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不老不死

友人から日経の春秋の記事を紹介された。ベニクラゲが死にそうになると若返る話なのだが、不老不死は幸せか?という話です。記事では、不老不死に否定的に扱っている。有限な命ゆえに充実した生があると考えている。
さて、人間の不老不死は古来から夢であり、中国の始皇帝もそれを夢みて徐福に薬の探査を依頼し探させた。また、昨今ではホリエモンも興味を示している。
IPS細胞の研究なども部分的にではあるが…不老不死を目指すものとも言えなくはない。

仏教は不老不死などは基本言わない。諸行無常であり、生老病死の苦しみからは逃れられないと考えてきた。
かって某研究所に在席していた時には、IPS細胞研究者は技術革新して不老不死に技術が近づけば、仏教の前提は崩れるし、また違った価値観が生まれるのではないか?と述べていた。

一方で仏教の経典では、不死的なものも存在する。法華経 如来寿量品では「常在此不滅」「常説法教化」と表現して、いつもあなたのそばにお釈迦さまは存在する。いつもあなたのそばで説法していると述べている。
歴史上のお釈迦様、ゴータマ・ブッダは2500年前に80歳でなくなっているのだから簡単に言えばうそとも言える。しかし、ここで言いたいのが人は肉体が消滅したら居なくなったと言えるかという問いと考えれば受け取り方は変わる。

人の記憶の中に存在し、良き部分を真似し、悪しき部分を反面教師とするならば、肉体が滅しても生きているといえないだろうか?

また、会ったこともない祖父に似ている場合、DNAという記憶テープから引き継いだものとも言えなくもない。さらには、父を介して祖父に会い、仕草が似るなんてあるかもしれない。

志も同じでバトンタッチを繰り返しながら目的を達成する方々もいる。そう考えると不死とは、思いのバトンタッチとも言える。

さて、そう考えてみると肉体的不老不死と志のバトンタッチどちらが重要に感じるだろうか?

私自身は多くの人々や故人の力をいただき今を生きている。そして、我が思いを誰かにつないでもらうに値する人生を歩みたいとも思う。よりよくいき、よりよいバトンタッチをするが大切なのであろう。

不徳の致すところで…とてもできているとは言えないけど…


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