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きまぐれ日本文学(井口富美子)その1 森鴎外随想

はじめまして。通訳・翻訳ブックに掲載された記事「時間がある時のドイツ語勉強法」に「優れた文章(本)を読みましょう」と書いたためか、若手翻訳者のみなさんからどんな本を読めばよいかと質問されます。そこで、若いころから自分が読んできた日本文学の中から、これはと思うものを『ほんやくWebzine』で紹介することにしました。ぜひ日本文学に親しんでいただき、一冊でもお気に入りの本を見つけてくだされば本望です。

森鴎外随想

学校の音楽室にもれなく飾られているバッハとヘンデルの肖像のように、日本近代文学で鴎外と漱石はいつも仲良く並んでいる。だが実際のところ、二人にはほとんど接点がない。
明治23年(1890年)、23歳の漱石は帝国大学文科大学英文学科に入学した。かたや鴎外は28歳、すでにドイツ留学を終えており、この年『舞姫』を発表している。ちなみに明治23年といえば若松賤子が26歳で『小公子』を翻訳・発表し、樋口一葉は18歳という若さで歌人としての一歩を踏み出したばかり。そして、はるか遠く、プラハのフランツ・カフカはまだ7歳の少年だった。

1993年に私がベルリン・フンボルト大学で受けていた翻訳演習は、鴎外記念館と同じ建物に教室があった。記念館は鴎外が下宿していたとされる部屋で、展示物はお世辞にも多くなかったが、その中に、鴎外が三男類(ルイ)のために作った手書きのドイツ語教本があった。東ドイツ時代に類が記念館を訪れて寄贈したその帳面には、子供にもわかるやさしい単語が端正な文字でバランスよく配置され、まだ幼いわが子への愛が静かにあふれていた。

最初の結婚で授かった於菟(オト)、再婚した志げとの間に生まれた長女茉莉(マリ)、次女杏奴(アンヌ)、そして末子の三男類と(次男は夭逝)、みな両親の文才を受け継ぎ(志げも小説家)、子煩悩だった父の思い出をそれぞれに綴っている。私の鴎外像はその大部分が子供たちによる随筆や小説に基づいているといっていい。茉莉や杏奴の思い出も面白いが、父親と同性の於菟や類の観察にも興味をひかれた。特に於菟は再婚前の父を見ており、新しい母が来た時も、祖母との折り合いなどを十分に理解できる年齢だったから。

『舞姫』発表の前後、鴎外と於菟の母との結婚はわずか1年半で破綻している。それから再婚まで、11年も空白がある。その間、母親が世話した外妾せきが時折森家に出入りしていたことを、於菟は覚えていた。私は於菟の文章の行間から、鴎外は再婚前にせきに暇を出すのがつらかったのではないかと感じたことがあった。小説『雁』に出てくるお玉はただ運命に身を任せて流されるだけの、可哀想なお妾さんではない。自分の頭で考える女として描かれている。それでも、「僕」の夕食にサバの味噌煮が出たばっかりに、思いを寄せる岡田の人生と人知れずすれ違ってしまう。鴎外はその先を書いていないが、岡田の方も、サバの煮つけで同じように大きく運命が変わってしまったのではないか。

ほかに、鴎外の母の日記も残されている。そこには息苦しいほどの、息子とその長男への献身が詰まっている。そんな森家へ後妻に入った志げも、ある意味災難だったろう。お嬢さん育ちの志げは、義母にはもちろんのこと、時には於菟にもつらく当たったようだ。家族思いの鴎外はその間に立ち、妻も母も子供たちも大事にした。同じ屋根の下、祖母と二人で生活する於菟にもドイツ語を教え、15歳の於菟が訳したグリム童話を添削し、親子連名で出版している。私はそれを最近知り、於菟も大事にされて父と子の時間を持っていたのだと、考えてみれば当然なのだが、心からうれしく安堵した。

だれもが高校国語で読む『舞姫』で主人公が恋人エリスを捨ててしまうため、一般に鴎外の印象はよくないのだろうか。実際の鴎外は女性の地位向上に努めた進歩的な人で、女性解放運動を支持し、妻や妹の小金井喜美子を後押しして小説を書かせたりもしている。志げは、鴎外の後ろ盾もあり、当時の女性としては自由にのびのび生きていた。だが鴎外が亡くなると、その生活は一変する。当然ながら家長は長男於菟だ。志げと下の子供たちに遺されたものは多くない。志げが想像もしていなかった家庭内の逆転劇を、はっきり記したのは末子の類だけだったように記憶する。

