2020-03)

教師として自立した若松は24歳で実父を亡くし、以後一家の稼ぎ手として妹や異母弟の面倒を見た。ヴァッサー大の依頼で日本女性の状況を調査したことは、若松にとっても転機になった。調査を通じて若松は、教育機会がなく、封建的家父長制により経済自立がかなわない日本女性の実情を認識したのではないかと児童文学者の尾崎るみ氏は考察している(尾崎『若松賤子 黎明期を駆け抜けた女性』2007, p95)。

若松自身の努力や勤労の対価とはいえ、ミッションスクールで学び教師として自立したいわば外資系エリートの自分と、一般の日本女性との大きな格差を自覚したはずだ。少女時代から英米文学の原書にたくさん親しんでこられたのも、ふつうは入手困難な英語の書籍を豊富に読める環境にあったからだ。そして、1人のキリスト教徒として、恵まれた者の役割を全うするため文筆活動を進めていったのだろう。「時習会」を通じて学内での教育を熱心に行っていた若松だが、この調査を機に外の世界にも目を向け、日本女性の地位向上に貢献できることを本格的に考え始めたように思える。

若松は結婚に関しても先進的だった。22歳で海軍中尉・世良田亮と婚約する。米国留学経験のあるエリート軍人との縁談は理想的だったが、しばらくして若松から婚約を解消する。どうしても愛情がわかなかったとのちに巌本に語ったという。

育ての親であり恩師であるキダーに紹介された縁談を断るなんて、悩まなかったわけがない。しかし、そのキダーも新しい時代にふさわしい形の結婚をしていた。

キダーは牧師帯同の妻ではない、独身の女性宣教師として日本に初めて定住した先駆者である。30代半ばを迎えて海外派遣宣教師になった動機は、信仰のためというよりも「自らの能力とアスピレーションと経験を生かすため」のキャリア選択だった(小檜山ルイ『横浜開港と宣教師たち』Ⅳ M.E.キダー)。当時の米国で、中流独身女性として社会的信用と自活手段を得るうえで信仰と教育は重要だったという。

キダーは35歳で来日し、39歳で結婚する。日本で出会った新郎の米国人宣教師ローゼン・ミラーはキダーの10歳年下だった。歳の差はともかくとして、この結婚が当時異例だったのは、オランダ改革派のキダーと長老派のミラーという所属宗派の異なる者どうしが結婚した上、ふつうは妻が夫の側に移籍するのに、キダーのフェリスでの教育活動を支えるため夫ミラーがキダーの宗派に移籍した点だと小檜山氏は述べている。キダーは結婚式に生徒全員を招き、世間の慣例にとらわれず互いを尊重する理想的な結婚の形を示した。

巌本善治と結婚しフェリスを巣立った若松だが、結婚後は経済的には恵まれなかった。明治女学校は教会や伝道会の支援もなく、経営状況は厳しかった。巌本の女性問題については若松も他言していた。日清戦争の頃になると巌本は戦争協力活動のため家を空けることが増え、家庭や子育ては若松に任せきりになったという。

若松は教員時代の24歳頃に肺結核を発病し、結婚までにすでに数度喀血していた。そんな中でも文筆活動を続け、『小公子』連載中に2人の子を出産する。3人目の子を出産後急激に体調が悪化し、ほとんど寝たきりのまま執筆活動を続けた。1896(明治29)年真冬の深夜、住居も兼ねた明治女学校校舎が火災に遭い、体力の衰えていた賤子は5日後心臓麻痺のため亡くなった。享年31歳、4人目の子を身ごもっていた。

若松賤子を慕う人々

亡くなる前日に、若松は遺言を残している。自分の死を公にしないこと、葬儀で経歴を紹介するなど「俗流に従う」ことがないようにと。伝記なども書かず、ただキリストの恵みに感謝して仕えた者とだけ話して欲しいとも言い遺したが(尾崎,2007,p335)、周囲の気持ちが収まるはずがない。近親者による葬儀から1か月あまり後には、東京青年会館大講堂に200名近い参加者を集めて追悼会が開かれた。発起人となった津田梅子、矢嶋楫子、三宅花圃、五島千代槌はいずれも婦人矯風会や明治女学校、『女学雑誌』を通じて若松とゆかりの深い人物だった。

