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待ちあわせ場所

読書会をしている。朝や夜ですが…。まるでバス停に立つようにその時を待っている。

コロナになるまでは、やりたいとは思ってはいたが、踏み出せなかったものだ。ところが、コロナになり時間ができ、さんざん悩んだ末に、リーディング・ファシリテーターの資格をオンラインで取得した。

やり方の雛形を学び、リアルが無理な状況なのでオンラインで行う形に…

そもそも本を読むのが好きという状態に今は、なっていますが、昔からではありません。

小中学生の頃は嫌いだった…おかげで国語は不得意。大学の文学部中国文学科も漢文が好きで、浪人したくないという理由で、推薦試験を受け入学、さして真面目に勉強もしなかった。

そんな中変わったのは、大学時代、つまらない授業を受けつつ

などにハマり、楽しく読んでおりました。

立正大学に編入学後はまともに勉強しつつ、通学時間で好きな本を…

ただ、ジャンルを超えて考える必要性が理解できたのは…修士を終えて法話をしたり、寺報書いたりするなかで感じたもの。

現代宗教研究所で書いた文章では、守護国家論と立正安国論の関係を論じたが、結末は実は塩野七生さんのガリア戦記と内乱記の違いがヒントになった。

また、立正安国論の現代的な意味合いを見直すかていでも、塩野七生さんの『神の代理人』のメイキングの指摘が有益になった。歴史はある程度だが繰り返されはする。時代と条件を違えるからそっくり同じではないが…

人間そのものは、欲望があり、天才や秀才は我を貫くか我を廃することをするから…

思考をメタ認知しないと火中の栗を拾うになり、失敗しやすい。それを認知した上で、適応する。それは多様な視点が必要であろう。

立ち止まって考えてものを行うのと、反応的に行うの違いはつらぬく力そのものだと思う。

本は遅いメディアであり、時間がかかる。出版まで人の目に何度もさらされる。だからこそ、安定性がある。

歴史は繰り返され、それから学びきれないのはいつもだ。各言う私も愚才故に繰り返す。

それと知りつつ、多様な視点を持つ方法として読書会があるのかもしれない。

付きあってくださる方々に感謝しつつ、また待ちあわせ場所に立つのだろうな…



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