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立ち止まり、見つめる

彼岸が始まり、お経回りをしている。一日40軒ほどのお宅を伺い。お経を読む。2・3年前まではお茶も頂いていたので30軒ほどだったから、スピード化になった。ただ、交流はへっていて残念だし、長く話はできない。

そういう生活でも、だから、疲れて早くねて早く起きる。昨晩は8時に寝て、2時には塔婆を書いていた。そんななかでも読書はしていて、読み終わらせたのは、『医療者が語る答えなき世界: 「いのちの守り人」の人類学 (ちくま新書1261)』 

文化人類学者が医療者にインタビューをした報告書だ。

私たちは具合が悪くなると、自分のことに夢中になって、医療者も私たちと同じ人であるという事実を忘れてしまいがちである。そして医療者自身も患者からそのような人としで見られることを必ずしも望んではいないだろう。              しかしやはり医療者も人なのである。        ここでは診察室ではなかなか超えられない医療者と患者という境界を取り払い、医療者をひととして見てみよう。                    医療者という役割の後ろ側にはいったいどんなひとがいるのだろうか。(13頁)

本書は医療者の心理的な葛藤を現してくれている。

科学的な事実、制度的な限界がありながら臨床の現場と向き合う。そこには人間故に割り切れないもの、倫理や感性が現れる。一見、矛盾に満ちた風習的なものも医療現場には存在していたりもする。でもだからこそ、あり方が命とは何か?生きるとは何か?とい問を我々に突きつけてくるのではないだろうか?

著者は、決して美談を語っているのではない。医療者はこうできたのではと葛藤をかたり、それを聞き自らも考えている。

ここではあくまでも医療者の話ではあるが、我々もまた介護者となりうるし、現実になっている。そこに専門性を超えた普遍的なものも横たわっていないだろうか?

しかしあなたがこの物語を読んだ時に抱いた感情は、無数の問いの答えの集合体であるあなたの自身のどこかを――心地よい形であれ、不快な形であれ――指し示しているはずである。そして、その指し示されたあなたのどこかをよく見る作業は、あなたという集合体がどういう存在なのかを知るきっかけになるだろう。                  文化人類学は他者の生を通じて自分を知る学問だ。私たちはいつかどこかで必ず生のつまずきを抱える。その時に私たちは自分自身で、自分の生のあり方を見つめ、自分だけの答えを出していかなくてはならない。近年いわれる「患者中心の医療」は本人たち自身が主役にならなければ成立しえず、それは私たち自身が自分のカタチをよく見る作業抜きには語れない。                    だからこそ、あなた自身の生がどのような形であるかを知るきっかけに、本書がささやかながらもなれば幸いである。(220.221頁)

本書は『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学 (集英社新書)』

を読み刺戟を受け読み始めた。亡くなられた宮生氏との共著である。 

『急に具合が悪くなる』

は事前に読んではいたのだが…それを踏まえて本書をみるとなぜ宮生氏が自己の最後の往復書簡の相手を磯野氏にしたのかがわかる気がする。倫理に縛られず、まっすぐに事実を見据え、逃げずに立ち止まる。言うは易しだが、行うは難しなものである。それがみについている。親しくなることで、それができなくなることは自然ではある。それでも向き合う、そこからメッセージを受け止め生きていくができるというのは、なかなか難しいのではないだろうか。

磯野さんの作品は、それを示している。本そのものだけでなく、3冊を時系列に読むと、おそらく人間と時間のあり方、死者と生者の関係性も見えてくる。この作品だけでも素晴らしいが、3作品を時系列で読み返したいと感じる。

だが…積読が多すぎて読めないだけど…(笑)

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