同時期に文壇で活躍した樋口一葉は、若松の死に際し、次の歌を寄せた。

訪(とは)ばやとおもひしことは空しくて けふのなげきにあはんとやみし
一葉

若松を深く尊敬していた一葉は、病床にあった若松との面会が叶うことなく、この8か月後に若松と同じ肺結核で24歳の生涯を終えた。津田梅子、樋口一葉という五千円紙幣の「顔」になった2人がそろって若松の死を悼んだことは、若松の影響力から見て偶然ではないだろう。

この追悼会では森田思軒が「小公子の翻訳者若松賤子君」というスピーチをしている。

明治の翻訳王として知られる森田思軒は『小公子』前編が刊行されたときにも若松訳を称賛しているが、その書き出しは、女の翻訳なんて読む気にもならないけど知り合いが送ってきたから煙草を吸いながらどれと試しに開いてみたらあまりに素晴らしい訳文なので驚いたという内容だった。その時代のことで悪気はないとはいえ、今なら秒で炎上しそうな問題発言である。

追悼会の演説で森田思軒は、“翻訳をするには「原作者と一心同体」になる必要がある”という翻訳論を交え、若松賤子の『小公子』は「実に原作者の精神が其の儘に活きて現はれている」「実に敬服した」といっそう高い賛辞を送り、そのように優れた翻訳者を喪ったことが残念でならないと述べている。また、死の直前まで推敲していた『小公子』後編の原稿が火事で焼失したことも紹介し、そういった悲劇的エピソードも後押しとなって若松訳『小公子』の評価がいっそう高まったのではないかと前述の尾崎氏は述べている(尾崎, 2007, p338-339)。

追悼会後には『女学雑誌』『The Japan Evangelist』ほか各誌に追悼記事が掲載され、3か月後には英文遺稿集『巌本嘉志子 IN MEMORY OF MRS.KASHI IWAMOTO, THE FIRST GRADUATE OF FERRIS SEMINARY, WITH A Collection of her English writings』が刊行される。若松の書いた英語記事やスピーチ原稿、キダーへの書簡が収録された同書には冒頭でフェリス・セミナリー2代目校長のブースが追悼文を寄せ、若松の明るく誠実な人柄や優秀な教師としての仕事ぶりに賛辞を寄せ、翻訳者としての優れた資質にも触れている。1981年に龍渓社から出た復刻版からその一部を紹介したい。

It has been said that “One who acquires a new language obtains a new soul.” This was strikingly true of her. She did not lose her Japanese qualities or instincts in any degree. Her character as a Japanese woman was enlarged, enriched, and broadened, by the knowledge she had gained of the characteristics of her foreign sisters, both of those with whom she came in personal contact and of those whose acquaintance she made by reading. She had not only mastered the idiom of the English language, but she possessed the exceedingly rare faculty of being able to view things from an Anglo-Saxon viewpoint, which made her not only companionable to the few foreigners who had her confidence and acquaintance, but an excellent interpreter of Western thought and temperament. This quality was all the more remarkable when it is remembered that she had never been abroad. So well had she used the meagre opportunities afforded and so closely did she study the characters brought her way, that she could strike the chord of mutual sympathy, and bridge the chasm of racial separateness that is so often the ground of misunderstanding between natives and foreigners. Eugene S. Booth ”Mrs. Kashi Iwamoto”

若松についてはその後も著書や訳書の再版、会津やフェリス等の関係者による回顧文などさまざまな文献が刊行され、多方面から研究されている。随所で生涯が紹介されるのは故人の遺志に反するのかもしれないが、それほど多くの人を惹きつける偉人であるといえる。本記事も同様に、翻訳の先人に学びその素晴らしさを少しでも伝えたい思いから、一介の翻訳者として身の丈を超えたテーマに取り組んだ。

私が若松の功績について学ぶようになったのは、2人の子の育児に追われながら書籍を翻訳する中で、明治時代に結婚、出産、子育てと翻訳を両立した若松に親近感をもったからだった。その人物や功績を知るほど親しみどころではない尊敬の念を抱き、その翻訳技術に学ぶこととなった。

