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驚き

発表や研究をする時は、冷静さというものを大切にしている。一見すると、そうは見えない。歴史的、地理的背景を詳細に知る。全く違う事実が浮かび上がる。それは、歴史的なもの、文献学的なものの研究での喜びだと思う。

それを味わうことは、僕ある種の麻薬的なもので、どっぷり浸かることも…

研究を離れてもそういう世界があり、そこで生きている人々の喜怒哀楽は多少しれたし、今でもモヤモヤした世界をある見方で見ることで、全く違う側面を見せてくれる研究者の文章に出会うと感動する。

僕にとっては末木文美士先生はそれに当たるのかもしれない。

日常

寺院の日常は、それぞれのあり方で異なる。供養や葬儀はしているし、建物管理やそれに伴う掃除や朝のお勤なんかは共通しているだろう。

活動全般となると寺院規模や住職や坊守さんの価値観でかなり異なる。供養だけでよいと考えるか?日々何某かの活動を行うか?時間との兼ね合いもあり、それぞれと言える。

一冊の本

このブログの中でも書いているが、とある場所の発表のために本を読んでいる。なぜか、課題は「寺と贈与」になり…一冊の本から孫引きをしないために、引用文献の元を読んだり、違う側面がないかとビジネス本を当たったりしている。

徐々に複雑になりつつあって葛藤しているが…

そんな中で出会ったのが、

素晴らしい本というか考え方で、ビジネス本とも言えるし、行動哲学の本とも言えます。寺院の役割、贈与や布施のあり方を考えるなら、過日紹介した

『ファンベース』とともに鉄板書かもと考えられる。

この本がそれほど魅力的なのは、得ることより与えることを考えているからであり、店の永続性を50年は続けたいと願い考えているからだと思う。

理念だけでなく、それに基づく活動も納得するし、自分も取り入れたいものもある。それは時間の考え感じるがいわゆるビジネス本と異なるからであろう。著書自身も触れている『モモ』の現代版的な要素がある。

見えてくる瞬間

研究は見えてくる瞬間、見えてしまう瞬間をもとめるものであり、客観視しやすい。寺院になると当事者感が高くなり、客観視は難しい。

そんな中で本を読んでいくと、机では行きつけない問題にさしかかる。今までもそれを越える方法を考えてきたし、やってみて失敗もしている。それでもまだやってみたいと思わせてくれる本に出会うと嬉しくなる。

昔と異なる本のチョイスが行われ、昔のような純粋な文献学で文章が書けなくなったと感じる。果たしてそれは、研究所に所属すべき存在なのかという疑問を自分に感じるが、発表という負荷、課題がなければこの本にも出会えなかったかとも感じ、当惑する部分もある。(笑)


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