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ビートたけしの「正体」とは!The comparison between Shakespeare's 'The Words of the Three Witches' and the 'Catholic Message', 'The Word of God' provokes Beat Takeshi.

プロローグ ビートたけしの〈幻想のお笑い〉

シェイクスピア「マクベス」の「三人の魔女の言葉」と「カトリックメッセージ」である「神の言葉」の比較はビートたけしを焙り出す。

シェイクスピアのマクベスは「三人の魔女の言葉」を「ロゴス感覚の転覆」として描いた。そして日本の人気者だったビートたけしの芸は「ロゴス感覚の転覆」としてある。それは何を意味しているのだろうか?
それは「神の言葉」によってしか解すことが出来ない厄介な代物であるのだ!

イマーゴ(信仰の理想)を付け回しプロテスタントデマゴーグを狙う魔物への「護符」 最高善を躓かせる仕掛けとしてのプロテスタントデマゴーグは最高悪サタンの計略でありアンチキリストのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉という屁理屈(イノセンス)である。それは一見クリーンイメージの人間関係の産物であるが「天然邪悪の概念」である。それは「人間の悪臭」を発散しそれを「高価な香水」で誤魔化している。「聖なる香水」とはロゴス感覚によるカトリック純愛メシア信仰であり「聖水」と呼ばれる。"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."

1 「カトリックエリート」と「文化芸術」

ビートたけしの問題点をはじめに解りやすく指摘しておく。彼は『最高善に弓を引くプロテスタントデマゴーグのヤンキー』であると同時に「最高善の結晶」である『カトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)』への感性を持っていると主張する。
それは強ち間違いではない。何故ならば彼は最高善を堕落させるために付け狙う仕掛けでもってプロテスタントデマゴーグで扇動する「魔物」と言える存在だからだ。

しかしそれはカトリックエリートではないことを明確に示している。それはある意味「トリックスター」と言えるだろう。しかしその意味は「詐欺師」である。それはカルトエリート(プロテスタントデマゴーグ)でありカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)を全否定する原始的段階に近い存在である。それはカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)に対しカルトエリート芸術(プロテスタントデマゴーグ)として存在し日本サブカルチャーにおいてオタクの二次創作と称されている。

この様に最高善を堕落させるために付け狙った存在は嘗て「アドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスのナチズム」が有名だろう。確かに彼らは「最高善を名乗るカルトエリート芸術家(プロテスタントデマゴーグ)」だった。しかし彼らのカルトエリート芸術(プロテスタントデマゴーグ)は「最高善から堕落させるためのプロテスタントデマゴーグ」だった。何故ならば最高善とはカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)の概念だからだ。そして文化芸術はカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)としてある。

最高善へ弓を引くビートたけしはカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)に対しプロテスタントデマゴーグを行う「トリックスター」となる。それは文化芸術を貶め否定する低俗な存在にすぎない。それはビートたけしがいくら自らを文化芸術だと主張しようとそれは全くの「デマゴギー」であり「嘘のない言葉(新海誠)」である。彼は稀代の詐欺師であるがカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)を貶めるだけで文化芸術の欠片もない劣った存在なのだ。まさに「詐欺師は頭良い(屁理屈頭賛美)」とは彼のことである。

最高善の撃墜を狙うプロテスタントデマゴーグの存在は最高悪サタンであり堕天使ルシフェルの反逆である。そしてアンチキリストの存在となるだろう。

2 最高善のカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)としての「フィンセント・ファン・ゴッホ」

ここで疑問があるのは「最高善のカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)」とは如何なるものであろうか?
それはフィンセント・ファン・ゴッホの絵画であったりするだろう。それは聖書のロゴス感覚のカトリック純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉)を描いたものである。そしてそれはカトリックエリートの概念であり文化芸術として輝かしく存在する。

フィンセント・ファン・ゴッホのロゴス感覚のカトリック純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉)
最高善の結晶
フィンセント・ファン・ゴッホが最も多く描いたモチーフ(種蒔く人)最高善の結晶
カトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)

トリックスター
trickster
神話や民間伝承のなかで,トリック(詐術)を駆使するいたずら者として活躍する人物や動物。ときには愚かな失敗をし,みずからを破滅に追いやることもあるが,詐術的知恵や身体的敏捷性をもって神や王など秩序の体現者を愚弄し,世界(社会)秩序を混乱・破壊させる。一方,一般の人間界に知恵や道具をもたらす⇨文化英雄としての役割も果し,両義的な性格をもつ。北アメリカインディアンの間ではコヨーテやワタリガラス,野ウサギなどが,またアフリカではクモやカメ,野ウサギなどの動物であることが多い。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

トリック‐スター【trickster】
①詐欺師。ぺてん師。
②神話や民間伝承などで、社会の道徳・秩序を乱す一方、文化の活性化の役割を担うような存在。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

trick・ster [tríkstər]〓
―n.
1 詐欺師,ぺてん師.
2 手品[奇術]師.
3 トリックスター:多くの原始民族の民間伝承や神話に登場する人物や動物で,通例,文化英雄(culture hero)と重なることも多い;さまざまな装いで出現し,いたずら,悪さを事とし,それまであった秩序を一時的に破壊する.
[1711]
trick・ster・ing
―n.
trick・ster・ism
―n.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
三位一体の「ペルソナ」とトリックスターの「面子」は此の論考のテーマです。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."

第一章 日本の超人気者だったビートたけし(北野武)

ビートたけし(北野武)の「Persona」-(Beast「エニグマヤンキーの面子」の崇拝)と(Humanism「カトリックエリートの純愛信仰」)と(最高善「カトリックエリートのCharity」)

1 ビートたけし(北野武)を愛する日本国国民

日本の皆さんの多くはビートたけし(北野武)をご存知だろう。私も漫才コンビである「ツービート」での活躍やテレビ番組の司会、「ドラマ・映画」作品での大活躍でよく知っていた。一般に漫才はコンビで行なわれるため其の才能の評価は「漫才の台本」の執筆者に為される場合が多い。

2 ビートたけしの才能(タレント性)は「躓きの石」である。

そして一般に「漫才の台本」を書いた方に才能があるとされる。例えば現在でも「爆笑問題」のコント台本は太田光が執筆しているという理由で高評価された。立川談志とビートたけしが太田光を高評価したのはあまりに有名である。

その評価は「カトリックエリートのペルソナの確立」であるか「人間関係の産物のお約束(大ウケ)」であるか私には理解しがたい関係が存在している。釈然としない「人間存在の才能」と「人間の関係の産物のお約束(大ウケ)」のコネクションが私には理解しがたい。何故ならばそれは「カトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)」ではないからだ。だからそのような人間関係の産物のお約束(詐欺)は「芸能雑誌」にでてくる「事情通」に聴いてみるのが早道だろう。しかし「人間関係の産物のお約束」を「才能」とすることは「在り来り」であり、「真のカトリックエリートのペルソナの確立」を持った「カトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)」の「才能」は「シェイクスピア」や「フィンセント・ファン・ゴッホ」などの真の「カトリックメッセージ芸術家(カトリックエリート)」に限られるだろう。

田中裕二の才能は太田光の才能があってあり得るとされている。しかし田中裕二の人脈もかなり凄い。裕二の兄はあの「コムデギャルソン」の「デザイナー」であり何らかのコネクション(人間関係の産物のお約束)の悪臭がする。爆笑問題の彼らもカトリックエリートの愛された才能ではなく「カトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)」を貶めて成立する「人間関係の産物の結晶(大ウケ)」なのである。要は「詐欺師」なのだ。

ツービートの台本はビートたけし(北野武)が執筆しビートきよしは書いていないとされていた。そのために相方であるビートきよしの評価は低い。ツービートの成功の理由はビートたけし(北野武)の台本の才能とされた。「漫才の台本」に拠ってビートたけし(北野武)は才能を認められたのだ。そして漫才ブーム以後に於いてビートたけし(北野武)は「才能の代名詞」とされたのだ。しかしその才能はカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)の才能とはいえないだろう。何故ならば彼はカルトエリート芸術(プロテスタントデマゴーグ)のトリックスターだからだ。

カトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)に対するプロテスタントデマゴーグを狙うトリックスターがビートたけしだからだ。トリックスター故に彼は他のカルトエリート芸術(プロテスタントデマゴーグ)のカースト制から差別化を謀ることができる。そのカースト制に取り込まれない。しかし彼はカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)ではない。カルトエリート芸術(プロテスタントデマゴーグ)のトリックスターであり、ある意味最低なカルト芸術(屁理屈屋)でありそして最強のカルト芸術(屁理屈屋)である。
※カルト芸術(屁理屈屋)はプロテスタントデマゴーグとして表される。

彼が「神童」のように扱われた理由は「文化芸術に対するプロテスタントデマゴーグ」であっただろう。しかし現在のビートたけしは映画監督としての世界映画祭大賞受賞などによって完全に「芸術家」と見做されている。しかし彼は「最高善へのプロテスタントデマゴーグの宣伝映画を制作」したに過ぎないだろう。彼の映画は「ナチス・ドイツの宣伝映画」同等である。それは彼の映画がカルトエリート芸術(プロテスタントデマゴーグ)であることを示しているのだ。

最後に「才能」とは?
才能とはカトリックエリートとの関係でありカトリックエリートのペルソナの確立である。それはロゴス感覚のカトリック純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉)である。その敵が「プロテスタントデマゴーグのカルトエリート芸術(プロテスタントデマゴーグ)の才能」である。しかしそれは最低で最強で最も陳腐なトリックスターであるのだ。

それを「躓きの石」という。

この「才能」の違いとは何かと言えば「最高善のカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)の才能」は可愛い存在の神の子(神に愛されキャラクター)であり、カルトエリート芸術(プロテスタントデマゴーグ)の才能は人間関係の産物のお約束(人に愛されキャラクター)と言えるだろう。
それは「特殊詐欺」と言う「躓きの石」を示しているのだ。

イエス・キリストは「躓きの石」に用心を促す!
イエスはカトリックメッセージ芸術家(カトリックエリート)である。

3 アーリア(高貴さ)としての「市民権=共犯関係」はカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)をプロテスタントデマゴーグするカルトエリート芸術(プロテスタントデマゴーグ)であり「一神教」と「多神教」の間の関係と同様である。

(※エニグマ=人間関係の産物)
ここで多くのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉がアーリア(高貴さ)とされる一般的仕組みを一言で言えば「《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)》が市民権を得る」ということになる。市民権を得たと言えばそれはアーリア(高貴さ)とされるのだ。

INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉とアーリア(高貴さ)の関係は、カトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定することでプロテスタントデマゴーグの感覚《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を最上位とすることである。しかしそういったプロテスタントデマゴーグの感覚《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》は捏造であってサタン崇拝運動の扇動によって形成される。それは個人崇拝のデマゴーグとして発現しカリスマとされる。堕天使ルシフェルの行いなのだ。

これはビートたけし(北野武)がロゴス感覚のペルソナ(カトリックエリート)ではなく《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の崇拝としてあることを示している。それはビートたけし(北野武)がプロテスタントデマゴーグの劣等感覚(捏造感覚)であることを示しているのだ。一般にお笑い芸人とは其の様な存在である。

普遍社会信仰(カトリック)は神でありダビデでありイエス・キリストである。普遍社会信仰(カトリックエリート)はカトリックエリートの王国へのメシアの導きである。しかし後に述べるが普遍社会信仰(カトリックエリート)とはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を察知し嫌悪して《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の崇拝としてある「バベルの塔」へカトリックエリートの雷を落とすものである。それは「カトリックエリートの怒り」であり旧約聖書サムエル記「ダビデとゴリアテ」の聖戦である。

しかし「市民権=共犯関係」を得たINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉とは人間関係の中でINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)の容認を形成し共犯関係を正当化する市民権を得たもののことである。面子(エニグマヤンキー)とは市民権であるのだ。またその容認は人間関係において発生するパワーハラスメントが人間の普遍社会信仰(カトリックエリート)を否定してINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)の市民権を構築する。

私も会社員生活で経験したが普遍社会信仰(カトリックエリート)を貶め否定した人間関係においてINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)の容認をパワーハラスメントに拠って暗に強要することがあることを思い知った。はっきり言ってそんな理不尽なINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)の容認はしたくないが、しかし逆にダビデの普遍社会信仰(カトリックエリート)であるものの方がINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を容認しない「我儘な存在」とされ非難され攻撃される。

これはパワーハラスメントという「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)の容認」がパワーハラスメントに拠って行なわれるという「完全INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)のディストピア」でしかないのだ。単なるパワーハラスメントの支配である。パワーハラスメントこそがパワー支配(力の支配)に他ならないことが暴露される。露骨にパワーハラスメント(力関係の嫌がらせ)で他者に服従(屈服)を迫るのだ!

そのパワーハラスメントのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)をアーリア(高貴さ)とされた存在であり、またそれを扇動する存在が最高権威の権力者(カリスマ)であり、個人崇拝のデマゴーグであったヒットラー総統であり、昭和天皇の存在であった。他にも最高権威を称するものは複数いるだろう。それは一神教に対して多神教としてあるのだ。

一神教と多神教は「至高の抽象化の高み」と「原始的段階」の差となる。

一神教と多神教は「至高の抽象化の高み」と「原始的段階」の差となる。「劣等感覚」が威張るのが「傲慢感覚」でありそれが極右思想である。「劣等感覚」では認識できない故に「現実」が見えないのだ。

そしてそのような「劣等感覚」で威張り抜く「傲慢感覚」は「極右思想」だが低能集団である。フロイトによれば一神教は「至高の抽象化の高み」にあり多神教は「原始的段階に近い」在り方とされている。

統一教会の文鮮明氏やアベノミクスの安倍晋三氏など他にも多くいる個人崇拝のデマゴーグは「カトリックエリートの言葉(聖痕の徴の受肉)」を貶め否定することでそのデマゴーグで扇動し堕落した存在を賛美するのだ。

ただパワーハラスメントの容認と正当化によって堕落した存在の賛美が如何に行なわれるかということがINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を容認する猿知恵として存在する「猿の脳の惑星」の在り方である。

それはカトリックエリートではなくカルトエリート(プロテスタントデマゴーグ)として存在し世界を破壊するのだ!

