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翻訳者雑感 ことばと文化(星野靖子)新しい日本語の書きことばを作った翻訳家・若松賤子(前編)

LITTLE LORD FAUNTLEROY と「小公子」

子どもの頃に本やアニメで「小公子」の物語に親しんだ人は少なくないだろう。原作 LITTLE LORD FAUNTLEROY は1886年にフランシス・ホジソン・バーネット(Frances Hodgson Burnett)が発表した当時、イギリスとアメリカで話題を呼び、以後現代まで繰り返し映画や舞台で上映されているロングセラー作品だ。主人公セドリック少年の無邪気で愛らしく、冷淡な大人の心を解きほぐして善に導く性格が読者を虜にし、慈愛に満ちた母との関係は理想の親子像とされた。わが子をセドリックのように育てたいと願う世の母親たちは、セドリックが母を呼ぶのと同じく、わが子に自分を "dearest" と呼ばせ、レース襟の付いたビロードの服が大流行したという。

児童文学の棚に必ず並ぶ「小公子」に、私自身は子どもの頃あまり親しんだ記憶がない。一度は読んだが心に響かなかったのだろう。優しくて賢くてあまりに完璧なセドリックよりも、トム・ソーヤーやアン・シャーリーのような好奇心旺盛な子どもに憧れ、バーネットなら「小公女」や「秘密の花園」の陰ある描写が好きだったのだ。それが数年前、プロ翻訳者として勉強するなかで「小公子」の原書と訳書を読み、当時の時代背景を学ぶうち作品の魅力を知り、ついに私の翻訳への向き合い方が変わるに至った。そのきっかけとなったのが若松賤子(わかまつ しずこ)だ。

【1889年刊 Little Lord Fauntleroy の挿画(NYPL Digital Collections)】

LITTLE LORD FAUNTLEROY を初めて日本語に翻訳した若松賤子は明治時代の翻訳家、文筆家、教育者で、満31歳(数え年で33歳)までの短い生涯に日本語、英語の随筆および論説、翻訳、創作、英詩あわせておよそ150篇を発表した。若松訳「小公子」は、バーネットが原書を発表した4年後の1890(明治23)年8月に『女学雑誌』第227号に初掲載後、2年後の1892年1月まで45回にわたり連載された。英米での原書と同様に、日本国内でも「小公子」は大いに人気を集めた。連載中の1891(明治24)年に刊行された上巻本と、若松の死後1897(明治30年)に櫻井鴎村(のちに津田梅子と共に女子英学塾を設立)が編纂した小公子全巻ほか若松の翻訳作品を収録した本は、共にその年のベストセラー本に名を連ねている。その見事な訳文は森田思軒、森鴎外、石橋忍月、坪内逍遙ら多くの文学者から賞賛され、樋口一葉ら当時の小説家に影響を与えた。

自分を表現することばを求めて

LITTLE LORD FAUNTLEROY の冒頭部分は、以下の通り。

Cedric himself knew nothing whatever about it. It had never been even mentioned to him. He knew that his papa had been an Englishman, because his mamma had told him so; but then his papa had died when he was so little a boy that he could not remember very much about him, except that he was big, and had blue eyes and a long mustache, and that it was a splendid thing to be carried around the room on his shoulder.

主人公セドリック少年の置かれた境遇、父親について3つの文でテンポ良く客観的に述べられている。主語は三人称、「神の視点」である。

この冒頭部分を、若松賤子は次のように訳している。

セドリツクには誰(たれ)も云ふて聞かせる人が有ませんかッたから、何も知らないでゐたのでした。おとッさんは、イギリス人だッたと云ふこと丈は、おッかさんに聞いて、知つてゐましたが、おとッさんのおかくれになったのは、極く小(ちひさ)いうちの事でしたから、よく記臆(おぼ)えて居ませんで、たゞ大(おおき)な人で、眼が浅黄色で、頬髯が長くッて、時々肩に乗せて、坐敷中を連れ廻られたとの面白さ丈(だけ)しか、瞭然(はつきり)とは記臆てゐませんかッた。