また、数々の文献にあたる中で女性教育家、社会活動家としての若松の人物像も見えてきた。日本女性の地位向上を使命とした若松にとって、英米文学の翻訳は女性への啓蒙活動の一環だった。フェリスで受けた教育を社会に還元したいという思いもあったのだろう。一介の翻訳者である私は日々の締め切りに追われるばかりで翻訳すること自体を目的にしがちだが、若松賤子の場合は女性教育という大きな目的があり、そのために翻訳で何ができるかを考えていたように思う。もちろん、翻訳を手段とするに足る圧倒的な語学力を備えた上でだ。凡人の私には一生かかっても真似できそうにないが、そんな偉大な翻訳家がいたことを心の隅に留めておきたいと思う。

若松の時代から130年経った現在、女性の地位は向上したのだろうか。教育制度は整ったが、21世紀を20年も過ぎた今も、女性が輝く社会という不思議なスローガンがある。指導的地位に女性3割を目標と、個人の資質以前に数字だけが取りざたされる。米国で女性参政権が認められて100年目、日本では74年目の今年、米国では女性初の副大統領が誕生した。欧州やニュージーランドなど他国ではもっと前から女性首脳がいるし、閣僚や議員に占める女性の割合も高い。日本ではどうだろうか。今若松が生きていたらこの現状をどう思うのか、墓前でそっと意見を聞いてみたくなる。

その謙虚な人柄もあって一般に知られていないが、若松賤子が生み出した美しい日本語は、世紀を超えて私たちのことばの中に受け継がれている。

関連文献 

本記事を書くにあたり若松の著作、翻訳をはじめ、さまざまな論文や関連文献を参照した。特に本文でも取り上げた尾崎るみ『若松賤子 黎明期を駆け抜けた女性』(港の人, 2007)には若松関連の資料が網羅され、児童文学専門家の観点から人物から作品まで総合的に研究されている。小檜山ルイ『アメリカ婦人宣教師―来日の背景とその影響』(東京大学出版会, 1992)をはじめとする同氏の著作論文では、米国プロテスタント伝道会事情とフェリス・セミナリーについて研究されている。明治女学校や『女学雑誌』、明治の児童文学についても研究されており、拙記事でこれ以上新たに述べる事実はなく書ききれない情報も多いのだが、専門家の研究に学びつつ、翻訳家・若松を知るうえで欠かせない部分を翻訳者の視点でまとめた。

山口玲子『とくと我を見たまえ 若松賤子の生涯』(新潮社、1980)は初の本格的な若松賤子評伝である。著者の優れた筆力により場景や心情への想像がふくらみ、読めば若松のファンになること請け合いの名著だ。ただし、後の研究によって事実関係の誤りがいくつか指摘されている点には注意したい。書名に引用された英語詩「花嫁のヴェール」は、若松が巌本善治に贈った詩で、若松自身の作であるとされているが、実際には米国詩人アリス・ケアリーの作品であると後に師岡愛子が明らかにしている(「若松賤子と英詩」, 1990)。

若松訳『小公子』研究は多数なされている。中でも鴻巣友季子『明治大正 翻訳ワンダーランド(新潮新書)』は、若松と『小公子』に1章を割き、訳文のテンポよく読みやすい口語体について、動きが連続する場面の描写、人称代名詞や指示代名詞の処理、視点の切り替え等の面から詳しく分析されている。また、森田思軒、黒岩涙香、小金井喜美子など若松と同時代の翻訳家についても各章で紹介され、明治大正期の翻訳家とその作品について楽しく学び、翻訳の本質に触れられる1冊だ。

若松創作童話のうち『黄金機会』『鼻で鱒を釣つた話(実事)』『忘れ形見』は青空文庫で読むことができる。


執筆者プロフィール 星野 靖子(ほしの やすこ)

氷河期第一世代の英日翻訳者。外国語学部出身。大学時代は言語、文化、社会、歴史関連課目と世界各地の映画、音楽に親しむ。就職した会社で産業誌の海外マーケットレポート記事執筆を機に英語記事翻訳を始める。海外製品広報宣伝、翻訳部門勤務を経て2006年よりフリーランスの翻訳者に。マーケティング、エンターテインメント関連の産業翻訳、リサーチ、ライティング業務のかたわら、年1冊程度人文科学、ノンフィクション等の書籍翻訳や編集協力に携わっている。趣味で文芸翻訳の勉強を続けているほか、産業翻訳と学術研究を近づける取り組みに関心があり、ことばや翻訳と社会・歴史のかかわりについて研究中。

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