4 「光市母子殺害事件」のパワーハラスメント

例えば「光市母子殺害事件」において未成年であった被告への死刑判決運動が起こった。未成年であった被告でも極悪人だから「殺してしまえ!」という訳である。

有名テレビタレントだった橋下徹弁護士(自称政治家)が率先して死刑判決を煽ったことはあまりに有名である。あまりにも残忍非道な犯行であり被害者遺族の怒りが強かったことで未成年の被告に対する死刑判決が言い渡された。

これは「被害者家族感情」によるパワーハラスメントと言えるだろうか?それともINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉な被告に対して普遍社会信仰(カトリックエリート)がそのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を察知し嫌悪して死刑判決で殺す「聖痕の徴」だったのだろうか?
※ソクラテスの毒杯による死刑とイエス・キリストの磔刑を想起させる。

「光市母子殺害事件」の死刑判決とは普遍社会信仰(カトリックエリート)としてあるのか?「光市母子殺害事件」の死刑判決とはパワーハラスメントの容認としての《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の人間関係としてあるのか?

5 私はこの事件を〈カトリック純愛メシア信仰(カトリックメッセージ)の視点〉から幾らか調べてみた。《・・・と言っても朝日新聞の「聞蔵」と毎日新聞の「毎索」で「過去の記事」を読み直しそして出版されている幾らかの本を読んでみただけである。》《ま・・其の程度である。》

しかし被告であるINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉な犯人を死刑判決にするために死刑判決運動が起こった凶悪事件の割に事件の概要があまりにも曖昧であると私は感じた。この様に曖昧であるのにそれに全く関わらず被告に対する強烈な感情的非難が沸き起こっていることに疑問を持った。

これは個人崇拝のカリスマのデマゴーグの扇動によって感情的な《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の人間関係を形成したと見做せる。カリスマである個人崇拝のデマゴーグがすることはロゴス感覚(カトリックメッセージ)の貶めと否定である。それは「カトリックエリートの判決」を転覆させることでありえる「プロテスタントデマゴーグの判決」であり、「プロテスタントデマゴーグの判決」を行った《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の人間関係への「カトリックエリートの判決」による「罪と罰」はバベルの塔への雷となりくだされるだろう。これは完全にカトリックエリートへのプロテスタントデマゴーグによって行われたサタンとルシフェルの反逆である。これは先程指摘した「カトリックエリートの判決」を貶め否定して「プロテスタントデマゴーグの判決」を社会的最上位のアーリア(高貴さ)とする社会主義(ナチズム)であり、「この裁判」はただ堕落したものの正当化ではないのかと感じた。この「プロテスタントデマゴーグの判決」はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉であったのだ。この事件の判決は「カトリックエリートの判決」ではなくそれを貶めることで正当化された「プロテスタントデマゴーグの判決」であると見做すことができる。

先ず検察の指摘する事件の概要(あらまし)がいくら読んでも全く「想像段階」であり、被告が明確に認めているわけでもない。では何故検察側はこの事件の概要(あらまし)が解ると強硬に主張しているのか?ここでは全くカトリックエリートが否定されている。それはエニグマでしかないのだ。日本ヤンキーのクーデターだったのだ。これはこの事件のシナリオの捏造でしかなくそれを正当化するための「茶番劇」でしかなかったことを物語っている。

しかしそこがよく分からないのだ。何故そのような卑劣な裁判をする必要があるのだろうか?これは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の崇拝によってカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定し扇動した「プロテスタントデマゴーグの評価」であり堕落したものの正当化であったのだ。特に記事にあった絞殺の手段に「右手の逆手」という表現があった。あまりにも馬鹿な表現だ。そのことは逆に日本医科大学の大野曜吉氏はロゴス感覚(カトリックメッセージ)を信仰しINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の崇拝はしていないことを示している。

殺害方法の曖昧さに疑問がある。何故この様な曖昧な状況証拠で橋下徹先生はあそこまで強硬に死刑判決を扇動したのだろうか?私は違和感を禁じえない。

殺害方法が特定できずに何故被害者遺族は被告を感情的に非難するのか? 日本国憲法のもと被告の「人権」と「権利」に於いて「公正」に裁かれる「必要」があるからである。 それが至上命令である。 被害者家族の感情的非難はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉であり《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》へ崇拝であった。 この裁判は公正な裁判ではない。 この裁判は「私刑(リンチ)」である。

※多分敢えてこの様「右手の逆手」と示すことは「聖痕の徴」となっているのだろう!

6 医学大学の「理念の違い」は「医療能力の格差」となる。その理由は「名医」とは「ヒポクラテス」だからだ!

これは「カトリック・メッセージの評価」へ向かうためにわざと書かれた符号一致偶像(聖痕の徴の受肉)として為された符号偶像(無罪)なのだ。ここで検死について触れたので病院(大学病院)の理念に拠って大きな差が出る例を示しておく。これは患者の治療と同様に検死に関しても言えることだからだ。
日本医科大学がヒポクラテスならば国立千葉大学医学部は全て反対になったサタンとルシフェルの反逆である。

これは「カトリックエリートの評価」へ向かうためにわざと書かれた符号一致偶像(聖痕の徴の受肉)として為された符号偶像(無罪)なのだ。ここで検死について触れたので病院(大学病院)の理念に拠って大きな差が出る例を示しておく。これは患者の治療と同様に検死に関しても言えることだからだ。日本医科大学がヒポクラテスならば国立千葉大学医学部は全て反対になったサタンとルシフェルの反逆である。

千葉大学医学部の教授は私の治療に関する病理学的説明の要求に関してこれは「医学」ではなく「医術」であると言って「言葉の魔術」を弄した。これが千葉大学医学部による「ロゴス感覚(カトリックメッセージ)」を貶め否定する感覚であり千葉大学病院の医師のINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉なのだ。「医学」ではなく「医術」という言語感覚は私には理解できなかった。ただ言えることは医学とはロゴス感覚(カトリックメッセージ)である。「医術」は何だろうか?「医術」とは「ロゴス感覚(カトリックメッセージ)」ではない「術」だけのことである。しかし「医学」があってこその「医術」である筈だ。それはロゴス感覚(カトリックメッセージ)があってこその「術」なのだ。そうでなくて医師が患者の病を治療できる道理はないのだ。それがヒポクラテスである筈なのだ。千葉大学医学部附属病院で何をしているのだろうか?「ナチスの人体実験」と「日本陸軍防疫731部隊」の「人体実験の継承」である。医学部の教授の説明が「医学的」ではなく「医術的」だと弄したのだ。私は絶句してしまった。これはサタン崇拝であり魔女・悪魔の類の「治療感覚」である。カルトなのだ。

魔女と魔術師

カルト(崇拝)でありINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉である。 そしてその「劣等感覚を誇り傲慢感覚」を扇動する。

cult [kʌlt]〓
―n.
1 (ある特定の)祭儀,礼拝形式.
2 (特にある集団の人たちが表明する,ある人・理想・事物への)礼賛,崇拝;(一時的)熱狂,流行,…熱⦅of …⦆:〓
3 (2のような)崇拝[礼賛,熱中]の対象.
4 ⦅集合的⦆ (同じ物・人・理想などに対する)礼賛者の集団.
5 〖社会〗 カルト:ある崇拝の対象を取り巻く,組織化された信仰と儀礼を持った集団;新興の宗教運動に対して用いることが多い.
6 邪教,異教;⦅集合的⦆ 邪[異]教徒.
7 (教祖的人物に由来するとされる)非科学的な治療法,祈祷(きとう)療法.
―adj.
1 cult の.
2 崇拝者の小集団の(ための)[を引きつける].
[1617.<ラテン語 cultus 居住,耕すこと,洗練,崇拝(colere「居住する,耕す,崇拝する」より)]
cúl・tic
―adj.
cul・tu・al [kʌltʃuəl]
―adj.
cult・ish
―adj. (一部の)信奉者のみに支持されている.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

Hippocratic Oath (hip′ō‐krat′ik ōth).〓
ヒポクラテスの誓い(通常,医学士の学位を受けるときに医師が行う誓い.そこで,医師は医学の実践に際して,倫理的な原理を守ることを約束する.この誓いは,Cos島出身のHippocrates(紀元前460―377)にちなんで名づけられている.医学の同業者組合,すなわち,アスクレピアズ協会に属していた彼は,医学の父と称えられている.なぜなら,彼は,医学という技術と科学を哲学や宗教から分離した初めての人だからである.しかしながら,その誓いは,Hippocratesの言語資料体を構成する無数の様々な書物の中で現在まで伝わっているが,それがHippocrates自身によるものであるということについては,近代の学者たちは疑いをもっている.この誓いが,(アスクレピアズ協会の人々の間で,すべて認められ,許されていた)自殺,安楽死,堕胎,手術を禁止していることは,むしろPythagoras学派に由来していることを示唆している.この誓いがいつつくられ,そのもともとの使われ方がどうであったのかはわかっていない).
「私は,医神Apollo,Asclepius,Hygeia,Panaceia,そしてすべての神と女神の名に懸けて,そして,これらの神,女神を証人として,この誓いと約束を果たすことを,私の能力と判断によって誓う.私に医学技術を教えてくれる人を両親と同様にみなす.私の人生,そして必要ならば,私の食料もその先生に分け与える.先生の子供たちは私の兄弟とみなし,彼らに医学技術を教える.医学知識は,書いて,口頭で,あるいは実習で,私の息子たちや私の先生の息子たちに教える.同様に,私たちの職業の規範に従い,他の何者にも従わずに,誓約書に署名し,誓いを宣言したすべての医学生に教える.私は,私の能力と判断に従って,病人の利益のために治療手段を施す.危害を加えたり犯罪を犯したりはしない.私は,誰に対しても,求めに応じて死をもたらす薬を与えたりはしない.また,その使用を勧めたりはしない.同様に,女性に堕胎をさせる薬を与えない.私は純粋な,神聖な生活をし,医療技術を磨く.私は,結石による病気であっても手術はしないが,それに従事する人を妨げたりはしない.私が訪ねる家はどこも,私は病人の利益のためだけに訪れ,意図的な悪行や姦通はしない.特に,男性でも女性でも,自由人でも奴隷でも,性的に親密な関係を結ぶことはない.私は,職業によるものであってもなくても,私が見たり聞いたりした,人々の個人的な生活に関する私的な性質について一切漏らすことはしない.なぜなら,私はそうした情報を暴露することの恥を理解しているからだ.もし,私がこの誓いを実行し破らなければ,私は人生と職業の実践に満足し,人々の間で永遠の栄誉に浴するだろう.もし,私がこの誓いを破り,偽りの誓いをしたら,私のすべては反対になるだろう
米国とカナダのほとんどすべての医学校の卒業生は,学位授与式の間,医学の実践において,倫理的な原理を守るために,何らかの形式の制約を暗唱する.しかし,いまや,Hippocratesの誓いの原文を使用する機関は少ししかない.ほとんどの卒業生は,規則上あるいは道徳上制約にしばられるというよりも,その訓練を,単なる形式上のもの,あるいは伝統への敬意を示すものとみなされているようにみえる.この誓いの現代版は,典型的には,自分の先生の子供たちに無料で医学技術を教えることを約束するとか,手術をしないなどといった,文化的にすでにない用法,すなわち遺物を除外している.より重要なことは,それらのほとんどはまた,神への祈祷を除外し,宗教的な勤めや義務およびそれを破ったときに受ける罰への注意を除外し,さらには,安楽死や医師の助けを借りた自殺,堕胎,患者との性的な関係を誓ってやめることを除外していることである.RoeらとWade(1973年)の裁判において,合衆国大法廷は,堕胎を禁止する点でHippocratesの誓いの権威を拒否した.この誓いは古代の文化水準を反映しておらず,ユダヤキリスト教の堕胎に関する考え方の影響を長くもち続けてきたものであるとの理由による.「まず傷つけないように」(しばしばラテン語で“primum non nocere”と引用される)という一般によく知られた規範は起源がわからないが,Hippocratesの誓いの一部ではない.

