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間違えることを学ぶ

僕は、年の離れた姉(11歳上)がおり、18歳から叔父さんをやっています。
お年玉をもらう立場から、あげる立場へ。
今年もかわいい甥っ子・姪っ子たちへお年玉を渡しました。
「#お年玉どうする」というnoteのお題をお借りして、僕の願いを書いてみたいと思います。

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僕の家は、親戚が多く、お正月にはよく集まっていたので色んな大人たちからお年玉をいただいていました。
いくらかは手元に残して好きなものを買ったりしていましたが、額としては「貯金」が多かったと記憶しています。
もちろん、「貯金」もお金の使い方の一つであり、悪いことではありません。
でも、「お金の使い方」を学校で具体的に習う機会ってなかったと思います。
「お金の稼ぎ方」もです。
だとしたら、「お年玉」をつかって「お金の使い方」を学ぶ機会にしてみるのもいいんじゃないかな、と思ったりします。

手元にはいくらお年玉があるか。
どんなものが、どうなるために、いつまでに欲しいか。
そのためにお金をどう使う、使わないか。
次にお金が増えるのはいつか。
お金を増やしてみる方法はないか。

みたいなことを考えて、自分で決めて、自分でやってみる。
そんなきっかけを作れるのが「お年玉」かもしれません。

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そして、ここからは僕の個人的な願いです。
「お年玉を使ってお金の使い方を学ぶ」に限らず、何かを学ぶときには、

何度でも間違えていい

ということを知っていってほしいな、と願っています。
「次は成功するために、間違えを経験しよう」というのも大事な事だと思います。
けれど、「間違えるための間違い」があってもいいと思います。
人生は、「間違えないため」のものではありません。
「何度でも許されていい」と思うことは、
「何度間違えても、大丈夫。」
「間違えもあると思って進む人生には希望がある。」

そう信じること、とも言えるんじゃないかと思います。

小学3年生の姪っ子と一緒に宿題をやるとき、答えにつまる問題を前にすると彼女は黙り込んでしまいます。
僕が勝手に感じていることですが、「間違えることは、恥ずかしいこと」という思い込みを持っているのではないか、と感じます。
間違えるは、恥ずかしいこと。
そういう思い込みって、年を重ねる過程で意外と簡単に、知らず知らずのうちに身に付いてしまうものかもしれません。
間違えたら、怒られる。
間違えたら、笑われる。
敏感な心にはそういうことがものすごく刻まれて、「間違えることは、恥ずかしいこと」という思い込みが生まれてしまいます。
そして、そこから「間違えないように何かをする」とか「間違えたくないから何もしない」という態度になってしまうのでは、とても寂しいことだと僕は思います。
間違えて恥ずかしい思いをすることもあるかもしれないけれど、間違えのない人生を送ることが大事なのではありません。
恥ずかしい思いをするかもしれない。
けれど、何度でも間違えながら、
間違えても大丈夫」
「間違えてもまた歩き出せる」
「間違えて、許すことができる」

そんな風に、心を無限大に広げて生きていけることを学んでほしいと願っています。

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お年玉も、自分で考えて、自分で決めて、自分で使ってみる。
間違えた、と後悔することもあるかもしれないけれど、
間違えるための間違いがあってもいい、と僕は思います。


成功のために間違いを経験することも大切だけれど、
何度でも間違えていいんだ、ということを腹落ちして生きていくために、間違える経験があってもいい。
間違えることって、落ち込むことももちろんあるけれど、大したことないよ。
間違えないことより、間違えを許し合えることが生き抜くパワーになるから。
間違えを恐れて何もしない道を選ぶこともできる。
だけど、間違えもあると思って歩む方が、きっと軽やかに希望を持って歩んでいける。
子どもたちよ、間違えよう。
大人たちも、間違えよう。

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