現代美術は私を救わなかった

大学に進学したのはもう10年前になる。
1年浪人して、第三志望くらいのメディア芸術コースに進学した。特に考えもなく藝大に行きたかった。しかしデッサン力は頭打ちだった。勉強もたいして出来ないしあの精神状態で成績が伸びるわけもなく絶望しかなかった。
絵が描けてデザインというものを学べば食いっぱぐれないだろうと安易に考えて平面系の進学先ばかり選んでいた中で、メディア芸術祭で見たクワクボリョウタの作品に惹かれてこの人がいるところならと興味を持って受験した科だった。
授業は多岐に渡り、デザインとアートの区別もつかないままの私はいろんな作品を見たし、講義も受けたし、行ける範囲で美術館やギャラリー(とライブハウス)に足繁く通った。
その中でフェミニズムにも出会ったし、現代アートにも触れた。
しかし全て作品群はパッケージングされ鑑賞用として私の入る隙などなかったし、多分そんな願望もなかったのだろう。
なりたいではなく周りがそうだからなるんだろうという予感は外れて、アーティストになりたかったわけではなかった私は何にもならなかった。
子どもの頃からひたすら図書室と図書館に通い本を借りて読書をして、毎週水曜日は少年サンデーを読んで、イヤフォンで耳を塞いで、ガラケーで人様のブログを読んで、パソコンでニコニコとpixivを見ていた私は、作りたいより読みたかった、聞きたかった、見ていたかった。
私は世界に参加する気などさらさらなくて、それでもそうもいかず世界にほっぽり出される。
これは困った。
本当に今も困っている。

なぜ作るのか、に対して自分が見たいものを作っている(脳内を出力している)というのを聞いた時は、なるほどと思ったけれど、私の脳は空っぽだった。手を動かして出てきたもの、それが結果的な作品であった。
人の作品に触れる度にこんなことを考え、思いついて具現化出来る人たちがいるのだなあ、もっと見せてくれよ、と感心してしまう。
崇高なコンセプトなどというものがあるのなら、端から政治に参加したりそれ用のプロダクトを作ったりプラカードを持ってデモでもした方がいいのではないのか?作品を通す必要性はあるのか?そんな疑念がありつつも、アートを通して届くものがあるのは事実だし、そうでなければならないものもあるのだろう。

この歳になってまさに笛美さんの「ぜんぶ運命だったんかい」という本が物語るようにトラウマも、女であるが故に受けた不利益も全部辻褄が合うのだ。合ってしまうのだ。
結局、逆境的小児期体験が尾を引き今も身体的不調と躁と鬱を行ったり来たりしている。困った脳と身体である。
このバラバラな言葉たちに価値はないかもしれない。
言い訳にもならない。
運が悪かった?
それでも世界は続いていく。
アートオークションでは想像もできない額で作品が売買される一方で、個人の尊厳を拾い集めるような現代アート、どちらも私を救わなかった。
そしてやっと辿り着いたトラウマ治療。私は上手く利用出来るだろうか。
うっかりアートや作品といったものを経由したからこそ、私の苦しみは表現という崇高さに昇華され、治療に辿り着くのに時間がかかったのだろう。
美術(大学)の中で、精神を病むということはあまりにも大したことではなかったのだろう。個性との区別もつかない。治療にも繋げない。
どこに恨み辛みを抱いてもあらゆることが繋がっている限り元凶は生まれたことになってしまうのだから、どうしようもない。
死ねない、それだけは確定している。


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