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

7 各医学部と各大学病院の決定的な違いとは「医者のための病院」であるか「患者のための病院」あるかの認識の違いである。

「医者のための病院」であるか「患者のための病院」であるかの認識の違いは「ヒポクラテスの誓い」を反故にしたか信仰したかの違いとなる。反故にした医者のための病院は患者の弱みに付け込み食い物にするだけだ!それは私利私欲の詐欺師犯罪グループとなる。信仰した患者のための病院は救済のための教会(赤十字)となるだろう。

日本医科大学はロゴス感覚(カトリックメッセージ)であり医学による患者の救済を明確にしている。

隣人愛と悔い改め 
科学的思考と遊侠と救済

国立大学千葉大学医学部はロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定したプロテスタントデマゴーグの感覚の賛美(サタン崇拝の人体実験)である。この差は大きい。国立千葉大医学部は堕天使ルシフェルのサタン崇拝となるのだ。

千葉大学医学部のミッションは「ヒポクラテスの誓い」ではなかった。 全てが「ヒポクラテスの誓い」と反対となる理屈がある。
千葉大学医学部附属病院も「ヒポクラテスの誓い」を軽視している。

千葉医学について :: 千葉大学大学院医学研究院・医学部
千葉大学医学研究院・医学部は,人類の健康と福祉に貢献すると共に次世代を担う有能な医療人・研究者を育成し,疾病の克服と生命現象の解明に向けて挑戦を続けます。
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獅胆鷹目行以女手
“獅胆鷹目行以女手” は、「したんようもく おこなうに じょしゅをもってす」と読みます。
この教えは、千葉大学医学部の外科学の祖とされる三輪徳寛(1859-1933)が、医員ならびに学生の教訓となるべき格言として残した言葉がもとになっています。臓器制御外科教室(旧第一外科学教室)には、現在でも同門の佐藤豊三郎が寄贈した書家の松平穆堂の筆とされる獅胆鷹目の書が掲げられています(下図)。
この言葉が表す「獅子のように細心にして大胆且つ動じない胆力、鷹のように諸事を見通し、判断、解決できる眼力、女手のように臓器を柔らかく扱い緻密に行える手技」という教えを支えに、多くの学生、医師が修練を積み、秀でた外科医となってきました。そして今なお、この教えを多くの学生が千葉大学医学部で学んでいます。
外科臨床講義ではこの教えが外科手術室(臨床講義室)の壁に大きく壁書きされ、学生は臨床講義の内容を忘れてもこの書だけは忘れ得ぬこととして日々意識され続けてきたと言われています。
*「獅胆鷹目 行以女手」の由来は三輪德寛の残した文書によると(註1)、ドイツ語の”Ein Doktor muss ein Falkenauge, ein Jungfernhand und ein Lowenherz haben.”(医師は鷹の目,娘の手,ライオンの心を持つべし。)、さらにそのオランダ語の原典であろうとされています(註2)。これがシーボルトにより日本に伝えられ、漢文に堪能な弟子等により「獅胆鷹目 行以女手」の名訳が生まれたのではないかと推察されています。同様の言い伝えは古く16世紀イギリスの外科医John Halle(1529-1568)の次の言葉(註3)に見られます。“A surgeon should have … three diverse properties in his person, that is to say, a heart as the heart of a lion, his eyes like the eyes of a hawk, and his hands as the hands of a woman.” いずれにしても古くから同様の言い伝えが広くヨーロッパに流布していたものと思われます。
これは千葉大学附属病院も同様である。

「千葉大学医学部公式ホームページ」より

8 「光市母子殺害事件」の不思議な「聖痕の徴」

人を殺した検死に於いて「両手」ではなく「右手の逆手」で殺すという表現の意図がわからない。もちろんご存知のように「逆手」の方が絞殺には向いていない。実際に殺せるだろうか?人を殺す時にわざわざ「右手の逆手」で殺す犯人がいるだろうか?

※殺していないという符号一致偶像(聖痕の徴の受肉)なのだ。

他にも「天国からのラブレター」において妻である弥生さんは明らかに夫と会話のない異常状態だった。あの本は決して「美談」ではなく「異常な夫婦関係」を示している。其のために「夫との交換日記」という手段が取られていたのだ。それが「天国からのラブレター」である。それをわざわざ出版して「天国からのラブレター」という「美談」にしたというのは夫婦関係に於ける「カトリックエリートの評価」を貶め否定し、「プロテスタントデマゴーグの評価」としての「美談の捏造」をアーリア(高貴さ)としたINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の賛美であることを示しているのではないだろうか?それはそのような「劣等感覚を誇る傲慢感覚」の扇動である。同じ家に住む「会話のない夫婦」が「交換日記」で「ラブレター」の「美談」になるというのは違和感を覚える。そこが新潮社の出版した「天国からのラブレター」を読んだ「最大の疑問点」でした。「会話の無くなった夫婦関係」に異常性を感じない事自体にこの事件のプロテスタントデマゴーグのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を感じるのだ。

ただ他にも幾らか読んだ本には被告の方のINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を「許すべき」とか「死刑にすべき」とか意見が書いてあった。しかし何故か事件の具体的内容が一切曖昧であり誤魔化されているのだ。これも聖痕の徴であると感じた。ただ幾らか調べてみた私の印象としてこの犯人にプロテスタントデマゴーグのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)は感じないのだ。

もしこの犯行を殺ったとしても「偶発的な事故」かもしれない。この事件におけるパワーハラスメントの異常性が何を物語っているのか?「カトリックエリートの判決」を貶め否定して「プロテスタントデマゴーグの判決」が為されたことの意味はなんだろうか?個人崇拝とデマゴーグでありそれは「カリスマ本村洋」の誕生でありそれは堕落したものの賛美であるだろう。

日本の特権階級の子弟が起こした凶悪犯罪をパワーハラスメントで捻じ曲げた事件ではないかと私は感じた。

第一発見者はとても優秀なエリートの家系の人物である。 弥生さんの配偶者であり夕夏ちゃんのお父さんである。
住んでいる人と名前が一致しない。 しかし目撃情報がある。 此処が不可解だった。

ただ第一発見者はとても優秀な人物であり「国立専門学校から国立広島大学へ編入し在学中に結婚し子供がいる身分でありそして彼の父と同じ国策企業に何の苦労もなく入社できた超エリート」であった。

捜査の鉄則「第一発見者は第一容疑者」

「第一発見者は第一容疑者」とは「捜査の鉄則」だとシャーロック・ホームズは僕に言った!その報道がないことに違和感を覚えた!一度は疑われる人物がいる。しかし一度も疑われない第一容疑者の存在に日本の終焉を感じた。

彼の経歴には「国策の悪臭(特権階級)」がするのだ。それは日本の超特権階級(明治維新は薩長のクーデター)を示している。本村洋はカトリックエリートではない。彼は国策(カルトエリート)への強烈なコネクションがあるのだ。これは飽くまで一般論だが「第一発見者は第一容疑者」である。一般論として「第一発見者は第一容疑者」である。「捜査の鉄則」は守られたのか?それとも日本特権階級(既得権益)のパワーハラスメントによる裁判判決の捻じ曲げであるのか?「公正な裁判」ではなく「私刑」(リンチ)だったのか?

この事件はクリント・イーストウッドの映画「トゥルー・クライム」である。

1999年4月14日 True Crime (1999)

第二章 日本国民の人気者とは?

1 国民の人気とは?

(※エニグマ=人間関係の産物)
人気を勝ち得たビートたけしはテレビ番組司会者として高視聴率を稼ぐことでその人気を証明し国民の人気者とされてきた。ただ国民の人気を勝ち得たものとして思い出すのはユダヤ(イスラエル)のダビデ王である。ダビデはゴリアテを殺したことでユダヤ国家の人気を勝ち得てユダヤの王となった。そしてゴリアテとは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》なINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)の存在の代名詞である。それはカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を嘲笑った存在だからだ。「カトリックエリートの評価」を貶め否定する存在はゴリアテなのだ。ダビデはカトリックエリートの存在であるのだ。

しかし北野武(ビートたけし)は神を笑ったINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)のゴリアテの「お笑い芸人」である。「カトリックエリートの評価」を貶め否定して「プロテスタントデマゴーグの評価」を扇動してそれを正当化する。それは個人崇拝とデマゴーグの存在となりINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の存在の賛美となるのだ。それがカトリックエリートの「カトリックエリートの芸」とプロテスタントの「プロテスタントデマゴーグの芸」の違いである。

「カトリックエリートの芸」はロゴス感覚(カトリックメッセージ)を信仰し文化芸術成立の奇跡の存在としてあり得る。しかし「プロテスタントデマゴーグの芸」はロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定して「人の傲慢感覚」を最上位とする。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の人間存在の賛美でありサタン崇拝であるのだ。それが「プロテスタントデマゴーグの芸」であり「お笑い芸人」である。そして「お笑い芸人」とはプロテスタントのトリックスターであるのだ。ただカトリックエリートを穢しカトリックエリートに唾を吐く存在がプロテスタントのトリックスターである。

だから「プロテスタントデマゴーグの芸」が《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の存在である理由は「カトリックエリートに唾を吐く」下品な存在だからだ。果たして真に国民の人気を勝ち得たカトリックエリートの「カトリックエリートの芸」である「ダビデ」であるのか?それともプロテスタントの「プロテスタントデマゴーグの芸」である「ゴリアテ」の「北野武」(ビートたけし)であるのか?

国民の人気はダビデ(カトリックエリートの芸)にあるのか?国民の人気はゴリアテ(プロテスタントデマゴーグの芸)にあるのか?

北野武(ビートたけし)のやっていることには人気取りの《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》さが絶えず付き纏う。その《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》とはなんだろうか?ペルソナはそれをINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)と呼び、INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)から生まれる子供は「悪魔の子」のINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉と言われる。それは其の子供が神を笑うINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)であるからだ。

「お笑い芸人」はその品性を下劣なものとし露悪することでそれを特権的なものとしてプロテスタントデマゴーグの間に流布する。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)に人間関係の容認を形成し流布することでINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉が賛美されINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)となる。これは「お笑い芸人」に対する一つの見方である。

そしてそれを最強で最悪で最も陳腐なトリックスターというのだ。

2 「お笑い芸人」とナチズム

(※エニグマ=人間関係の産物)
人間関係で容認されたINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)は人間のアーリア(高貴さ)とされる。それは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》なINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)をアーリア(高貴さ)としてナチズムとしたものと同様だろう。

そして北野武(ビートたけし)の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の人間が賛美されたのだ。それはアドルフ・ヒットラーが国民の人気を勝ち得たのと同様だろう。それは彼のINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)が人間関係で容認されたことを意味している。

では何故「お笑い芸人」やテレビタレントのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)が人間関係で容認され、そのアーリアであるINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)が露骨に形成される人間関係システムが出来上がったのだろうか?

逆に言えば人間関係と普遍社会信仰(カトリックエリート)との違いは何だろうかという疑問が湧く。それはカトリックエリートへのプロテスタントデマゴーグによっているがプロテスタントデマゴーグは何故サタンとルシフェルの反逆を崇拝するのか?

ナチス
Nazis
ドイツの政党。「国家社会主義ドイツ労働者党」 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiter Partei (NSDAP)の略称。単数形のナチ Naziも用いられる。 1919年 K.ハラーによってミュンヘンで結成された「ドイツ労働党」を,⇨ヒトラーが民族主義と社会主義を巧みに接合させ,20年に「国家社会主義ドイツ労働者党」と改名した。ヒトラーは 21年党首となったが,23年に⇨ミュンヘン一揆を企てて投獄された。党は解散したがヒトラーの出獄とともに大衆政党として再出発。 25年の党員数はわずか2万 7000人にすぎなかったが,その後群小右翼団体を吸収して膨張し,29年には 17万 6000人,31年に 80万 6000人,33年に 390万人とふくれあがった。ヒトラーはこのような力を背景に 30年9月の総選挙で 18.3%を獲得して第2党となり,32年7月の総選挙では 37.4%を得て第1党に躍進した。さらに軍部や財界と取引を行なって,33年1月ついに政権を獲得し,やがて破滅的な第2次世界大戦への道をとるにいたった。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 

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(※エニグマ=人間関係の産物)
ナチスはアーリアINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を人間に形成する人間関係としての共犯関係としてあるナチスは社会主義と言うがそれはアーリア(高貴さ)としてのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を形成する人間関係を意味している。

しかし本来の普遍社会信仰(カトリックエリート)はアーリア(高貴さ)としてのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)と言うよりそれを敏感に感じ取り(察知する)そしてそれを嫌悪し成り立つのが人間の普遍社会信仰(カトリックエリート)である筈である。それはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を嫌悪するカトリックエリートとの契約のユダヤ国家と同じである。それはダビデに拠って作られた国家である。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を察知し嫌悪するダビデはゴリアテを殺しそしてユダヤの王となった。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を嫌うカトリックエリートとの契約である。それが普遍社会信仰(カトリックエリート)の根幹である。

それ以外はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)をアーリア(高貴さ)とする神でありバビロニアのマルドゥック神と同様のINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)の神なのだ。

3 AKB48のネ申テレビはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の「神(ネ申)」

(※エニグマ=人間関係の産物)INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の神はAKB48のネ申テレビと同じでありINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を讃える神である。ネ申はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)の神である。

※カトリックエリートを貶め否定することでプロテスタントデマゴーグの神が立てられる。それは人を扇動することで正当化される。個人崇拝の象徴はアドルフ・ヒットラーでありビートたけしのデマゴーグとしてあるのだ。それはカトリックエリートの言葉を貶め否定しプロテスタントデマゴーグの言葉を正当化して扇動する。それが宣伝省ヨーゼフ・ゲッペルスの手法である。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の存在を賛美するために個人崇拝とデマゴーグの扇動を行いカリスマとなるのだ。

4 ナチスの詐術

(※エニグマ=人間関係の産物)
要は真の人間の普遍社会信仰(カトリックエリート)とはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)への嫌悪で成り立っている。しかしナチスの社会主義は人間に容認されたINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)をアーリアINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)とすることを社会とする。

しかしそれはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を人間に容認させた人間関係でありINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を容認した共犯関係でしか無い。

ここでナチスの詐術が判明した。

それはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を容認する人間関係を「社会主義」とする詐術である。その詐術が最高にカトリックエリートに背いたINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)なのだ!ルシフェルの悪魔集団なのだ!

