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見えないものがつくる世界|湯澤規子「食べる歴史地理学」プロローグ

『7袋のポテトチップス』『胃袋の近代』で注目の歴史地理学者・湯澤規子さんの新連載。あまりに日常すぎて研究されなかった様々な「食」をめぐり、食いしん坊の教授とともに史料とフィールドワークの大海原へ……いざ、出発!

「食べること」はなぜ研究されないのか

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「かんじんなことは、目には見えないんだよ」

『星の王子さま』の著者、サン=テグジュペリはキツネの言葉を借りて、王子にこんなメッセージを伝えている(※注1)。高校生の時に親友が教えてくれたこの一節を、私は折にふれて思い出す。

 地理学者の端くれだからなのか、私は彼のもう一つの名作は『人間の土地』だと思っており、そこに登場する、この世界を知りたいと思うなら、空から見える3本のオレンジの樹、草原を歩く羊たち、そこに暮らす老夫婦の人生に思いを馳せることが重要だ、という話も忘れ難い(※注2)。郵便飛行機の操縦士であったサン=テグジュペリは、空から世界を広く見渡しながら、それでもなお、目を凝らさないと見えない、いや、むしろ目には見えないものが確かに世界を形づくっていることを知っていた。

 それはともすると、忘れられがちな、そしてそれほど重要なこととは思われない、気にとめる人もほとんどいないような、一つの真実である。

 研究者は世界のあらゆる現象を知ろうと日々奔走しているが、「科学的な」裏づけがあり、「客観的な」証拠があることに目を奪われがちである。それらの多くは文字通り、目で見て確かめられるモノなのであり、目には見えないものでは決してない。しかし、そういうモノがセカイを形づくっているのだと信じて疑わなくなった時、どこかに高慢さが芽生え、何か大切なものを忘れてきてしまったように感じるのは、私だけだろうか。

 そんな違和感を抱えた私が、曲がりなりにも研究者として「生命」や「環境」や「科学」という言葉に埋もれてシゴトをすることはいかにも場違いで、サン=テグジュペリの飛行機に乗り込んで逃避行に出かけたことは、これまで一度や二度ではなかったように思う。そうして私は少しずつ「見えないものを見る」ことから、私なりに世界を描きなおしてみたいと考えるようになっていた。

 100年前に生きた人びとの「胃袋」から、つまり「食べること」から近代日本を描いた『胃袋の近代』(名古屋大学出版会、2018年)や、戦後から今日までの私たちの暮らしを描いた『7袋のポテトチップス』(晶文社、2019年)は、そんな思いで綴った作品である。誰にとっても最も身近であるはずの「食べること」が研究上「見えない」ものとされてきたのは、あまりにも日常的であるがゆえに記録が残りにくいそれらを、研究者が積極的に取り上げて論じてこなかったという事情がある。
 しかし、それ以上に痛感させられるのは、研究者に限らず、私たち一人ひとりが持っている何かが、意識的に、あるいは無意識的に「見えない」ものをつくり出し、世界からその複雑さと多様さを「ノイズ」として削ぎ落としてきたということだった。土埃が舞うデコボコの大地よりも、なめらかなリノリウムの床のような世界に居心地の良さを感じ、そういうモノとして理解しようとする欲求がつくり出すセカイ。その中では、物理的に見えないというだけでなく、もしかしたら、世界に向き合う私たちの姿勢や心、社会のしくみが「見えない」ものをつくり出しているのかもしれない。

