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根拠

七月のお盆の棚経が終了した。本日は2軒だから、一軒平均15分程度になる。昨日までと同じで、マスク着用で、仏具は持参、消毒薬を車の出入りで使用となる。マスク越しでしゃべるし、ソーシアルディスタンスを守る。お茶はしない。

こうすることで感染リスクを減らす。0にはできないが・・・。もちろん棚経中に店舗での飲食は行わない。車中で昼食はあるが・・・。

通常の法事・葬儀も飲食の機会は減らしている。寺での法事後の飲食は現在は禁止、参列者も最大12名としている。ソーシアルディスタンスを守るためでである。窓も全開、夏なんで扇風機も回している。(消毒、手洗いも気をつけつつだが・・・)感染の形の多くは、密封空間、汗や大声を出す処、飲食、接待業に基づいているようであるから。現状であれば、上記の準備であれば、かなり罹患リスクは軽減されるであろう。

今後の予測

我々は専門化ではないので、詳しいことわからないし、目に見えるものでないので不安であります。故に、数字的な考えも大切な指摘になる。

イタリア トリノの素粒子物理学者のパオロ・ジェルダーノ『コロナの時代の僕ら』では

感染症の流行のスピードには「あるひとつの数字にかかっている。あらゆる感染症の秘められた核心と呼ぶべきこの数字は基本再生産数と呼ばれ、R₀という記号で示される。記号の読み方は「アールノート」でどんな病気にもR₀がある。ビリヤードの球の例だと、R₀は2ぴったりで、各感染者が平均ふたりの感受性保持者を感染させる、ということを示している。今回のCOVID-19の場合、R₀は2・5ぐらいではないかと言われている」(18頁)

イタリアの感染での数字は日本にはそのまま採用できない、現実に感染が問題になっている現在ですら、日本では1に至っていない。しかし、油断はできない。

「僕らは自然に対して自分たちの時間を押し付けることに慣れており、その逆になれていない。だから流行があと一週間で終息し、日常が戻ってくることを要求する。要求しながら、かくあれかしと願う。でも、感染症の流行に際しては、何を希望することが許され、何は許されないかを把握すべきだ。なぜなら、最善を望むことが必ずしも正しい希望の持ち方とは限らないからだ。不可能なこと、または実現性の低い未来を待ち望めば、ひとは度重なる失望を味わう羽目になる。希望的観測が問題なのは、この種の危機の場合、それがまやかしというよりも、僕らをまっすぐ不安へ導いてしまうためなのだ」(28頁)

ワクチンができる、特効薬ができる期待は良いが、出来ない場合どうなるのか。コロナと同居しながら生きていくことを模索せざろう得ない。勘違いされると困るが、経済活動を優先するのがよいというわけではないが、極力リスクを減らしつつ、日常を過ごす。

お経回りも同様で、あくまで個人的考えで、他者の判断を否定しているのではないが、感染リスクを出来うる限り減らす努力をしつつ行うという事を考えないといけないのではなんて思う。もちろん、その場所状況に応じるし、その場所の空気感もあるだろうが・・・。

再び、パオロ・ジェルダーノ『コロナの時代の僕ら』では下記の如く述べている。

「ただし希望はある。R₀は変化するのだ。変化が起こるかはある意味、僕ら次第だ。僕たちが感染リスクを減らし、ウイルスがひとからひとへ伝染しにくいように自分たちの行動を改めれば、R₀は小さくなり、感染拡大のスピードが落ちる。」(19頁)

「自分たちの行動を改め」るそのためには、正しい情報と正しい判断が必要になる。そこには自分の都合ではない判断が必要になる。人間は根本的に生きるために欲望がある。その欲望、都合を客観して判断する。かなり難しい。自分の今回の判断だってリスク0ではない。そこには欲望があるのかもしれない。そこに怖れがないとは言えない。

まさに、今という時代は生きることが、修行になった時代なのかもしれない。明確な答えはない、正解があるかもわからない。しかし、日々の判断は必要とされる。まさに「日々是修行」か・・・。

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