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浮き沈み

十五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして迷わず、五十にして天命を知る・・という言葉は論語のことばであり、有名である。

馬齢を重ね、自分も来年には五十になる。天命を知っているか?というとままならない。三十にしてまで成り立っているだろうか・・・

大好きな漫画『マスターキートン』でも人間の成熟を問うものがあり、人生がギリシャが平均寿命が50歳だった頃、アリストテレスは結婚適齢期を37歳すなわち大人になるのが37歳といったと述べている。

一方で、日本では元服が12歳なんて時もあり、命のやり取りを行っていた。寿命が八十を超えるようになると成熟大人になるのはいつなのだろう?なんて考えるようになる。

大人になるとは・・・と考えていると6月28日付の読売新聞の人生相談に「弱い自分 新たな挑戦」という記事が載っていた。

不遇の嘆く三十代半ばの女性に、精神科医の野村総一郎先生がお答えになっているが、最後の内容が素晴らしい。

老子の言葉の意訳だそうだが、

どんなにつらい境遇にある時にも、落ちぶれても、自分を見失わず。他人を嫉妬せず、腐らず。淡々と自然に生きている。そんな人が本当の強さを備えている。逆に言うなら、高みしか知らない人は実は弱いのだ。

とのべ、激励している。この考え方は仏教に近いと感じる。

個人的に、仏教は欲望をコントロールする宗教と考えている。滅と表現すると無くすと考えがちだが、現実には制御やコントロールの意味合いがある。食欲を滅したら死しかない。現実にブッダは菩提樹で悟った後に、断食し、入滅しようとしている。しかし、梵天の勧請により、食事を布教を行うことになる。あえて食欲を生じさせたともいえる。

とすれば、悟るのちに食欲を適度にコントロールしたともいえよう。人間が生きるのに最も必要な欲、食欲をコントロールできるということは、ほかの欲もコントロールできるという意味合いも含んでいるのかもしれない。

となれば人生の浮き沈み、幸不幸などに悩まされていないのか?というとその人生は簡単ではない。釈迦族は滅ぼされているし・・それでも嘆きすぎるとか我を忘れるはない。悪魔が近づきささやくことは何度もある。

そこには、人生が波のようなものであるならば、一つの線を引いているともいえる。よいからと言って増長しない、悪いからと言って必要以上に劣等感にさいなまれない。そこが悟った境地の一部であり、人間としての在り方なのであろう。

後世、大乗仏教では祈祷や祈願が起こる。それは因果の法則ですべてを考えた釈迦の仏教とは異なる。しかし、神秘の力に頼ることが悪いと断罪すべきかと言われるとそれほど簡単なものでもない。

佐々木閑先生の『100分de名著 般若心経』では、迷信と神秘の本質的な違いに触れ説明されている。

迷信は「因果関係を想定してはならない二つの現象の間に、誤った因果関係を想定すること」ですから、それは本質的に「虚偽」つまりウソです。したがってそれはわれわれに誤った行動をとらせる元になりますから、よくないことです。これに対して神秘は、それぞれが心の中で感じ取る、「世の因果関係を越えた不思議な力や存在」ですから、それは一人ひとりの感性に依っています。一人ひとりが世界をどうとらえるか、という問題なのですから、そこに「善い」とか「悪い」とか「正しい」とか「間違っている」という区別は立てられません。神秘は決して、迷信のように拒絶されるべきものではないのです。(111頁)

その人のモチベーションを向上させ、生きる力をあたえるのならありともいえる。ただし、そこに欲望を増長させようとするならば、仏教とは言えない。祈願をするのは「叶う」すなわち十回口で唱える考えでもあり、強く願うすなわちそこから自分の人生における行動変容を促す行為でなければならない。神仏に祈ったから自分は無茶な運転をしても交通事故を起こさないとか、飲酒運転も大丈夫だなんてありえない。祈願したことを確認し、より気を付けるのだと意識することが重要であろう。

智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財宝をまもるように、つとめはげむのをまもる。(『感興のことば』第4章10)

放逸にならない、つとめ励むはなかなか難しいが…努力を怠ってはならないということなのであろう。



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