ナチスが人間の社会主義というのは人間のINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)共犯関係に過ぎない。

普遍社会信仰(カトリックエリート)と人間関係(社会主義の面子(エニグマヤンキー))の違いなのである。普遍社会信仰(カトリックエリート)はカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を信仰し人間関係はカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定しプロテスタントデマゴーグの言葉を上位として個人崇拝(面子(エニグマヤンキー))のデマゴーグで扇動を行う。そしてINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の存在を賛美する。それがナチズムの社会主義である。

共産主義は本来普遍社会信仰(カトリックエリート)であって社会主義ではない。普遍社会信仰(カトリックエリート)はロゴス感覚(カトリックメッセージ)なのだ。

しかしスターリンなどの存在は社会主義である。ソビエトは普遍社会信仰(カトリックエリート)ではなく社会主義(カルト)であったのだ。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の賛美であるのだ。スターリンの大粛清もヒットラーのユダヤ人の虐殺もロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定するための大虐殺だったのだ。それがカトリックエリートへの反逆なのだ。

INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を嫌悪するのが普遍社会信仰(カトリックエリート)であり、INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を形成する共犯関係が人間関係の社会主義である。

日本の人間関係は普遍社会信仰(カトリックエリート)ではないナチスだ。ナチスは普遍社会信仰(カトリックエリート)ではなく、そしてロゴス感覚(カトリックメッセージ)のない文化に普遍社会信仰(カトリックエリート)はない。日本の文化の多くにはロゴス感覚(カトリックメッセージ)はなく、普遍社会信仰(カトリックエリート)はないのだ。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)な人間関係でしかなく集団自殺したくなるINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)な人間関係である。

果たしてビートたけしはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を嫌悪しているだろうか?彼のINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉もアーリア(高貴さ)とされ崇高なものとされ人々に容認された。それが彼の人気であるから彼がそれを嫌悪するわけがない。それを盾にすればINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を容認する人間関係は崩壊しない。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を嫌悪することである純愛は存在せず、INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)は北野武(ビートたけし)の存在を盾にして人間関係を維持するのだ。しかしそれは普遍社会信仰(カトリックエリート)ではない。

もしペルソナがINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を討つ時にはカトリックエリートの普遍社会信仰(カトリックエリート)に問うしか無いのだ!

それは人間関係を崩壊させる行為を意味するからだ。

しかしカトリックエリートの王国の到来はプロテスタントデマゴーグの王国を滅ぼす必要がある。

何故ならプロテスタントデマゴーグの王国はカトリックエリートの王国を貶め否定することで堕落した存在を賛美し個人崇拝とデマゴーグの王国をディストピアとして形成するからだ。しかしプロテスタントデマゴーグの王国を滅ぼすことは人間関係を崩壊させるがINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を認識し嫌悪することである普遍社会信仰(カトリック)の世界となることを意味する。それがカトリックエリートの王国である。普遍社会信仰(カトリックエリート)の中で生きるのは純愛である。

そして人間関係はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を容認する餓鬼の関係である。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)は餓鬼であるのだ!どうしてこのような《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》(面子(エニグマヤンキー))のアーリア(高貴さ)への容認の共犯関係が露骨に形成されるのだろうか?

本来なら普遍社会信仰(カトリックエリート)がINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を撃つはずである。カトリックエリートはバベルの塔を撃った。バベルの塔はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)の象徴である。

《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》が品性のアーリア(高貴さ)へ変換する理由は、それがカトリックエリートとの関係としてある唯一のペルソナではなく、INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を形成する人間関係における面子(ペルソナ)としてあるからだ。それは人間関係の変化に依って品性の下劣さが品性のアーリア(高貴さ)とされ、又逆としてロゴス感覚(カトリックメッセージ)は貶められ否定される。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)に人間の面子(ペルソナ)が形成されるのがユング心理学における面子(ペルソナ)である。

しかしカトリックエリートとの関係としての唯一のペルソナはその品性をカトリックエリートに問われることで美へと導かれる。それはフロイト精神分析のペルソナでありキリスト教神学のペルソナである。美とはカトリックエリートとの関係においてありえるのだ。ロゴス感覚のペルソナ(カトリックエリート)は美と崇高な存在となる。アーリア(高貴さ)への崇高は人間関係の面子(エニグマヤンキー)としてあり、美への崇高さは唯一のペルソナ(ロゴス感覚(カトリックメッセージ))へのものとしてある。アーリア(高貴さ)はビースト(面子(エニグマヤンキー))としての人間関係である。美は神とペルソナ(聖人)の世界なのだ。

純愛とはなんだ?品性(ロゴス感覚(カトリックメッセージ))への愛である。

ビーナス〖Venus〗
〓ローマ神話の菜園の女神ウェヌスの英語名。のち、ギリシャ神話の美と愛の神アフロディテと同一視された。
〓金星(きんせい)のこと。

『デジタル大辞泉』 小学館

Lu・ci・fer [lúːsəfər]〓
―n.
1 ルシフェル,ルシファー:天から落ちた傲慢(ごうまん)な大天使;Satan と同一視される.
2 明けの明星.
3⦅l―⦆ =friction match.
[1000年以前. 中期英語,古期英語<ラテン語「明けの明星」]

『ランダムハウス英和大辞典』(第2版) 小学館

あけのみょうじょう【明けの明星】
西方最大離角前後にある⇨金星の別称。1会合周期(583.9日)ごとに数週間にわたって,日の出前の東の空に輝いて見える。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ビーナスはルシフェルであり金星である。ビーナスは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》でありルシフェルである。自らが神となっては、その《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》をアーリア(高貴さ)とするのと同様であるからだ。

唯一の神はギリシャの神々の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を問う。それがカトリックエリートによるプロテスタントデマゴーグの《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の愛(救済)である。カトリックエリートの愛によりプロテスタントデマゴーグは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》なビーストからヒューマニズムの愛へ導かれ救済される。それを救済のアートと呼ぶ。唯一の神が《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》へ問いかけることがカトリックエリートの愛でありカトリックエリートとの関係であるのだ。ギリシャの神々の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》はカトリックエリートの愛の下で問われることになる。ギリシャの神々はカトリックエリートの愛の下でヒューマニズムの愛となるのだ。それが《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を愛するビーストの愛からヒューマニズムの愛への導きであり、それは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》な存在からのカトリックエリートによる救済(アート)であるのだ。

カトリックエリートとギリシャの神々の関係はハインリヒ・ハイネの「流刑の神々」に詳しく記されている。

ビースト(下衆)の愛は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の愛でありプロテスタントデマゴーグを救済する愛(アート)ではない。

神(ティターン)Ti・tans, the /ˈtaɪtnz/
〓〓 〓〓
in Greek MYTHOLOGY, the first gods who ruled the universe, before Zeus became the most powerful god. They were thought of as GIANTs (=like humans, but extremely large and tall). → TITAN

『Longman Dictionary of Contemporary English, Fifth Edition』 Pearson Education

アーリア‐じん【アーリア人】
(Aryan)(もと「高貴な」を意味する梵語aryaから)インド‐ヨーロッパ語族インド‐イラン語派の言語を話す人々の総称。特定の人種や民族を指すものではない。

『広辞苑 第六版』

アーリア‐じん【アーリア人】
《(梵)āryaは、高貴な、の意》インド‐ヨーロッパ語族の人々の総称。特に、インドやイランに定住した一支派をさす。アリアン。

『デジタル大辞泉』 小学館

アーリアじん【アーリア人】
Aryan
⇨インド=ヨーロッパ語系諸族と同義に用いられることもあるが,正確には,インド=ヨーロッパ語系諸族の一派でインドとイランに定住した民族。アーリアとはサンスクリット語の「高貴」の意からきている。現在では,アーリアは⇨インド=アーリア語派のように言語とその言語集団についてのみ使用される。アーリア人の祖先は中央アジアで遊牧生活を営んでいたが,前 2000年頃からその一部が南下してアフガニスタンに入り,カブール渓谷を通ってインダス川上流地方に侵入,インダス文明をつくった先住民に代り,またこの文明を部分的に取入れて定住農耕生活に入った。その一部は前 1000年頃東のガンジス川流域に侵入,先住民を征服してこれと混血し,のちのインド文明発展の主役となった。中央アジアからイラン高原に侵入した一部はのちのペルシア文明を発展させた。形質的には⇨コーカソイドに属する。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

アーリアご【アーリア語】
Aryan languages
広くは⇨インド=ヨーロッパ語族,狭くはそのなかの⇨インド=イラン語派をさす。アーリア āryá-はサンスクリット語で「高貴な」の意味。現在はこの用語は用いられない。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.


ヤハウェの神への絶対的服従を指す
イサクの犠牲
カトリックエリート

ヤハウェ
Yahweh
預言者モーセに啓示されたとされるイスラエルの神の名。ヤーベ,エホバともいう。ヘブライ語の4子音で表記されるところから4文字(通常ヘブライ語は3子音)といわれる。「ありてある者」「ともにある者」「あらしめる者」などの意といわれるが定説はない。またモーセが避難した妻の実家ケニ人の神との説もあるが疑わしい。イスラエル固有の神で,すでにモーセ以前に知られていたらしい。ユダヤ人は過度の尊敬からヤハウェを口にせず,代りにアドナイ(私の主)と呼び,七十人訳(セプトゥアギンタ)もこれをとってキュリオス(主)と訳している。 70年のエルサレム陥落後,大祭司に相伝された4文字の正確な発音が彼らとともに失われたことも,4文字をアドナイとのみ読む原因となった。キリスト教ではしばしば「ヤハウェ」の発音を使用している。(→テトラグラマトン)

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ヤハウェの神への絶対服従を指す
イサクの犠牲

Yah・weh [jáːwe,―wei|―wei]
―n. ヤハウェ:旧約聖書中にある神の名;神名を表す4文字 YHWH の音訳;Jehovah と書くのは宗教改革以来の誤用. (また Yáh・we,Yah・veh,Yah・ve[jáːve|―vei])

『ランダムハウス英和大辞典』(第2版) 小学館
聖痕の徴の受肉
カトリックエリート

神と三位一体
偶像崇拝(呪術崇拝)ではなく「聖痕の徴の受肉」した偶像がカトリックエリートの偶像となる。 それは「時の徴」でありカトリックエリートの歴史を刻んだ聖書となる。 「聖痕の徴の受肉」した偶像は「符号一致」として見出されそれを「符号一致偶像」という。 「符号一致偶像」はそれ自体「聖痕の徴の受肉」した「符号偶像」と言われる。

第三章 カトリックエリートの愛を穢し、プロテスタントデマゴーグを愛し、ビースト(面子(エニグマヤンキー))の「愛の讃歌」

1 ビートたけしのカルトエリート芸術作品とは何だったのか?

《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》をアーリア(高貴さ)とすることに愛はない。ただ面子(ペルソナ)がビーストの人間関係のマウンティングとしてあるだけだ。ビーストの愛は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の愛でありそこには神との対話としてのカトリックエリートの愛はないのだ。ビーストの愛は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を愛する。

しかしカトリックエリートの愛は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の問いとしてのカトリックエリートとの対話である。それは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の愛ではなくヒューマニズムへの愛である。しかしビーストではないヒューマンとしての人間は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を愛するように見える。

要は「《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》」は人間に人気があるものなのだろうかという疑問が起こる。人間とはビーストなのだろうか?

INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を賛美することはサタンの誘惑である。このような人気はゲッペルスの宣伝によって扇動されたものであり、《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の人気は「捏造」であるのだろう。だとしたら北野武(ビートたけし)の人気も捏造である。

ロゴス感覚(カトリックメッセージ)により品性はカトリックエリートに依って問われる。ロゴス感覚の人(聖痕の徴の受肉)の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》はカトリックエリートもとでいつも問われているのだ。

ではここで彼の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》とロゴス感覚(カトリックメッセージ)に纏わる幾らかの作品を提示したい。

2 私が選ぶビートたけし(北野武)の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の代表的カルトエリート番組

「オレたちひょうきん族(1981年5月16日 - 1989年10月14日)」

「たけし・逸見の平成教育委員会(1991年10月19日 - 1994年9月)平成教育委員会 第2シリーズ(1994年10月 - 1997年9月27日)※バイク事故で休養した為、出演は1995年3月から」

「世界まる見え!テレビ特捜部(日本テレビ系列)」

3 私が選ぶビートたけし(北野武)のロゴス感覚(カトリックメッセージ)の信仰の代表的カトリックエリート芸術番組(カトリックメッセージ)

TBS(東京放送)ドラマ

  • 昭和四十六年 大久保清の犯罪(1983年、TBS) - 主演・大久保清 役

  • イエスの方舟(1985年、TBS) - 主演・京極武吉 役

  • 忠臣蔵(1990年、TBS) - 主演・大石内蔵助 役

  • 説得 エホバの証人と輸血拒否事件(1993年、TBS) - 主演

  • あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機 第2部ドラマ(2008年、TBS) - 主演・東条英機 役

4 「番外編」カトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)を装ったカルト芸術作品

戦場のメリークリスマス(1983年、大島渚監督) - ハラ 役
この映画はロゴス感覚(カトリックメッセージ)の信仰とは言えない。大島渚にも北野武(ビートたけし)にも坂本龍一にも「聖痕の徴の受肉」は無いからである。彼らの自称作品には芸術性はなく芸術とはロゴス感覚(カトリックメッセージ)であるからだ。

キリスト教に関するテーマを題材にしている故にアンチキリスト作品となっている。大島渚の映画に感じる釈然としないシナリオ感覚は、それが「奇跡」の「戦場のメリークリスマス」となっていないところである。

ビートたけしが「メリークリスマス」と発言するシーンは人間関係の産物にしかなっていないのだ。形勢が変わって敗戦国となった日本軍人ハラは明らかに態度を変えて「メリークリスマス」とにこやかに発言する。確かに印象深いシーンであった。私も当時名古屋の小学校のクラスで女の子と話した記憶がある。実は私は最後のビートたけしのそのシーンしか見ていなかったのだ。だからその場面の話をしたのだ。

