人生万事

11月27日付けの朝日新聞の鷲田清一『折々のことば』は

不安定極まりない中で、ざっぱーんと波に洗われることを、流されることを、恐怖しながらも楽しんでる部分があります。

ということばに触れています。不安定を楽しむことは今日読み終わらせた岸田奈美『傘のさし方がわからない』

も同じかもしれない。岸田さん自身は、お母さんが半身不随となり車椅子を使用し、弟さんがダウン症であってもそのことは不幸とは感じてはいない。むしろ、会社で他者に裏切られたり、自身が約束事を守れないことに悩んでいたりする。それは人生をどう受け止め生きて行くか?という問題なのであろう。

円覚寺の横田南嶺老師とユーチューブ対談も書かれている。円覚寺でのサンダルの脱ぎ履きに触れながら、横田南嶺老師のあり方をぞうりに喩えてスケッチしている

敷居、境界、階段を越えていくためには、相応のはきものでなければ、うまく歩めない。気取らず、歩きやすく、すぐに脱いで、すぐにはけるものでなければ。たとえばそれはぞうりのような。越えていくものが建物であっても、誰かの心であっても、同じことがいえるんじゃないかと思った。そもそも自分が身につけているものから、見定めなければいけない。(204頁)

軽やかな足取りで超えていく、そのためには心身を常にキレイにし、見定め続けなければならないのであろう。

中国の故事で有名なのは人生万事塞翁が馬であるが、人生は幸不幸が突然に起こるそれは、避けようがない。

仏教とは何か?と問われると個人的によく言うのは、折々のことばではありませんが、人生は波のようなもの、その中に一つの線を引く。良いからといって増長しない。悪いからといって落ち込みすぎない。メタ認知するこれがおそらく大切であり、仏教の修行の目的の一つでもあろう。

そのためには行だけでは行きつけない。智慧という目指すべき領域やそこに至る過程も知らねばならないのであろう。

頭ではわかるが、実践できているかと言われたら…恥ずかしい。それでもゴールを目指し努力し続けるはできる。それしかできない。

そんなことを感じる今日このごろです。

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