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生命

昨日、安楽死の問題に触れた。

釈迦の仏教から見るとどうみえるか?と考えたが、別段、今回の幇助した人物も、依頼した患者も仏教徒とは限らない。むしろそんなことは考えていないだろう。あくまでも自分の立ち位置ならば・・・という考えを述べた。

ただ、その折、自分の中で気になっていたのは、幇助を依頼される人物の立ち位置と心理状態、依頼する患者当人の感情である。

安楽死の問題とくに自殺幇助の問題を考えた時以下の本を思い出した。

片山恭一といえば、セカチュー(『世界の中心で愛をさけぶ』)ですが、ドラマ・映画になるほどのブームになりました。それに比べると本書は地味な存在です。  
その内容は生と死を真正面に見据えていて、衝撃的です。恋愛小説という枠を超え、臓器移植、自殺、安楽死という複雑な問題に踏み込んでいます。

本書はあくまでも小説です、作者は病人でもないし、動けなくなっていくわけではないが、幇助を依頼される人物の世界を通して、共にあること伴走することの難しさ、当人のジレンマを小説は見事に表している。

家族や主治医がどのように判断するのか?どう寄り添えるのか?
私自身は、この作品の主人公のような結論を下すことはないと思います。しかし、死が生とつながっていること、心や願いと密接に関わっていることを教えてくれています。

今回の騒動をみつつ、15年前に読んだこの本を読み返すと今の自分の感覚は本書に基づくものだと感じます。

また患者同士の分かち合いの機会をと述べましたが、これも下記の本から、かもしれない。

患者さんの孤独を癒せる可能性は、患者さんしかない。それを感じさせてくれるのは本書だとかんじます。

随分前にかかれていますが考えさせられる、一冊です。



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