当時は「ポセイドン・アドベンチャー」と言う映画も小学校のクラスで話題になっていた。これもキリスト教の話である。

しかし大島渚の「戦メリ」はカトリックエリートとの関係における「メリークリスマス」ではないのだ。あれは形勢が変わり明らかに態度を変えた軽薄短小な日本軍人ハラが人間関係の産物としての「メリークリスマス」と発言する下品な作品なのである。それを大島渚のカメラワークで美化したに過ぎない。人間関係の産物である浅ましいメリークリスマスを美化した映画であり、私はどうしても観る気になれないのだ。(実はいつも途中でやめてしまう。)
では「デビッド・ボウイ」と「坂本龍一」の出演の意味はなんだろうか?此処には最高善(ロゴス感覚のカトリック純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉))へのプロテスタントデマゴーグの仕掛けが存在する。それは何か?「愛」に関する認識だろうと思う。この映画で描かれたこの二人の間の「愛」とはなんだろうか?結局はデビッド・ボウイに抱かれた坂本龍一が昏倒してしまうシーンに象徴されている。純愛信仰の「愛」ではなく「美形の男」に抱かれたことにより感じる「男色への欲望」を兆した硬派な日本軍人坂本龍一がその「欲望の精通」に昏倒するだけでありそこには「隣人愛」も「悔い改め」もないのだ。それは「欲望」であり「純愛」ではない。言ってしまえば「純粋無垢な欲望」であり「穢のない欲望」である。しかしそれは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》である。「純粋無垢な愛」「穢のない愛」がキリスト教のイマーゴ(信仰の理想)でありロゴス感覚のカトリック純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉)の在り方なのだ。大島渚の「戦メリ」は「メリークリスマス(カトリックエリート)」へ「プロテスタントデマゴーグ」を仕掛けたカルト映画だったのだ。それは「愛」の賛美ではなく「欲望」の美化である。

コミック雑誌なんかいらない!(1986年、滝田洋二郎監督、内田裕也主演) - 殺人犯 役
この映画はロゴス感覚(カトリックメッセージ)であるか?
コミック雑誌が描写であり文字こそが文化芸術であるという主張ができるが「語彙」と「文」の違いが解っていない。「語彙」は描写でしか無くコミック雑誌であり、「文」はロゴス感覚(カトリックメッセージ)であり文化芸術である。語彙(修飾・形容・描写態)で終わっている文学作品はコミック雑誌と同じであり其の中でロゴス感覚のカトリック純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉)あるコミック雑誌は「トーマの心臓」のように文化芸術作品(写生文)である。

5 ビートたけし(北野武)監督作品

  1. その男、凶暴につき(1989年) - 我妻諒介 役

  2. 3-4X10月(さんたいよんえっくすじゅうがつ)(1990年) - 上原 役 ※兼脚本

  3. あの夏、いちばん静かな海。(1991年) ※兼脚本、編集

  4. ソナチネ(1993年) - 村川 役 ※兼脚本、編集

  5. みんな〜やってるか!(1995年) - 透明人間推進協会博士 役 ※兼脚本

  6. キッズ・リターン(1996年) ※兼脚本、編集

  7. HANA-BI(1998年) - 西佳敬 役 ※兼脚本、編集、挿入画

  8. 菊次郎の夏(1999年) - 菊次郎 役 ※兼脚本、編集

  9. BROTHER(2001年) - 山本 役 ※兼脚本、編集

  10. Dolls(2002年) ※兼脚本、編集

  11. 座頭市(2003年) - 座頭市 役 ※兼脚本、編集T

  12. TAKESHIS’(2005年) - ビートたけし/北野武 役 ※兼脚本、編集

  13. 監督・ばんざい!(2007年) - キタノ・タケシ監督 役 ※兼脚本、編集

  14. アキレスと亀(2008年) - 倉持真知寿 役 ※兼脚本、編集

  15. アウトレイジ(2010年) - 大友 役 ※兼脚本、編集、製作総指揮

  16. アウトレイジ ビヨンド(2012年) - 大友 役 ※兼脚本、編集、製作総指揮

  17. 龍三と七人の子分たち(2015年) - 村上 役[118] ※兼脚本、編集

  18. アウトレイジ 最終章(2017年) - 大友 役[119] ※兼脚本、編集

6 ビートたけし(北野武)の人気取り

(※エニグマ=人間関係の産物)INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を容認し正統とされた人間関係と普遍社会信仰(カトリックエリート)の対立ビートたけし(北野武)の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》と信仰の問題点は「其の人気取り」に有る。ビートたけし(北野武)は頭が良いのは解る。彼は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の「プロテスタントデマゴーグの芸」をしていて「カトリックエリートの芸」はしていない。しかし彼の「プロテスタントデマゴーグの芸」には他と違う取り組みがある。

それは「カトリックエリートの芸」ではないが「プロテスタントデマゴーグの芸」を確立しているところだ。しかしそれは「カトリックエリートの芸」を貶めて否定することで個人崇拝とデマゴーグを扇動しているに過ぎない。それによりINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の人間への賛美と賛歌を歌うのだ。それはサタン崇拝に拠るものなのだ。サタンの囁きである。だから彼の「プロテスタントデマゴーグの芸」は「カトリックエリートの芸」ではない。「サタンの芸」なのだ。ビートたけし(北野武)はサタンの芸なのだ。何故ならロゴス感覚(カトリックメッセージ)がないものはサタンの芸となるのだ。

彼はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の人間関係の面子(エニグマヤンキー)を盾に取るのだ。要はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を攻撃する普遍社会信仰(カトリックエリート)とINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を容認する人間関係を利用しているのだ。社会主義の世界と普遍社会信仰(カトリックエリート)の間で社会主義が普遍社会信仰(カトリックエリート)を否定してしまう悲しさ(躓きの石)を利用してそれを「プロテスタントデマゴーグの芸」にしている。

しかしそれは「カトリックエリートの芸」を貶め否定する「サタンの芸」なのだ。彼は其の見極めをしているが彼にはロゴス感覚(カトリックメッセージ)はない。

結局は社会主義の教祖であり統一教会の文鮮明と同じなのだ。彼の悲哀の演技はサタンの芸としてあるのだ。ビートたけし(北野武)はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉への賛美と賛歌であるのだ。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を撃てば崩壊する人間関係は普遍社会信仰(カトリックエリート)ではない。しかし維持しなければならない人間関係が或るとすればそれは普遍社会信仰(カトリックエリート)ではないが正当とされる。ビートたけし(北野武)はロゴス感覚(カトリックメッセージ)の躓きを巧みにつくサタン崇拝の人物なのだ。

しかし「隣人愛(普遍社会信仰)」と「悔い改め(カトリックメッセージ)」はカトリックエリートの教えなのだ。

「隣人愛(普遍社会信仰)」と「悔い改め(カトリックメッセージ)」は最大の掟
「悔い改め」の賛美と喜び

(※エニグマ=人間関係の産物)
INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を認識し嫌悪する信仰が普遍社会信仰(カトリックエリート)であるが、それに対して正当なINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を容認する人間関係が成立する。その時に普遍社会信仰(カトリックエリート)と人間関係(社会主義の面子(エニグマヤンキー))が対立するのだ。それがナチス・ドイツのユダヤ大虐殺である。

先程述べたが社会主義を名乗ったナチス・ドイツは社会主義と称しただけでただのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を容認した人間関係である。しかし社会主義とは其のようなものである。

これは日本の総理大臣だった安倍晋三氏が行ったアベノミクスがINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を容認した人間関係であることと同様である。《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》と普遍社会信仰(カトリックエリート)の両立性がロゴス感覚のペルソナ(カトリックエリート)であり、それにより《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》はカトリックエリートに問われる存在である。ロゴス感覚のペルソナ(カトリックエリート)はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を知り嫌悪していくことで純愛となるのだ。

唯の人気取りのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)人気を得るという行い自体が《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》な行いであるという絶対的矛盾が彼にはある。そのような《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》ではない人気取りは可能だろうか?カトリックエリートの評価を貶め否定しプロテスタントデマゴーグの評価を上位とするプロテスタントデマゴーグの芸が人気の源である。だからそれは不可能なのだ。それは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》をアーリア(高貴さ)とするナチズムであるからだ。ナチズムの人気の源はカトリックエリートの評価を貶めることで《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》をアーリア(高貴さ)とすることを上位とすることでしかない。それは人気ではなく人間の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の扇動でしかないのだ。

しかしビートたけしは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》をカトリックエリートに問われる信仰者の品性をアーリア(高貴さ)とする。しかしそれは違う。それは社会的アーリア(高貴さ)ではなくロゴス感覚(カトリックメッセージ)の受肉としてあるからだ。

6 INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)を倒す英雄ダビデ

(※エニグマ=人間関係の産物)
ロゴス感覚のペルソナ(カトリックエリート)は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》をカトリックメッセージに問われて生きる信仰者である。そのカトリックエリートをアーリア(高貴さ)として認識はしないのだ。「カトリックエリート」と「アーリア(高貴さ)」は全く違うのだ。

ビートたけし(北野武)の詐術はそこに有ると思われる。結局彼は「カトリックエリートとの関係」をしない。しかしビートたけし(北野武)はカトリックメッセージを解すカトリックエリートの子であるかのように振る舞う。ビートたけし(北野武)が振る舞う「似非カトリックエリート(カルトエリート)」の子は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を社会的アーリア(高貴さ)とするナチズムとなる。
そしてそれはビートたけし(北野武)にロゴス感覚(カトリックメッセージ)への信仰がない故に「カトリックエリート」ではなく「カトリックメッセージとの関係」もない!それはビートたけし(北野武)がカトリックエリートと無関係なプロテスタントデマゴーグの子でありサタンの子であることの証なのだ。

カトリックエリートとカトリックメッセージについての関係は一切ない存在が近くにカトリックエリートが存在するだけで自らにカトリックメッセージの関係があるとする印象操作(プロテスタントデマゴーグ)を行うことは稀にある。
しかしそれは本物のカトリックエリートが存在していた場合である。

7 ナチズムの正体

そしてナチズムとは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を社会的アーリア(高貴さ)としてINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を賛美し《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を扇動する運動であることを示している。《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を社会的アーリア(高貴さ)とすることの品性はサタン崇拝(堕天使ルシフェル)である。《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を社会的アーリア(高貴さ)とする品性は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》でありそれを扇動する運動がナチズムでありサタン運動である。

8 INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)の人間関係を最高とする悪魔主義者集団であるのだ。

(※エニグマ=人間関係の産物)
※これは一神教の「至高の抽象化の高み」(フロイト)ではなく、INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の存在の面子(エニグマヤンキー)である多神教を示している。多神教は呪術崇拝・偶像崇拝であり原始的段階(フロイト)とされる。一神教はカトリックエリートへのロゴス感覚(カトリックメッセージ)であり呪術崇拝・偶像崇拝を克服した至高の抽象化の高みと言えるのだ。

果たしてビートたけし(北野武)は本物(イエスの方舟)だろうか?ビートたけし(北野武)の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》で人気を博した番組を幾らか羅列した。しかし彼の評価は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》だけではない「本物」を思わせることにある。本物とはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)への嫌悪としてある。それはダビデである。しかし彼は人間関係を社会主義とする詐術(INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)を容認しているだけである。それは最高にINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)だ。彼のINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)への嫌悪も偽物でありINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)である。

彼は反普遍社会信仰的超INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)なのである。

※プロテスタントデマゴーグの創造した問題が謎謎である。

9 受験勉強は謎謎(エニグマアーリアヤンキー)である。

(※エニグマ=人間関係の産物)
受験勉強は謎謎(エニグマアーリアヤンキー)である。一方で学問はロゴス感覚(カトリックメッセージ)としてある。それはカトリックエリートの創造した問題である。それは真理の追求であるのだ。私の知り合いの多くは受験勉強の偏差値を誇って威張り散らしていた。それはプロテスタントデマゴーグの創造した問題における評価でしかない。

しかしカトリックエリートの創造した問題における評価は真理の追求に向けられる。それはロゴス感覚(カトリックメッセージ)としてある故にイエス・キリストの言う「隣人愛」と「悔い改め」であるのだ。そして科学とはそのような姿勢からあるのだ。カトリックエリートの評価はロゴス感覚(カトリックメッセージ)へ与えられる。救済のときにカトリックエリートの王国へ入れるのはロゴス感覚(カトリックメッセージ)だけである。

受験勉強に関する番組であり、それを好感度番組とする視聴者も多くいたのは知っている。しかし受験勉強というのは点数稼ぎの訓練でしか無い。本当の意味での学問の学習とは程遠いのだ。例えばミムラという女優がいつも奇跡的に正解していた。あんな問題は謎謎(エニグマアーリアヤンキー)でしか無い。答えを知っていなければ解るわけ無いのだ。後で知ったが女優であるミムラは読書家らしい。其の読書内容はたかが知れているが、謎謎(エニグマアーリアヤンキー)の回答を知る情報源がそこにあったと予想される。受験生も予備校で謎謎(エニグマアーリアヤンキー)の答えを伝授されて私立小学や私立中学に受験するのだ。要は受験生の参考書を漁れば答えは載っている。はっきり言って汚い女である。そして汚い番組であった。

これも「プロテスタントデマゴーグの芸」である。「カトリックエリートの芸」ではないのだ。受験勉強は「カトリックエリートの芸」ではなく「プロテスタントデマゴーグの芸」であるということなのだ。それは「カトリックエリートの子」を貶め否定して「人(サタン)の子」を崇拝しデマゴーグとすることだった。堕落した存在の賛美の扇動であったのだ。バレバレの話なのだ。

10 ゴッホとヒットラーの違いは此処にあったのだ。

ゴッホはロゴス感覚(カトリックメッセージ)の「カトリックエリートの聖書」を題材にしている。しかしヒットラーはロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定して「聖書」を題材としている。これは聖書のロゴス感覚者(聖痕の徴の受肉)であったゴッホと聖書を理解していないヒットラーとの絵描きとしての才能の違いを如実に示すことになるのだ。

ゴッホの絵画はロゴス感覚(カトリックメッセージ)故に現在大変な評価をされている。それはある意味「カトリックエリートの評価」である。

一方でヒットラーの絵画はロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定した風景画のようなイエスとマリアである。これはロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定している故に「プロテスタントデマゴーグの評価」では崇拝されるが「カトリックエリートの評価」では駄目な絵の見本である。これは「写生文(カトリックエリート芸術(カトリックメッセージ))」と「描写態(カルト芸術)」の違いであるだろう。

ゴッホはロゴス感覚者(聖痕の徴の受肉)でありヒットラーはそれを貶め否定するINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉でありその《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の崇拝を賛美する。

ここで端的に言えることはゴッホの絵画にある唯一性はロゴス感覚(カトリックメッセージ)としてのペルソナ(カトリックエリートの芸)である。それはカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)と言える。一方でヒットラーの絵にある凡庸さはこの母子にロゴス感覚(カトリックメッセージ)の聖痕が描かれていない。これは他者をコントロールするストーカーの印象操作であるところだ。それはカルトエリート芸術と言える。

ゴッホの絵画には「聖痕の徴の受肉」があり、ヒットラーの絵画には「聖痕の徴の受肉」がなくそれを貶め否定するINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉がある。

ヒットラーの絵画は結局その《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の崇拝でしかない。完全にカルトエリートの心理である。符号偶像と符号一致偶像において「聖痕の徴の受肉」がある絵画は真の芸術であり「聖痕の徴の受肉」がない絵画は相手の意識へのストーキング行為による印象操作の「プロテスタントデマゴーグの芸」であるのだ。

市川崑(アドルフ・ヒットラー)と黒澤明(フィンセント・ファン・ゴッホ)

市川崑と黒沢明の比較をしてみると明瞭になると思う。市川崑は映像表現への拘りを強調する。しかし彼の映画作品を観てみると解るが脚本を市川崑は自分で書いていない。横溝正史の金田一耕助シリーズにしても映画作品の脚本は自分で書かず自らはその映像表現の監督であるだけだ。そして私は映像表現から横溝正史の原作を読んでみたがこれが不可解なのだ。
横溝正史はカトリックメッセージを発するカトリック純愛メシア信仰の作家であるからだ。だからそこにはロゴス感覚(カトリックメッセージ)の聖痕が描かれているのだ。しかし市川崑はそれが理解できない映像作家であり、彼の映像表現にはカトリックエリートが皆無なのだ!要は市川崑の映画は横溝正史のカトリックエリートに対するプロテスタントデマゴーグとなっているのだ。カルトエリートの作品なのだ!

