Mr.Childrenと僕。
ついに年齢を片手で表せなくなった年にMr.Childrenと僕は出逢った。もっぱら洋楽メインに生活していた日々がガラッと変わったのだ。父親が楽器を演奏する家庭だったためバンドスコアとベスト盤が手を伸ばせばそこにあった。
当時はまだ音楽的な思考も知識もなかった。
その中からMr.Childrenに出逢えたのは運命的だった。
ただこのビックバンドにはおそかれ後からでも出逢えたと思うのだが少しでもリアルタイムで音を浴びれた事を誇らしく思えた。
車に乗れば助手席に座ってMr.Childrenを聴いて出掛けた。まずはCDを集める所から始める。
1番最初に発売日に手にできたのは
「SUPERMARKET FANTASY」だった。
大ヒットシングル「HANABI」をはじめ、LIVE定番曲の「エソラ」などが収録されたアルバムだ。
そこからの日々はCD集めに奔放した。
お年玉とかお小遣いを削って自費で購入するには新品は難しく、中古ショップで購入していた。
でもそんな日々も楽しくて、どの順番で何のアルバムを買ったか未だに記憶に残ってたりもする。
僕たちの親世代は恐らくMr.Childrenドンピシャ世代が故に親戚から「DISCVOREY」や「Q」「シフクノオト」が貰えたりした。
登場頻度の少ないアルバムはレンタルをして揃えた。
今思えばあの頃が1番人生において楽しい瞬間だったのかもしれない。まだまだ知らないMr.Childrenの楽曲があるという幸せな時間だった。
そのあともオタク度は加速し、
その当時行っていたツアーと同じスケジュールの日に
自室で同じ時間から同じ演目を歌うというなりきりをしてたくらいだ。ツアーなんてほぼ、土日。友達と遊んでいても数時間前になると帰宅して準備して定刻通り奏でていた。(果たしてこれはオタクなのかは不明)
衣装も変えて、部屋の照明をそれっぽく炊いて
地名に合わせて目の前にいないオーディエンスを煽ってだ笑
そして5.6年生の時に担当の先生だった恩師の影響も大きかった。掃除の時間は自由にMr.Childrenをかけてもいいと言ってくれていた。そんなある日、その恩師から職員室に来るよう言われ怒られる事を想定していくとまさかのプレゼント。それはregress or progress '96-'97 tourのキーホルダーグッズだった。当時の熱の入り用がどうやら生徒である僕に似ていたのか…
それは想わぬプレゼントだった。(今でも車のキーケースにつけている)
この頃になるとインターネットを駆使して
Mr.Childrenの数字の部分を追うようになっていた。
そのおかげで未だに発売日だったり売上数なんかはインプットされている。(本業である勉学には活かせず…)
中学生になると学校の方針でTo Doリストならぬものの提出が求められた。具体的に何時に何をしてといった1日の予定表だ。僕はそこにMr.Childrenタイムと銘打って殆どの時間を占めさせていた訳だが、受験を控えた年、三者面談が開かれたある日「もう少しこのMr.Childrenタイムを勉強の時間に持って来れませんか?」と言った担任を一蹴した。
「Mr.Childrenは僕の血液・心臓です。常に動いてつねに流れているものです」
僕は桜井さんと同じように単願推薦で高校に入学した。
初めてコンサートに行き、生で見るMr.Childrenの面々は涙で濡れてぼやけて見えた。まぁそれはいつ行ってもそうなのだが、同じ時代に生きれた事を誇りに思えて安心した。いつも画面越しや紙面越しで見ているメンバーが手を伸ばせば届く距離で見れる時にいつも思うことは“日本にはMr.Childrenがいる”ということ。
音楽好きも高じて高校卒業後は音楽の専門学校に進んだ。その当時に起こった思いがけぬハプニングは以前の記事からお読みください。
そして現在。時の流れは早くもう25なのだけれど、
僕もまた半世紀への扉を開いて歩むのだ。
Mr.ChildrenがくれたGIFTは僕の日常を彩り
終わりなき旅へと導いてくれた。
蛇口を撚れば水が出るように
目覚めるとまた新しい朝を迎えるように
そんな何気ない日々を驕らず、当たり前と思わずに
Mr.Childrenと共に過ごしていきたい。
多感な時期に聴いていた音楽がその人を形勢るというがそれが僕はMr.Childrenで良かったと思っています。
同時に日本に生まれて良かったと思わせてくれるバンドです。そんなバンドに
惜しみない敬意と愛を込めて感謝を。
次回はそんなファン歴17年の僕が選ぶ
隠れ切れない隠れた名曲を紹介できればと思う。
→続
ただのファンの経歴に付き合ってくれた皆様
ありがとうございます。
次回も懲りずに閲覧して頂ければと思います。
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