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マニアックな学問「歴史地理学」の魅力

 ところで、タイトルにある「歴史地理学」という分野を知っている人はそれほど多くはないのではないだろうか。いや、知っている人はほとんどいないかもしれない。でも文字をみれば「歴史」と「地理」を足して、あるいは掛け合わせた分野という予想はつく。まったくひねりのない答えではあるが、その予想は正解である。ところが、「歴史」つまり時間軸と、「地理」つまり空間軸の両方を使ってあれこれ考えるというこの歴史地理学は、じつは意外にもまだマニアックな分野にとどまっている。歴史学には時に熱狂的でさえある大勢のファンがいるのに、どうして地理学にはファンが少ないのか。「こんなに面白いのになぁ」と、高校生の頃からの地理学ファンの一人としては、少し切なくもある。しかし嬉しいことに、最近では歴史学と地形学を掛け合わせた旅番組(例えばNHKの『ブラタモリ』など)が人気を博しているので、「歴史地理学」と聞いて、「えっ? 何それ」と言われなくなる日は近いのかもしれない。

 とはいえ、正直に言えば、もともと「地理学」を学びたかった私が「歴史地理学」という一風変わった分野に飛び込んだのは、理学部の地理学科に入れず、しかたなく文学部に入ったという今思えば単なる偶然に過ぎなかった。何を隠そう歴史地理学と聞いて、私自身が「えっ? 何それ」と思ったものである。しかし、足を踏み入れてみると、これがなかなか面白かった。しばしば歴史学では、文字として残る史料があってはじめて過去を知ることができるといわれるが、地理学では道の形、建物の並び方、畑に植えられている作物、家畜の種類や数、そしてそこに住んでいる人たちの話など、文字以外のものも使えるのだと学んだからである。地理学には「フィールドワーク」、つまり、現場を歩いて自分で手に入れてくる情報や直感をベースにして世界を考えることができる、という楽しみがある。歴史と地理、この二つの視点を使う歴史地理学では、思うままに時空を超えて旅ができる、という魅力も知った。

 そういうフィールドワークに夢中になっているうちに、ふと、あることが気になるようになっていた。それは、私たちの世界には、確かにそこにあるのに見えないものがたくさんある、ということだった。たとえば2015年のノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが『戦争は女の顔をしていない』(※注3)をこの世に送り出したのは、これだけ歴史の研究や知識が積み上げられてなお、そこには「女たちのものがたり」が見えないものであり続けていたからだという。

 女たちがいない世界はない。しかし、戦争の歴史の中に女たちは見えない。

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『戦争は女の顔をしていない』を原作とした漫画(小梅けいと作、速水螺旋人監修)が2020年にKADOKAWAより刊行され、再び話題になっている。

 確かにそこにあるのに、見えない。私たちの目とは不思議なものである。では、なぜ「見えない」のか。そして、それはどうすれば「見える」ようになるのか。

 この連載ではその理由を一つひとつ考えながら、私たちにとって一番身近で、誰もが経験している「食べること」を、歴史地理学の視点から描いていく。そして、その「見えない」世界を歩きながら、私たちの「世界との向き合い方」について考えていきたい。
 日常のありふれた行為であるだけに、そんなものはもちろん知っている、すべて理解していると思いがちである「食べること」。しかし、じつは日常であるがゆえに、身近であるがゆえに、そこにこそ、まだ誰も歩いていない「見えない」世界が果てしなく広がっているのかもしれないのである。 


※注1:サン=テグジュペリ著、内藤濯訳『星の王子さま』(岩波文庫、2017年、140頁)日本語版の初版は1953年に岩波少年文庫より刊行
※注2:サン=テグジュペリ著、堀口大學訳『人間の土地』(新潮文庫、1998年)日本語版の初版は1955年に新潮社より刊行
※注3:初版は1984年、日本語訳は2008年群像社より刊行、2016年岩波現代文庫として再刊

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第3火曜日更新予定
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湯澤規子(ゆざわ・のりこ)
食べながら歩く歴史地理学者。1974年大阪府生まれ。筑波大学歴史・人類学研究科満期退学。博士(文学)。法政大学人間環境学部教授。著書に『7袋のポテトチップス―食べるを語る、胃袋の戦後史』(晶文社)、『胃袋の近代―食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会)、『在来産業と家族の地域史―ライフヒストリーからみた小規模家族経営と結城紬生産』(古今書院)など。

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