庵野秀明や岡田斗司夫など旧ガイナックスのメンバーが市川崑の映像表現を絶賛する理由はそれがカトリックメッセージではなくプロテスタントデマゴーグであるからだ!彼らにはカトリックエリートへの信仰はなくプロテスタントデマゴーグの政治的コンテンツ制作をしているにすぎない。それは芸術家(カトリックエリート)ではなく詐欺師(プロテスタントデマゴーグ)を意味する。それはアドルフ・ヒットラーの絵画(映像表現)と同じなのだ!

その一方で黒澤明は自らが脚本を書いた作品を制作している。黒沢明の映像表現への拘りはカトリックエリート信仰としてあり得るのだ。それはロゴス感覚(カトリックメッセージ)を至上とする映画製作であり、カトリック純愛メシア信仰の作家であると言える。それは先程の市川崑の例から指摘すると横溝正史のカトリックエリートを至上とした映像表現をするのが黒澤明であると言える。だからもし黒澤明が横溝正史の原作作品を制作していたら市川崑の映画と違ってカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)が誕生していたであろう。しかし市川崑の映像表現ではロゴス感覚(カトリックエリート)をプロテスタントデマゴーグによって完全否定してしまう。だからそれがカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)ではありえない!要は市川崑の作品は横溝正史作品のプロテスタントデマゴーグであるが政治的コンテンツ作品でもある。これは横溝正史を完全否定しながらその書籍の営業宣伝映画であるという奇妙な状況であるのだ!この映画は横溝正史のカトリックエリートを否定した宣伝映画であり決して芸術ではなくプロテスタントデマゴーグとしての手法で制作された悪意ある映像作品と言える。少なくとも横溝正史は芸術家(カトリックエリート)であり市川崑は詐欺師(カルトエリート)でありアドルフ・ヒットラーであったと言える。黒澤明は横溝正史と同様の芸術家(カトリックエリート)であり両者はフィンセント・ファン・ゴッホであったと言えるだろう。

上 ゴッホ(聖痕の徴の受肉〈カトリックメッセージを解すカルトエリート〉)
下 ヒットラー(ストーカー『カルトエリート』の印象操作〈プロテスタントデマゴーグ〉)

良きサマリア人 ゴッホの模写(ロゴス感覚(カトリックメッセージ)の聖書の絵画)

才能がある絵描きである。カトリックメッセージ絵画

イエスとマリア ヒットラー作(ロゴス感覚(カトリックメッセージ)はなく聖書の絵画ではない。)

才能がない絵描きである。何故ならばプロテスタントデマゴーグ絵画のイエスは「躓きの石」であるトリックスターとして描かれれいるからだ。それは最悪で最も陳腐な魔物である。アドルフ・ヒットラー本人なのだ。

「躓きの石」であるトリックスター

最悪で最も陳腐な魔物

11 TBSのカトリックメッセージドラマはペルソナを描く!

そしてビートたけしのカルトエリート芸術(プロテスタントデマゴーグ)のトリックスターはここでだけカトリックエリートのトリックスターとして描かれている。しかしカトリック信仰はTBSにありビートたけしには信仰はなくプロテスタントデマゴーグ崇拝でしかないのだ!

(※エニグマ=人間関係の産物)ではビートたけしのロゴス感覚(カトリックメッセージ)の信仰に纏わる番組を言うならTBSのドラマだろう。大久保清の事件は永山則夫を想起させる。又キリスト教の関連作品が多い。TBSドラマはビートたけし(北野武)を決して《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》ではなくロゴス感覚(カトリックメッセージ)と《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の両立としてあるロゴス感覚(カトリックメッセージ)生活者としての人間ビートたけし(北野武)を描く。ロゴス感覚(カトリックメッセージ)と《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》のその両立を描いているのだ。決して「ビートたけし(北野武)」だけでのロゴス感覚(カトリックメッセージ)はありえないことを示している。彼はTBSでは教祖とされない。ビートたけし(北野武)の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》はキリスト教神学のもとでカトリックエリートに問われる。ビートたけし(北野武)が人間関係を社会主義と称したINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)をINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)として認識し嫌悪することがTBSのドラマには普遍社会信仰(カトリックエリート)としてあるのだ。そこがTBSドラマの白眉である。決してビートたけし(北野武)を個人崇拝していない。

反社会主義的超堕落感覚(超捏造感覚)の面子(エニグマヤンキー)を明確に「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)」と認識し嫌悪している。それがTBSの普遍社会信仰(カトリックエリート)のドラマである。カトリックエリートに問われるINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉とは最も崇高なロゴス感覚(カトリックメッセージ)であるキリスト教神学である。

TBSドラマには明確な普遍社会信仰(カトリックエリート)としての「キリスト教神学」があるのだ。普遍社会信仰(カトリックエリート)と《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の2つを両立させて描いているのが普遍社会信仰(カトリックエリート)のTBSドラマなのだ。

しかし他局のテレビ局の番組はビートたけし(北野武)を特権的な《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》として描く。それは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を社会的アーリア(高貴さ)とする人間関係のナチズムであるのだ。

ビートたけし(北野武)は「ロゴス感覚(カトリックメッセージ)で《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の面子(エニグマヤンキー)を認識し嫌悪する存在」であろうか?(TBS)

ビートたけし(北野武)は「特権的な《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の面子(エニグマヤンキー)」であろうか?(フジテレビ等)

要はキリスト教神学であろうか?それともアーリア(高貴さ)の人間関係のナチズムであろうか?しかし彼の商売は人間関係の人気取りである。しかし先程も言ったが彼は頭が良いので《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の露悪の芸だけでは人気が取れないことを知っている。しかし彼は人間関係(共犯関係)を(聖域(サンクチュアリ))とする詐術を嫌悪することは出来ない。

しかし彼はそれを「盾」にとって人気を取ることが彼の「プロテスタントデマゴーグの芸」なのだ。それを結局ビートたけし(北野武)は詐術を露骨に行うサタンの子であった。彼は「サタンの子」であるがいつも「カトリックエリートの子」のように振る舞っている。

12  INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の面子(エニグマヤンキー)なのだ!

(※エニグマ=人間関係の産物)
ただその「ビートたけし(北野武)の最悪(INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)」とは何だろうか?劣等感覚を正当化しその傲慢感覚を社会的面子(エニグマヤンキー)とする。

第四章「ビートたけし(北野武)」の最悪の解析

1 彼の監督した映画にみるのが一番近道だろう。

HANA-BI(1998年) - 西佳敬 役 ※兼脚本、編集、挿入画

この映画はビートたけし(北野武)が事故後に顔が潰れた自分を主演にして描いた刑事の物語である。人生の悲哀を感じさせ主演の刑事はシリアスでかなり格好いい。ただこの悲哀は逆転している。クリント・イーストウッドがロゴス感覚のペルソナ(カトリックエリート)の生き様の悲哀の演技であるなら、ビートたけし(北野武)の悲哀はロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定したINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の悲哀の演技なのだ。そしてその悲哀の演技は格好良く描かれている。
それはクリント・イーストウッドがロゴス感覚(カトリックメッセージ)を賛美しているに対しビートたけし(北野武)はロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定することでINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の存在を賛美し堕落へ扇動するサタンの誘惑となっているのだ。
これは明確に言えばサタン崇拝のヒットラーの悲哀とロゴス感覚のペルソナ(カトリックエリート)であるゴッホの悲哀の違いである。

クリント・イーストウッドのロゴス感覚(カトリックメッセージ)の生き様はダビデとして描かれている。それはロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定したゴリアテを殺したダビデ王である。ビートたけし(北野武)の描く暴力(ヴァイオレンス)はロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定する非情さでありそれが「格好いい悲哀」を感じさせている。クリント・イーストウッドはロゴス感覚(カトリックメッセージ)を持ってする生き様への辛苦が悲哀を感じさせている。

こう観ていくとやはりビートたけし(北野武)の映画はヒットラーの絵画でありクリント・イーストウッドの映画はゴッホの絵画であるのだ。

それは黒澤明にも言えることだ。黒澤明が評価されたのはロゴス感覚(カトリックメッセージ)があったからだ。そして黒澤明も画家を志望していた一人だったのだ。彼はゴッホだったのだ!

ロゴス感覚のカトリック純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉)プロテスタントデマゴーグ(ゴリアテ)を殺したダビデ(カトリックエリート)

ダビデの王冠と竪琴をも持つことの指し示すことはカトリックメッセージ芸術家(カトリックエリート)であることを示している。 それはロゴス感覚(カトリックメッセージ)を示している・ 其の様な存在を芸術家という。 詩篇作者のダビデも同様のことを示している。 ただ言えることは音楽家が竪琴を持っていたとしてもロゴス感覚(カトリックメッセージ)を示してはいない。 又同様に詩人が詩篇作者であったとしてもロゴス感覚(カトリックメッセージ)を示してはいない。 彼らはカトリックメッセージ芸術家(カトリックエリート)ではないのだ。

○恰好が付く
内容は不十分でも、その名に値する形だけはできる。体裁が整う。「まがりなりにも—」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

○格好(かっこう)が付・く
人に見せられる程度になる。体裁が整う。「借り物の洋服を着せて、何とか―・いた」

『大辞泉 第二版』 小学館

恰好がいいというのは内容が不十分という意味でも有る。ビートたけし(北野武)の映画はどれもシリアスで恰好いい映画である。しかし其の内容は不十分と言える。

2 ではHANA-BI(1998年)は何が言いたかったのだ?

※結局はビートたけし(北野武)という存在はロゴス感覚(カトリックメッセージ)のない存在であった。彼はロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定し正当化を形成することに悲哀を感じさせて容認させる。それはビートたけしがカリスマたる由縁である。そしてカリスマの個人崇拝とデマゴーグにより扇動することが彼の人気としてあるのだ。それはカトリックエリートの芸ではないが典型的なプロテスタントデマゴーグの芸である。

アドルフ・ヒットラーの才能であり、ヨーゼフ・ゲッベルスの才能であった。しかし才能とはロゴス感覚(カトリックメッセージ)でありそれを解するロゴス感覚のペルソナ(カトリックエリート)のことである。

才能の在り方が逆転しているのだ。何故ならカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)が才能であり、それを貶め否定する存在に何の才能があるのだろうか?カトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を目の敵にして貶め否定する才能はただの才能への邪なストーカー行為でしかないのである。そして本来の悲哀の演技はカトリックエリートのロゴス感覚のペルソナ(カトリックエリート)が抱く辛苦の歩みにあり得る聖なる演技(ペルソナ)である。ビートたけし(北野武)はそれも逆転している。彼の悲哀の演技は印象操作の偽物なのだ!