旧仮名づかい、旧漢字づかいに慣れない方も、ぜひ声に出して読み、流れるような美しい文を感じていただきたい。流麗な文を裏付けるのは巧みな翻訳技法だ。人称代名詞を省き、文の切れ目を移動させるという高度な技術が駆使されている。his papa の訳語を「おとッさん」、his mamma を「おッかさん」、his papa had died を「おかくれになった」とし、三人称でありながらセドリックの視点に寄せた表現になっているため、読者はセドリック少年の目を通した物語の世界に引き込まれる。文体は、当時出始めたばかりの言文一致体である。

【若松賤子『小公子』上巻 第四回百二頁(1891年、女学雑誌社)国立国会図書館デジタルコレクション】

言文一致体の文章といえば、小公子の3年前、1887年に『浮雲』を発表した二葉亭四迷や山田美妙が創始したことが定説となっている。その頃までに出ていた翻訳文は、訳者が勝手に原文を誇張したり歪曲したりするものも多く、文体も漢語調や雅文調、掛け詞まで出るものが中心だったという。言文一致体のはじまりと言われる『浮雲』の書き出しですら「千早振る神無月も最早跡二日の余波となった廿八日の午後三時頃に」と枕詞になっている。

【二葉亭四迷『新編 浮雲 第一篇』第一回一頁 国立国会図書館デジタルコレクション】

若松訳の先進性の一つに、いきいきとした会話文がある。「小公子」にはセドリック母子をはじめ、気むずかしいホッブス、真面目な靴磨きヂック、頑固な祖父ドリンコート侯爵などさまざまな性格の人物が登場し、アメリカ下町の商人からイギリスの貴族まで会話文によって口調が描き分けられ、セドリックが相手によって話し方を変える利口さも表現されている。若松訳は下記の第1章、ニューヨーク下町の少年セドリックと商人ホッブスの会話に見られるように、原文の人物描写を日本語で同じように表現している。

“Did you ever know many marquises, Mr.Hobbs?” Cedric inquired, – “or earls?”
“No,” answered Mr.Hobbs, with indignation; “I guess not. I'd like to catch one of 'em inside here; that's all! I'll have no grasping tyrants sittin' 'round on my cracker-barrels!”
「をぢさんは、侯爵だの、伯爵だのといふ人、たんと知つてるの?」
ホッブスは、少し腹立氣味に、
「そんな奴知つてゐてたまるものかよ、私の店(ところ)へでも這入つて見るがいゝ、どうしてやるか。弱いものいぢめをする圧制貴族めらを、こゝらの明箱(あきばこ)へなんぞ、腰をかけさせてたまるものか。」

辞書も満足に揃わない時代に、これほどいきいきと原文の世界を訳し出したことにはただ驚きひれ伏すばかりなのだが、その若松も最初からそのような訳文を書いていたわけではない。小公子以前の翻訳や創作文、手紙文は文語調主体で、しかも日記や寝言は英語だったという。アメリカ人宣教師との寄宿生活を通じて少女時代から英語が堪能だった若松は、同時に漢文や和歌の教育も受けており、英語での思考と、日本語の硬い書きことばとの狭間にあって、自分らしい表現を模索する中で小公子の訳に行き着いたのだ。

その自然な口語体には、十代の頃から日曜学校で幼い子らにキリスト教の物語を読み聞かせ、女学校で教壇に立った経験も生かされているようではある。だが、言文一致体とは決して、話した言葉をそのまま書き写したものではない。若松賤子の翻訳は、単に平易な日本語の文にするだけでなく、原文のトーンや微妙なニュアンスを忠実に再現し、自ら試行錯誤の末に生み出した新しい日本語の書き言葉なのだ。

明治女学校校長で『女学雑誌』を主宰した夫巌本善治に若松は、「一字一句の相当な訳語を定めるにも、随分と長く掛った」と打ち明けており、その訳語選びの過程を、「女が半襟の映りを考えてあれかこれかと思案するように」、「時々箪笥からそっと着物を出して見て、独り楽しむように色々の訳語を思い出していた」と語っていたという。

