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遠回りのオタク

 2017年11月8日、東京ドーム。暗闇に包まれる中、開演を告げる「Overture」が流れると、一斉にサイリウムが七色に光り始め、5万人のオタク達の野太い声が地鳴りのように会場一面に響き渡る。「Overture」が鳴り止むと、1曲目のイントロが流れ、火薬の爆音と共に制服を身に纏ったメンバーが登場すると、サイリウムを振り続ける5万人と共に僕のボルテージは最高潮に達した。「制服のマネキン」は乃木坂46の楽曲で僕が1番好きな作品だ。乃木坂46は生みの親である秋元康が「リセエンヌ」と表したように、フランスの女子高生のような「清楚さ」、「優雅さ」をイメージしており、楽曲も清涼感のある曲が多い。しかし、この「制服のマネキン」は違う。この曲は「恋をするのはいけないことか?」、「大人に邪魔をさせない」などと大人への反抗を歌っており、これは彼女達の妹分である欅坂46の衝撃のデビュー作「サイレントマジョリティー」の原作だとファンの間では言われている。そんな若者に突き刺さる楽曲も魅力の一つだが、やはり彼女たちの「顔面偏差値の高さ」に僕が惹かれてしまったのは隠せまい。


 僕がアイドルに魅せられて、もう20年になる。両親の話では、5歳の僕はテレビの前の「桃色片想い」を歌う松浦亜弥に夢中だったという。当時はモーニング娘が絶頂期を迎えており、小泉政権の元、日本国民の多くが「日本の未来は(wow, wow, wow, wow)世界がうらやむ……」などと明るい日本の未来を描いていた。
そんなことも知らずに中学生になった2009年ごろ、秋元康プロデュースのAKB48が全盛期を迎えようとしていた。彼女たちの活躍もあり、秋葉原を中心に「オタク文化」が世間に広く知られたのはこの時期だと、個人的には思う。そんな時代に、僕は一面の田畑と巨大なため池に囲まれた田舎の中学校に通う毎日を過ごしていた。学校にはAKB48を知る人はいたが、大好きだと言う人はいなかった。僕は画面を通して、彼女たちの映像を見てはいたが、おそらく本能的には好きなのだろう。しかし、肌感覚だが、当時は「オタク」に対する世間の評価は低く、蔑まれた目で見られていたように思う。テレビなどのマスメディアでも、「オタク」は鉢巻を頭に巻き、チェックのシャツを身に纏った中年の男性として、まるで「社会不適合者」であるかのように演出されていた。その影響か、同級生のアニメオタクの友人K(仮)に対して、特に女子から彼に向けられていた声は、ここには記載できないような類の、かなり酷いものだった。なので、自分もそういう扱いをされることに怯えていた。「現場」と言われるライブや握手会に行きたいと思っても、なぜかそれを否定する自分がいた。自分も無意識のうちに、そういった現場にいるオタクを蔑んだ目で見ていたのだ。いい年こいた中年のオッサン達が、若い女の子が歌って踊る姿に興奮し、騒ぎ、素肌に触れることで満足感を満たす行為を僕は軽蔑していたのだ。当時の僕はカラオケに友達と行った際も、デンモクの履歴にある「ポニーテールとシュシュ」を入れる勇気などなく、タオルを振り回しながら、心無いままに「湘南乃風」に吹かれるしかなかったのである。 


 大学1年の夏、バイト先の休憩室にいた友人S(仮)が動画を見ていたので、僕は「何を見ているのか?」と聞いた。彼は「欅坂46だ。」と言った。この時、僕は仲間を見つけたという嬉しさに加えてある種の奇妙な違和感を感じた。なぜならSとは高校時代、同じ野球部で、彼がアイドルなんてものではなく、B`zやMr.Childrenといった90年代のJ-POPを代表するロックミュージシャンたちの熱狂的なファンだと認識していたからだ。そんなアイドルとは無縁で、親世代の影響を受けてきた彼が、自分と同世代の女の子に向けてサイリウムを懸命に振る姿など想像できなかった。
 それから僕とSは乃木坂46の東京ドーム公演に行くことになった。公演当日、そこにはオレンジ一色に染まったG党の姿はなかった。今まで感じたことのない熱気と異様な雰囲気を纏った5万人を前に、興奮すると同時に、その熱狂ぶりに畏怖すら感じた。この公演は2人のメンバーにとっての卒業公演でもあった。最後のアンコール曲が終わり、これで終わりかと思った瞬間、イントロが流れ出した。鳥肌が収まらなかった。「きっかけ」。この曲はアルバム収録曲だが、Mr.Childrenの桜井和寿が武道館ライブでカバーするほど絶賛しており、ファンに愛される名曲である。その歌詞の中に「流されてしまうこと、抵抗しながら、生きるとは選択肢たった一つを選ぶこと」とあるが、この時、僕は思わず、その歌詞に自分の想いを重ねた。ああ、僕は随分と流されてきてしまった。でも今、この場所にいるという選択を自分で出来たんだ、と。そこに追い打ちをかけるかのように、卒業する2人のいるステージ中央に次々とメンバーが集まる姿を見て、目頭が熱くなってきた。ふと周りを見回すと、サイリウムを5本持った40代くらいのおじさんも、自作したメンバーの衣装に身を包んだ20代の女性も涙を流していた。卒業する2人の歩んできた歴史や、それを見送るメンバーの想いと「きっかけ」のメロディが重なり、彼女たちの物語の中にいたのだ。
「みんなで一つになろう」。奇しくも、野球部だった僕は、大人達のこの言葉に違和感を感じていた。高校球児は「甲子園」を目指すことに青春時代を費やす。しかし、高校野球の公式戦に出られるのはベンチに入る約20人だけ。更にそこから絞られた9人がレギュラーとなる。つまり、高校3年間はこの9人の座を争う競争社会を過ごしている。僕はみんなで頑張ろうと言いながら、練習試合でライバルのミスを喜んでいた。確かに野球にも物語がある。だが野球選手は自分のためにプレーする。勝利という目的を達成するためにプレーやドラマを生み出し、間接的に観客を魅了する。甲子園で敗れ、砂をかき集める高校球児に涙する女子高生に、彼らの歩んできた物語は理解できないはずだ。対して、アイドルはライブでのパフォーマンス、握手会でのファン対応など、全てはファンを喜ばせるために行動し、直接的に観客を魅了する。自分の推しメンと握手した後はどうしても顔がにやけるのを抑えられない。これは人類が宇宙に移住することより難しいと僕は思う。これが野球とアイドルの決定的な違いだ。
東京ドームにいる今この瞬間、ここにいる5万人は間違いなく「一つになっている」のだと理解した。ずっと感じていた違和感が、今まで感じたことのない鳥肌と共に消えていくのを感じた。一人一人の想いも、歩んできた人生も全く違う。僕のように自己否定し続けた先に、ようやく堂々と胸を張って「オタク」として生きている人もいれば、幼いころから「オタク」として己が道を進んできた人もいる。周りの目を気にして、本当の自分を隠し続けている人もいるのかもしれない。それでも確かに僕たちはこの瞬間を一生忘れることはないだろうと確信した。ふと横を見ると、Sの目に大粒の涙が流れていた。共に甲子園を夢見た高校3年最後の夏、試合終了を告げるサイレンに流していた彼の涙よりも大粒の涙が。彼は今でもこの日を超える感動はないと言う。その涙を見て、僕は彼も自分と同じなのではないかと思った。そうか、僕たちは学生時代の青春の全てを賭けて挑んだはずの「野球オタク」ではなかったのだ、と。

(了)


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