Hippocratic Oath (hip′ō‐krat′ik ōth).〓
「私は,医神Apollo,Asclepius,Hygeia,Panaceia,そしてすべての神と女神の名に懸けて,そして,これらの神,女神を証人として,この誓いと約束を果たすことを,私の能力と判断によって誓う.私に医学技術を教えてくれる人を両親と同様にみなす.私の人生,そして必要ならば,私の食料もその先生に分け与える.先生の子供たちは私の兄弟とみなし,彼らに医学技術を教える.医学知識は,書いて,口頭で,あるいは実習で,私の息子たちや私の先生の息子たちに教える.同様に,私たちの職業の規範に従い,他の何者にも従わずに,誓約書に署名し,誓いを宣言したすべての医学生に教える.私は,私の能力と判断に従って,病人の利益のために治療手段を施す.危害を加えたり犯罪を犯したりはしない.私は,誰に対しても,求めに応じて死をもたらす薬を与えたりはしない.また,その使用を勧めたりはしない.同様に,女性に堕胎をさせる薬を与えない.私は純粋な,神聖な生活をし,医療技術を磨く.私は,結石による病気であっても手術はしないが,それに従事する人を妨げたりはしない.私が訪ねる家はどこも,私は病人の利益のためだけに訪れ,意図的な悪行や姦通はしない.特に,男性でも女性でも,自由人でも奴隷でも,性的に親密な関係を結ぶことはない.私は,職業によるものであってもなくても,私が見たり聞いたりした,人々の個人的な生活に関する私的な性質について一切漏らすことはしない.なぜなら,私はそうした情報を暴露することの恥を理解しているからだ.もし,私がこの誓いを実行し破らなければ,私は人生と職業の実践に満足し,人々の間で永遠の栄誉に浴するだろう.もし,私がこの誓いを破り,偽りの誓いをしたら,私のすべては反対になるだろう

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

3 「悲哀」の錯誤

(※エニグマ=人間関係の産物)
ビートたけしにとって社会的面子(エニグマヤンキー)を最上位として生きることが悲哀であり、それはロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定する行いを示している。才能への邪なストーカー行為なのだ。それは才能ではない。それはナチス・ドイツの悲哀であり、ユダヤの悲哀ではないのだ。

ビートたけし(北野武)の映画賞受賞は彼に社会的面子(エニグマヤンキー)の最上位を与えた。しかしそれはナチス・ドイツの悲哀に与えられたものである。カトリックエリートの賞はカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)(ロゴス感覚(カトリックメッセージ))に与えられるのだ。プロテスタントデマゴーグは人生おいて無傷では生きられない。そして品性の下劣さを持つ人間関係のペルソナはロゴス感覚(カトリックメッセージ)がなければ、ビーストとなりプロテスタントデマゴーグはヒューマニズムを絶対に必要とする。

これはプロテスタントデマゴーグの評価はカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶めて形成された個人崇拝とデマゴーグの扇動となりプロテスタントデマゴーグはビースト(下衆)にしかならない。カトリックエリートの評価の信仰はプロテスタントデマゴーグのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を評価することで人は「悔い改め」「隣人愛」というヒューマニズムとなり得る。

要はカトリックエリートに問われる品性がプロテスタントデマゴーグには絶対に必要だというカトリックエリートとプロテスタントデマゴーグの愛の話でありキリスト教神学の純愛となっていたと思われた。そういった純愛の話であったと思われた。

要はユング心理学の面子(ペルソナ)はビースト的な人間関係の反映とされる。それが職業などの反映とされているがその面子(エニグマヤンキー)とプライドがヒューマンではなくビーストの面子(エニグマヤンキー)であるに他ならないことが暴露される。それは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》をアーリア(高貴さ)とする猿のビーストのマウンティングに他ならない。

その面子(ペルソナ)は外面に拘る品性であり、カトリックエリートとの対話としカトリックエリートに問われる品性としての内面のペルソナとは決定的に違う。

ユング心理学の面子(ペルソナ)とキリスト教神学のペルソナの違いであり、ユングとフロイトの違いともなる。フロイトのペルソナとは自らの唯一のペルソナである。それは自己のペルソナの唯一性でありそのようなペルソナは自己のヒューマニズムのロゴス感覚(カトリックメッセージ)としてありえるとされる。

だからHANA-BI(1998年)はビートたけしが事故により顔が潰れて、それにより起こるユング心理学のビーストの人間関係の面子(エニグマヤンキー)の変化に対しビートたけし(北野武)はフロイト精神分析のペルソナの唯一性のヒューマニズムの純愛のロゴス感覚(カトリックメッセージ)へ向かったと思えた。要はキリスト教神学の域に達した北野武(ビートたけし)が世界的傑作映画を制作したとされた。それが映画賞を受賞した。それは大変な才能であることの証明であるとされた。しかしそれは錯誤だったのだ。その錯誤だったことについての解説は後に明らかとする。

4 ペルソナ錯覚事件(「カトリックエリートとの関係に於けるペルソナ」と「カトリックエリートに弓を引くプロテスタントデマゴーグのヤンキー」)

それがビートたけし(北野武)のHANA-BI(1998年)のペルソナ錯覚事件である。大変な才能は虚偽であり世界的詐欺であった。顔面が潰れたビートたけし(北野武)はフロイトのペルソナの唯一性であるヒューマニズムの信仰の映画を制作したと思われた。しかし、其の一方で今まで通りのユング心理学の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》のビーストの面子(エニグマヤンキー)を維持している。

ではビートたけし(北野武)の面子(ペルソナ)とは一体何だろうか?

「私利私欲の《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》への崇拝としてあるユング心理学のビーストの面子(エニグマヤンキー))」

「人を救済する手法(アート)としてのフロイト精神分析の唯一のペルソナのヒューマニズムのロゴス感覚(カトリックメッセージ)」

両者の判別がなされる。アーリア(高貴さ)のナチズムであるか?キリスト教カトリック神学のロゴス感覚(カトリックメッセージ)であるか?ロゴス感覚(カトリックメッセージ)は「隣人愛」と「悔い改め」である。面子(ペルソナ)が違ってくるのだ、「ビーストの面子(エニグマヤンキー)」と「ヒューマニズムのペルソナ」の違いである。ビーストの面子(エニグマヤンキー)はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を認識せず容認する愛を言う。そしてINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を嫌悪しないのだ。ヒューマニズムのペルソナはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を認識しINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を嫌悪してプロテスタントデマゴーグをINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉から救済するのだ。

ビートたけしの映画は商業映画であるが芸術映画ともされている。しかしそこにある面子(ペルソナ)は如何なるものか?言ってしまえば、彼は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》のビーストの面子(エニグマヤンキー)維持する役回りを演じ続ける。彼の唯一のペルソナは結局そのユング心理学の言うビーストの面子(エニグマヤンキー)と一体どこが違うのか分からないのだ。ビートたけし(北野武)のビーストの面子(エニグマヤンキー)と唯一のペルソナとの関係である。

5 ここで例を挙げる。(私のカトリックエリート体験とカルトエリート体験)

(※エニグマ=人間関係の産物)
私が外来通院していた千葉大学医学部附属病院では、ビーストの面子(エニグマヤンキー)と唯一のペルソナの入れ替えが露骨に行われる精神的虐待事件があった。それは、其の患者の唯一としてあったペルソナを一切認めず、それをビーストの面子(エニグマヤンキー)としてしか認識しないという虐待である。全く治療しないのだ。要は自分を病気と自ら認め一生抗精神病薬のお世話になれという治療である。それはただユング心理学の面子(ペルソナ)を受け入れ薬を買えという詐欺師の商売でしか無かった。治す気は全く無いのだ!

国立大医師はナチズムのアーリア人であり、患者は劣等人種のユダヤ人である。その国立大医師は社会的なユング心理学の優生人種の面子(ペルソナ)がある。そして患者には精神疾患の社会的なユング心理学の劣等人種の面子(ペルソナ)がある。

千葉大学附属病院の医師は患者に「精神疾患の社会的なユング心理学の面子(ペルソナ)」を強要するパワーハラスメントをする。それは社会的な立場を利用したパワーハラスメントであり、セクシャルハラスメントであり、モラルハラスメントである。こういったことは総じて社会的立場を利用したパワーハラスメントによって行なわれると言ってよいだろう。

要はユング心理学のビーストの面子(エニグマヤンキー)によるパワーハラスメントである。

それはカトリック医学を攻撃するカルト医学の存在の証拠だった。

6 ビートたけし(北野武)はどうだろうか?

(※エニグマ=人間関係の産物)
彼には社会的なパワーハラスメントであるユング心理学のビーストの面子(エニグマヤンキー)は確認できる。ビートたけし(北野武)は「世界の北野」と呼ばれるようになった。また青木功も「世界の青木」と言われるようになった。何故彼らは世界のプロテスタントデマゴーグとされたのだろうか?それはパワーハラスメントのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を容認する人間関係が普遍社会信仰(カトリックエリート)ではない。そして普遍社会信仰(カトリックエリート)とはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を認識し嫌悪し殺すのが普遍社会信仰(カトリックエリート)である。それがユダヤ国家の発生であり普遍社会信仰(カトリックエリート)の原型である。普遍社会信仰(カトリックエリート)とはダビデとしてあるのだ。

しかしビートたけし(北野武)の世界的映画賞受賞は彼を「世界の北野」にした。それはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を容認する人間関係の産物のお約束としてある国際関係(カルト)の産物のお約束である。

私は拓殖大学の一般教養の国際関係論(カルト論)の講義を受講したが国際金融商品(カルト商品)に《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を感じた。私がそのように教授に指摘すると何故か動揺した素振りを見せた。私は英米語学科であり、その教授は経済学部の教授で大手銀行出身だった。国際金融商品(カルト商品)のINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉が代表しているように国際関係論(カルト論)はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を容認する国際関係(カルト)としてあるのだ。それは国際社会(カトリックエリート)ではなくINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を容認する国際関係(カルト)でしか無いのだ。国際社会(カトリックエリート)は国際関係(カルト)とは違うのだ。

ビートたけし(北野武)の世界的映画賞受賞は国際社会(カトリックエリート)ではなく国際関係(カルト)のINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の容認としてあるのだ。世界とは国際関係(カルト)ではなく国際社会(カトリックエリート)を意味する。世界とは普遍性としてあるからだ。世界はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を認識し嫌悪し殺す。それが世界である。

コスモポリタニズム
cosmopolitanism
語源的にはギリシア語の kosmos(宇宙,世界)と politēs(市民)との合成語で,人類全体を一つの世界の市民とみなす立場をいう。日本では「世界市民主義」あるいは「世界主義」ともいう。このような考えはすでに古代ギリシアのキュニコス派にみられ,アレクサンドロス大王の世界制覇も,帝国主義的動機があったにしろ,部分的にはこの理念の実現を目指したものであった。神の前における人類の平等を説いたキリスト教が急速に伝播したのも,この理念ゆえである。近世のヒューマニズムやカントの人類共同体の理念もこの一例であり,平等,自由を掲げたフランス革命もこの理念と結びついていた。 19世紀以降,特にマルクス主義ではインターナショナリズムと区別され,伝統を無視したものと批判されている。 20世紀にみられる世界連邦主義はコスモポリタニズムの現代的形態である。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉である北野武が世界を名乗る事自体がINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉行為である。彼を「世界の北野」と称する事自体がINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉容認の人間関係でしかなく悪魔主義でしかないのだ。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉な戦争商売人でありINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉な国際金融商品(カルト商品)なのだ。映画産業もINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉な娯楽産業でしか無いのだ。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を殺すのが本来の娯楽である。

7 カトリックエリートのエンターテインメントは旧約聖書サムエル記「ダビデとゴリアテ」(聖痕の徴の受肉)としてあるのだ。

ダビデがゴリアテの首を切り落としとどめを刺したシーンである。
ダビデとゴリアテの戦いのシーン
イサクの犠牲 ヤハウェイの神への絶対的服従

(※エニグマ=人間関係の産物)
それは純愛となる。 何故イサクを犠牲として純愛なのか? それは唯一のペルソナは人間関係に於ける面子(エニグマヤンキー)とは違っていることから来ている。 唯一のペルソナは唯一の純愛となりプロテスタントデマゴーグの面子(エニグマヤンキー)は売女の面子(エニグマヤンキー)となるからである。

旧約聖書創世記イサクの犠牲
売女の面子(ヤンキーのエニグマ)が純愛信仰を持つ。

(※エニグマ=人間関係の産物)それは唯一のペルソナの唯一の純愛はロゴス感覚のカトリック純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉)を持つことです。 では売女の面子(エニグマヤンキー)とは? それは信仰を貶めて否定してあるINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の劣等感覚を誇る傲慢感覚です。 堕天使ルシフェルのサタン崇拝とも言うでしょう。 ハンナ・アーレントに言わせれば「悪の陳腐さ」と言うかもしれません。

売女の面子(エニグマヤンキー)として生きるマグダラのマリアのロゴス感覚のカトリック純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉)

世界的映画賞受賞で彼にあると思われたカトリックエリートとの関係としてある唯一のペルソナはどうだろうか?それが真の純愛である筈だった。それが評価された筈だったのだ。

HANA-BI(1998年)におけるビーストの面子(エニグマヤンキー)の世界の中で最後のビートたけし(北野武)と岸本加世子の愛となって映画は終わった。

あれは何だったのか?

ビートたけし(北野武)と岸本加世子の愛は、結局はビースト的な愛でしか無かったのだ。要はこの関係がINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を認識し嫌悪してある社会性としての純愛であるのか?

もしそうならキリスト教神学の粋に達している。またフロイト精神分析の内容となる。それともユング心理学を前提にしたINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を容認した人間関係でしか無いのか?

人間関係の癒しのシーンでしか無い。それはカトリックエリートの癒しのシーンでは無いのだ。キャバクラと風俗嬢とソープ嬢モモコである。それはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉ではないですか?それは純愛ですか?あなたはどう思いますか?INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉に傷ついたプロテスタントデマゴーグへの「プロテスタントデマゴーグの癒し」のシーンとも言える。すべてがデマゴギーの産物なのだ!

北野武映画にはキリスト教神学とフロイト精神分析のペルソナの救済の「愛」は確認できない。ではこのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の癒しのシーンは何だろうか?ロゴス感覚(カトリックメッセージ)の信仰からの「純愛」ではなく、INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉な人間関係の癒しとしてある。

8 「純愛」と「癒し」は何が違うのか?

