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お水の花道──歌舞伎町編 第7回

その人は無口だった。仲の良い友人だかと数人で来て、みんなの愉快なやりとりにときおり笑みを浮かべながら、ゆっくりと薄い水割りを飲んでいた。

喋らなくてもこうして楽しめる人がいるんだなあ。そう微笑ましく思っていたら、そろそろお開きというとき、ようやく理由がわかった。支配人を手招きした彼が、手元にあった黒い電気剃刀みたいな機械を下顎にあて、ロボットのような一本調子で「タカハシデ、リョーシューショヲ」と言ったのだ。

電動式人口喉頭という発声補助器具だった。スイッチを押すと振動が起き、声が出る。子どものころに宇宙人の物真似で喉をトントンやりながら「ワーレーワーレーワ」などとやったものだが、そのような抑揚のない声を想像すると近いかもしれない。喉頭がんで喉頭(声帯)を摘出し、久しぶりに店に来たことをあとで知った。

母が二番館近くの「婉」という店に勤めていると知ったタカハシさんは、母を特別贔屓にしていたわけでもないのに、二番館を出た後に飲みに行ってくれた。帰りがけに支配人から婉に寄るように言われ、その晩、私と母はタカハシさんの運転する車で帰ることになった。

駐車場に行きすがら、母は「タカハシさんの車、いいんだよ〜」とウキウキした調子で言った。

本当にそのとおりだった。ベンツに乗るのは初体験だったが、ドアを閉めると外のざわめきが一瞬にしてどこかに吸い込まれたかのように無音になった。革張りのシートはひんやり、かつ柔らかく、タカハシさんがシフトレバーをドライブに入れると、ぬらりと道路に吸い付くように走り出した。

歌舞伎町から母と私の家のある田無市までは、青梅街道をまっすぐ行くだけなのだが、この道を以前タクシーで帰ったことがあった私は、違う道なんじゃないかと思った。それくらい、振動がないのだ。

後部座席からその感動を伝えると、タカハシさんはさっとその器具を左手に取って喉元にあて、「ヨカッタ」と言った。そして、実は屋根が少し傷ついているので塗り直したいのだが、高くてまだやってない、というような話を続けた。
「いくらなんですか?」「ニヒャク」「え?200万⁈」

二十歳過ぎの私には天文学的数字だった。なんでも屋根だけ塗り直すわけにいかない、とディーラーに言われたそうだ。私が「一年分の学費より高い」と言うと、声にならない声で笑っていた。忘れがたい深夜のドライブだった。

その後も何度か青梅街道をタクシーや別の男性の車で走ることはあったが、あのような"安全な卵"に乗っているような感覚はついぞ感じたことがない。あれがベンツのせいなのか、それとも宇宙人の声をもつタカハシさんの安心感のせいなのか、いまもわからない。

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