鴎外は思いがけないところにも顔を出す。横浜市歌は鴎外の作詞だし、イタリアのマリネッティによる『未来派宣言』(1909年)の本邦初訳は鴎外だ。宣言の方は文芸誌『スバル』に連載していた『椋鳥通信』で発表されている。『椋鳥通信』は欧州の新聞・雑誌を鴎外が読んでこれと思った事件をピックアップし、自身による解説や感想、評価などとともに日付をつけてまとめたものだ。当時はシベリア鉄道が開通したばかり。欧州からの郵便物が二週間で届くようになっていた。つまり最新の欧州事情が連載されていたことになる。連載初回の日付は1909年1月16日。ちなみに漱石は英国留学から1903年に帰国し、1905年には『吾輩は猫である』の連載を始めている。
ロンドンでコナン・ドイルが大手術を受けた、ビュルツブルグで「日本及び日本芸術」という講演があったが芸術というより工芸についてだろう、バーナード・ショーが自分の病状を記者協会に聞かれて「もう死んだと報道してくれ。そのほうが面倒がない」と返答した、などのトピックの間に、欧州の劇場演目や展覧会のテーマについて、昨今の風潮とそれに対する鴎外の批評などが記されている。それらを読んでいると、鴎外が、『椋鳥通信』以前から欧州のカルチャーシーンを気にかけていたことがよくわかる。20代で留学したきり再訪できなかった欧州、そしてドイツ。この連載はスバル読者にはほぼ黙殺されたようだが、鴎外は一人楽しんで書いていた。むろん、遠く青春時代に思いをはせながら。

この連載に先立つこと2年、1907年に鴎外が日露戦争中に作った詩歌集『うた日記』が刊行された。戦地から家族や友人に送った歌を鴎外が自ら編集したもので、まるで詩歌の歴史をたどるように短歌、俳句、長歌、訳詩、新体詩がおさめられている。軍人としての生活と作家としての生活を厳しく分けていたといわれる鴎外。何を思って戦地で歌や詩を書いたのだろう。有名な「扣鈕(ぼたん)」という詩には、鴎外のロマンチシズムがストレートに現れている。(以下では、タイトル以外「扣鈕」は「ぼたん」とかな書き)。

扣鈕

南山の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
そのぼたん惜し

べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ 電燈あをき
店にて買ひぬ
はたとせまへに

えぽれつと かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女(をとめ)
はや老いにけん
死にもやしけん

はたとせの 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ

ますらをの 玉と碎けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜しぼたん
身に添ふぼたん


戦場で落としたボタンはベルリンで買い求めた思い出の品。兵隊の命も惜しい、ボタンも惜しいという二重の悲しみ。私はこの、こらえた涙をのみこむような哀しみに、鴎外の小説ですでに何度も出会ってきた気がした。

私のおすすめ本

● 鴎外を読むなら
『雁』。鴎外が歴史小説に移る直前の円熟期に書かれ、完成度も高い。短編の『普請中』も、なにげない描写が巧みで楽しめる。
● 現代の小説なら
『夢見る帝国図書館』中島京子著(文芸春秋)
上野公園で風変わりな喜和子さんと出会った作家の「わたし」は帝国図書館の歴史を縦糸に小説を書き始める。人格化され、心をもった帝国図書館は、資金難で苦労する司書たちを見守り、勉学に通ってくる樋口一葉に恋をし、宮沢賢治の決別の哀しみを目撃し、やがて関東大震災や戦火にみまわれて・・・・・・。その一方、喜和子さんの数奇な人生が横糸となって帝国図書館と交錯していく。文学好きにも図書館好きにもおすすめの一冊。紫式部文学賞受賞。


この原稿を書くにあたり、国会図書館のデジタルライブラリーにある『うた日記』を参照した。その原本には「TEIKOKU TOSHOKWAN TOKYO」とパンチングされていて、それを見たとき、この本が収蔵された現実の帝国図書館とフィクションの『夢見る帝国図書館』が、私の中で一瞬すれ違った。ちなみに、上野にある帝国図書館の建物は現在、「国際子ども図書館」になっている。


執筆者プロフィール 井口 富美子(いぐち ふみこ)
ドイツ語翻訳家。
大学では日本文学を専攻。学生時代は明治以降の文学史に載っている本を片っ端から読破(中には読んだふりの本も)。卒論は夏目漱石、テーマは「漱石の描く女性と近代的自我」。卒業後は日本近代文学館に就職。優秀な同僚やトップクラスの研究者、作家、編集者に鍛えられる。学生時代からドイツ映画、ドイツ現代美術に熱中し、紆余曲折の末、通訳を目指してベルリン・フンボルト大学に留学。壁崩壊前後の激動の時代を体験する。帰国後は実務翻訳で生計を立て、数年前から出版翻訳に軸足を移し、文筆活動にも手を広げている。訳書は『深淵の騎士たち』『スマイラーとスフィンクス』(以上、早川書房)、『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』(共訳、左右社)ほか、年内には『夜ふけに読みたいおとぎ話』 シリーズでグリム童話の巻が出る予定(共訳・監訳、平凡社)。


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