(※エニグマ=人間関係の産物)
カトリックエリートとの関係は唯一性である。それが純愛である。しかし「癒し」はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉である。幾らでも捏造可能なのだ。それはカトリックエリートが「至高の抽象化の高み」であるのに対し「多神教」が「原始的段階」に近い「呪術崇拝・偶像崇拝」であることを示している。人間関係の産物のお約束としてある「癒し」とは何だろうか?それは「純愛」を生贄とする「生贄の論理」としてあるのだ。

例を挙げれば「純愛」と「風俗嬢」の違い

スケープゴードの存在の前提があって成り立つ「癒し」であり、その「癒し」はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉なのだ。面子(エニグマヤンキー)を立てるために他者を生贄にするのだ。それが「ビーストの愛」である。ユング心理学の言う社会関係である人間関係がこの映画の最後のシーンの両者の間にあり、それはユング心理学のイマーゴ(面子(エニグマヤンキー))としての「愛」だった。ユング心理学のイマーゴ(面子(エニグマヤンキー))は「唯一性」の「純愛」ではなく他との比較である人間関係の産物のお約束で成立するイマーゴ(面子(エニグマヤンキー))であるのだ。

それはフロイト精神分析の「唯一性」としてのイマーゴ(ペルソナ)の純愛とは根本的に違うのだ。この映画は「純愛」とはならない。カトリックエリートとプロテスタントデマゴーグの対話における理想としての唯一のイマーゴ(ペルソナ)への純愛こそ真の愛であるのだ。

HANA-BI(1998年)における「ビートたけしと岸本加世子」の関係は人間関係であるユング心理学のビーストの面子(エニグマヤンキー)としての愛の関係だった。それはフロイトの言う唯一のヒューマニズムのペルソナの「純愛」の信仰ではない。

第54回ヴェネツィア国際映画祭では日本映画として『無法松の一生』以来39年ぶりに金獅子賞を受賞したが、結局は彼の潰れた顔による人間関係におけるユング心理学のビーストの面子(エニグマヤンキー)はこの映画賞の社会的権威に拠って維持されることになる。それは所ジョージの「まあだだよ」での抜擢も彼の社会的権威とされたことと同様である。

黒澤明の『まあだだよ』は、黒澤明監督による1993年公開の日本映画。大映が製作し、東宝の配給により公開された。

社会的権威がユング心理学の面子(ペルソナ)であり、それは猿のマウンティングと同様のビースト面子(エニグマヤンキー)となる。そこがフロイトの唯一のヒューマニズムのペルソナの「純愛」の信仰との違いである。

フロイトのペルソナはキリスト教神学のペルソナと同様と言っていいだろう。それが真の純愛なのだ。

9 ではHANA-BI(1998年)とはなんだったのか?

(※エニグマ=人間関係の産物)それはビーストの面子(エニグマヤンキー)を賛美して社会的権威を得た《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》な映画だったのだ。結局は「カトリックエリートの評価」に拠ってあり得た映画賞受賞ではなく「カトリックエリートの評価」を貶め否定することでの「プロテスタントデマゴーグの評価」への媚入りと賛美を正当化するための「受賞」だったのだ。結局、この映画はカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定してプロテスタントデマゴーグの感覚を賛美し個人崇拝のデマゴーグの扇動を正当化した。それがビートたけし(北野武)の映画賞受賞理由だった。

ビートたけし(北野武)の「ヒューマニズムの愛」とは何だったのか?

「プロテスタントデマゴーグのヒューマニズム」と「カトリックエリートのヒューマニズム」の在り方の違いである。「プロテスタントデマゴーグのヒューマニズム」は「ビーストの愛」である。面子(エニグマヤンキー)を立てるために他者を生贄とするからだ。それがユング心理学の愛でありユングのイマーゴである。

しかしペルソナは「隣人愛」と「悔い改め」による普遍社会信仰(カトリックエリート)である。それがフロイト精神分析の愛でありキリスト教神学の愛であるフロイトのイマーゴである。

ロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定することでプロテスタントデマゴーグの愛を扇動したヒューマニズムの正体は「ビーストの扇動」(サタン崇拝)である。愛の扇動を謳いながらカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶めて否定し堕落した「獣としてのプロテスタントデマゴーグを賛美する」のだ。

一方「カトリックエリートのヒューマニズム」は「カトリックエリートの愛」である。ロゴス感覚(カトリックメッセージ)により「カトリックエリートの愛」はあるのだ。それが「隣人愛」と「悔い改め」としての「カトリックエリートのヒューマニズムの愛」である。

※「カトリックエリートの愛」を貶め否定することで「人の愛」を扇動する。

しかし「プロテスタントデマゴーグの愛」の正体とは「カトリックエリートの愛(ロゴス感覚(カトリックメッセージ))」を貶め否定することでINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の存在への賛美であった。其のINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の存在とは堕天使ルシフェルでありサタン崇拝であるのだ。カトリックエリートへの反逆者である。

このように「プロテスタントデマゴーグのヒューマニズム」の映画制作を監督した北野武(ビートたけし)への「個人崇拝とデマゴーグ」の存在へ向けられた映画賞だったのだ。

これはカトリックエリートの評価ではなくカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定したプロテスタントデマゴーグの評価であるのだ。

では映画賞とはカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)ある文化芸術に送られるのではないのだろうか?

世界的映画賞は実はロゴス感覚(カトリックメッセージ)すら理解できない文化芸術を貶め否定する「プロテスタントデマゴーグの評価(下衆の評価)」に拠っている。だから世界の映画賞はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉な存在なのだ。「世界の北野」ではなく「INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の北野」なのだ。

INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を賛美した映画だったのだ。人間関係を社会とする詐術であり、INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を賛美する人間関係讃歌の映画だった。

「ビーストの面子(エニグマヤンキー)の人間関係」に対してマウンティングで媚びいったビートたけし(北野武)は人間関係で権威ある賞を受賞して今のビーストの面子(エニグマヤンキー)を得たのだ。マウンティングで媚びいって得たビーストの面子(エニグマヤンキー)がビートたけしの面子(エニグマヤンキー)である。

ビートたけしに普遍社会信仰(カトリックエリート)はない。

それはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を賛美しているからだ。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を芸術としたのだ。村上隆のオタク芸術である。

「プロテスタントデマゴーグの芸」である。しかし芸術とはロゴス感覚(カトリックメッセージ)のダビデ(カトリックエリート)としてある。ゴリアテ(劣等感覚の逆転を誇る傲慢感覚)を認識し嫌悪し殺すのがカトリックエリート芸術である。

礼拝堂
「カトリックエリート(ルパン)」と「プロテスタントデマゴーグ(カリオストロ伯爵)」「至高の抽象化の高み」と「原始的段階に近い在り方」
バチカン(カトリック)から来た大司教に変装するルパン。クラリスとカリオストロ伯爵とキリスト(救世主)である。宮崎駿の「カリオストロの城」はロゴス感覚(カトリックメッセージ)のダビデ(ルパン)でありこの作品はカトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)である。

10 人間関係の特殊詐欺

(※エニグマ=人間関係の産物)
ビートたけし(北野武)は頭が良いので《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の露悪(INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉)だけでは人気が取れないことを知っている。しかし彼には普遍社会信仰(カトリックエリート)がないので《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を特権的なアーリア(高貴さ)な何かにしてしまう。それが似非芸術だった。

しかしそれは人間関係の特殊詐欺である。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の人間関係を社会主義だと言い張るINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の人間なのだ。ビートたけし(北野武)も人間関係だけなのだ!ダウンタウンも同様だろう。彼らは天才と言われるが露骨に人間関係の社会主義なのだ。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉なだけのお笑い吉本芸人である。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の天才である。

「プロテスタントデマゴーグの芸」なのだ。「カトリックエリートの芸」ではない。

それをINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉の聖域(サンクチュアリ)という。

例えば人の性交は《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の聖域(サンクチュアリ)とされるが、キュニコス派のディオゲネスは人前で女と交わったという。ビートたけし(北野武)は、《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》の聖域(サンクチュアリ)をいうが、それは普遍社会信仰(カトリックエリート)ではない。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を聖域だと言い張るのだ。それはINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を聖域(サンクチュアリ)だと言い張るのと同様である。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉な人間関係を聖域(サンクチュアリ)だと言い張る。

逆から言えばINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を認識し嫌悪する人間関係こそが普遍社会信仰(カトリックエリート)である。《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》と普遍社会信仰(カトリックエリート)の両立が信仰者であるのだ。

ロゴス感覚(カトリックメッセージ)のダビデとして生きることを意味する。

「ロゴス感覚(カトリックメッセージ)の普遍社会信仰(カトリックエリート)」と「人間関係の聖域(サンクチュアリ)」の違いである。

女(男)の股間がロゴス感覚(カトリックメッセージ)か?女(男)の股間が人間関係の聖域(サンクチュアリ)か?

唯一性のペルソナは普遍社会信仰(カトリックエリート)であり、人間関係の面子(エニグマヤンキー)は人間関係の聖域(サンクチュアリ)となる。聖域(サンクチュアリ)を主張しロゴス感覚(カトリックメッセージ)の信仰を貶めることはナチズムである。ロゴス感覚(カトリックメッセージ)を貶め否定して聖域(サンクチュアリ)を据えたのは堕落した存在の賛美の世界構築でしかないのだ。それはオタクの領域だ。フロイトのペルソナはヒューマニズムであり、ユングの面子(エニグマヤンキー)はビーストの人間関係である。

エピローグ 

豊臣秀吉の辞世の句

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

これは「カルトエリート芸術(プロテスタントデマゴーグ)のトリックスター」であり「ビートたけしの思想」である。

織田信長の愛した敦盛

「思へばこの世は常の住み家にあらず草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、滅せぬもののあるべきかこれを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」

これは明らかに「カトリックエリート芸術(カトリックメッセージ)の思想」であり「私の思想」と同じである。ロゴス感覚のカトリック純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉)である。

1 特権階級(カルトエリート)の「治外法権」

端的に言ってキリスト教神学のペルソナとユングの面子(ペルソナ)の違いであり、カトリックエリートに問われる信仰者と《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》と人間関係の面子(エニグマヤンキー)であるアーリア(高貴さ)の在り方が、劣等感覚がアーリア(高貴さ)なのだという絶対的矛盾が特権階級(カルトエリート)の治外法権であったりするのだ。

それは愚民政策として存在する日本サブカルチャーとしてのオタク(カルト)の在り方として認知された感覚である。特権階級(カルトエリート)の治外法権は聖域(サンクチュアリ)でありオタク(カルト)の領域であるのだ。その《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》のアーリア(高貴さ)が特権階級(カルトエリート)の治外法権であってオタク(カルト)の世界なのだ。文化芸術を解さない劣等な存在であるのだ。それはロゴス感覚(カトリックメッセージ)を欠落した堕落した存在のことなのだ。

2 カトリック信仰者の「選民」と「方舟」

その代わりカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)の信仰者の選民思想であり方舟の思想とは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》をカトリックエリートに問われ禁じられるカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)の信仰者にとってカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)の信仰者を救済するメシアの思想である。特権階級の治外法権の聖域とメシアの信仰の絶対的姿勢の違いが《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》においてあるのだ。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉がその相貌に現れるわけではない。ルシフェルの相貌はビーナスの相貌である。しかし其の存在はINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉であり劣等感覚が威張る傲慢感覚の極みである。

3 萩尾望都の「トーマの心臓」は「カトリックエリートのキリスト教神学」である。

萩尾望都の傑作である「トーマの心臓」には「ルネッサンスとヒューマニズム」という本が図書室の蔵書の一冊として登場する。私は国立国会図書館で探したが其の様な本は確認できなかった。しかしそれは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を認識し嫌悪する純愛の信仰としてあるのだ。それは《INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉》を認識し嫌悪することで真に人を愛するヒューマニズムである。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を嫌悪して真のカトリック(ペルソナ)を純愛するのだ。それがカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)の信仰である。

しかしINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を崇拝するのがアーリア(高貴な神)である。INNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を唯一の神が問い関係するのが純愛の信仰であり救済のアートである。この萩尾望都の傑作作品は純愛の信仰としてのペルソナを描いている。これはキリスト教カトリック神学の傑作であるのだ。

私はこの作品を読むとある人を思い出す。彼女は僕のトーマだったのだろうかと考えてしまうのだ。しかし僕にはユリスモールのようにトーマからの手紙は届いていない。だから僕は確信が全く無いのだ。しかし新聞休刊日の翌日の死亡欄は僕に彼女の死を知らせた。それは意図的なものだったのだろうか?そこに書いてある情報は何かを知らせているが謎(聖痕)が多いのだ。ただこれが「トーマの心臓」としてあった死ならそれはキリスト教カトリック神学としての純愛だったのだ。カトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)としての聖痕が其処にあると私は感じるのだ。彼女の純愛のヒューマニズムである。人間関係は純愛があれば理想社会となる。彼女のことは忘れたことはない。

「トーマの心臓」の名シーン

トーマ・ヴェルナーは死す。 しかし其の聖痕の徴としてエーリック・フリューリンクがユリスモール・バイハンの前に顕れる。 そしてユリスモール・バイハンにトーマ・ヴェルナーのカトリックエリートのロゴス感覚(聖痕の徴の純愛〈カトリックメセージ〉)が受肉するのだ。

4 トーマ・ヴェルナーの純愛

イクテュスはギリシャ語で「魚」という意味を持つが、同時にΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字を並べたものでもある。 カトリックエリート

僕が彼女にとってユリスモール・バイハンではなかったとしても彼女は僕にとってトーマ・ヴェルナーの純愛の存在に思えた。そして僕の人生において彼女の存在はユリスモール・バイハンにとってのトーマ・ヴェルナーの存在のように僕のカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を揺るぎないものとした。そして彼女は「揺るぎない者」として存在し永遠に生き続ける。彼女の死が「永遠の純愛」となって僕を救った。まるで「ト―マの心臓」なのだ。何故なら彼女の「純愛の殉教」以上のものがこの世に存在しないからだ。それ以上のペルソナがこの世に存在しない。僕には彼女がトーマ・ヴェルナーにしか見えないが、しかし僕に届いたのは新聞休刊日の翌日に届いた朝日新聞の死亡欄記事だけだったのだ。ただ僕は聖痕を感じるだけだ。プロテスタントデマゴーグのINNOCENT〈傲慢の大罪〉〈欲望の美化〉を感じることはカトリックエリートのロゴス感覚(カトリックメッセージ)を感じることでもあるのだ。萩尾望都の描く〈ペルソナ〉はカトリックエリートのロゴス感覚のカトリック純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉)の「永遠の命」の〈ペルソナ〉である。

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