「日本語の一世紀」

若松訳のすごさは枚挙に暇がないが、漢字を上手く使ったタイトル「小公子」の名訳も有名だ。小公子は若松以降も川端康成、菊池寛、村岡花子をはじめ数々の名だたる文学家が翻訳を手がけ、現在国立国会図書館には絵本、アニメを含め、およそ250点の『小公子』が保管されている。そのタイトルのほぼすべてに夫の巌本善治と相談して決めたという訳語「小公子」が継承されていることからも、若松訳の偉大さがうかがえる。

若松賤子は国文学、英文学、ジェンダー学分野において研究対象とされ多くの関連論文が発表されている。以下は1999年に発行された『国文学 解釈と鑑賞』の目次の一部である。

『国文学 解釈と鑑賞』1999(平成11)年7月(第64巻7号)
特集「日本語の一世紀」より 文法・語彙 ―若松賤子訳『小公子』のことばから

若松賤子訳『小公子』の<語り>と文体 中村哲也
百年まえの口語文 「小公子」の文章 宮島達夫
若松賤子『小公子』における動詞の語形変化 迫田健一郎・鈴木重幸
若松賤子訳「小公子」における可能表現おぼえがき かねこ・ひさかず
「小公子」における受身表現について 河村静江
「小公子」における格助詞 「乗る」と共起する「に」と「へ」 岡部寛
敬語の百年 若松賤子・川端康成の『小公子』を検討材料として 鈴木康之
若松賤子訳『小公子』のなかの見慣れない単語 高木一彦
送り仮名の変化 廣岡理栄
若松賤子訳『小公子』諸本の異同から 松本泰丈
「小公子」におけるアメリカ英語・イギリス英語 エリク・ロング

このように、第一線の日本語研究者がさまざまな角度から若松小公子を分析、考察する論文を寄せている。私は数年前に、大学図書館の地下書庫でこの雑誌を見つけたとき、雷に打たれたような衝撃を受けた。それと同時に、自分の無知さが恥ずかしくなった。ただひとりの翻訳家について調べるつもりでいたはずだったのに、その人が日本語の一世紀を代表する偉人だったことを当初知りもしなかったのだから。翻訳者の端くれとして日々真剣にやっているつもりではいたが、130年前の先人が日本語の文体や語彙を大きく変えるほどの偉業を成し遂げたとは。翻訳現場で訳文を紡ぎ出すとは、なんて大変なことなのだろう。私は若松賤子を知って以来、翻訳という仕事が持つ責任の重さをあらためて感じるようになった。

翻訳の現場から新しい日本語を生み出した若松賤子。それほどに水際立った翻訳文を生み出した若松賤子とはどのような人物だったのか。後編で紹介していきたい。

執筆者プロフィール 星野 靖子(ほしの やすこ)

氷河期第一世代の英日翻訳者。外国語学部出身。大学時代は言語、文化、社会、歴史関連課目と世界各地の映画、音楽に親しむ。就職した会社で、産業誌の海外マーケットレポート記事執筆を機に英語記事翻訳を始める。当時書店で『最新ビジネス・技術実用英語辞典 英和・和英』(通称「うんのさん辞書」)に出会ったのは、のちの翻訳者生活につながる幸運だった。その後、海外製品広報宣伝業務の一環で社内通訳翻訳をする機会が増し、翻訳学校に通学。翻訳部門勤務を経て2006年よりフリーランスの翻訳者に。マーケティング、エンターテインメント関連の産業翻訳、リサーチ、ライティング業務のかたわら、年1冊程度人文科学、ノンフィクション等の書籍翻訳や編集協力に携わっている。趣味で文芸翻訳の勉強を続けているほか、産業翻訳と学術研究を近づける取り組みに関心があり、ことばや翻訳と社会・歴史のかかわりについて研究中。

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