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勝浦・色川の旅【2】ー勝浦駅までのハイエースの中でー

勝浦・色川の旅【0】
登場する場所と本

勝浦・色川の旅【1】
色川での日記

勝浦駅までのハイエースの中で

今日は本当に気持ちのいい日。
時間がギリギリになってしまって、早歩きでバス停まで来たらもうポカポカだ。
行きとは違う運転手さん。
先客がお一人。

何を聞きたかったのか。
聞きたいことの半分も聞けなかったのかもしれない。
それでも、色川に来て良かったと思う。
体験が全てとは思わなくなったけれど、体験しなければ得られないものは確かにある。
ハヤシライスとコーヒーをいただいた。

3名の常連さん、帰りにはもうひと組のペアが楽しんでいた。
「自分の生を営んでいる」
当たり前だけど、当たり前ではない、そのことを感じられる空間だった。
聞きたいと思っていたことなどなかったのかもしれないと思うのは、あまりに強情か。
何かを聞くためにここへ来たのではなく、今日を過ごすためにここへ来た。
もしかすると、それらはどちらも同じことなのかもしれない。

「本を出してから具体的な話ができる人が増えてきた」とおっしゃっていた。
iPhoneに「何屋?」とメモしていたと思うが、何屋と掲げるまでのことでなくとも、ポートフォリオみたいなものがあると繋がっていくものがあるのかもしれない。
岡崎のアングルさんの話が出たのも面白かった。

細い木たちの横を過ぎる。
森のお話もしてくださった。
人工林。
棚田だった土地に木を植え、補助金が出て、それをもらった人の行方が知れず、整備しようにもどう手をつけて良いのかわかならいという話もあるよう。
何のために植えて、どうしてお金が出たかはわからないけれど、放置していることで首が閉まるのは人間だ。
植物は強かな生命力を持っている。
喫茶室の本棚に置いてきた本が誰かにとってのお守りになってくれたらうれしいなと思う。

君たちはどう生きるか。
それを考えるための道具の違いのお話もあった。
考えるための道具はどこにあるのか、ということだと思う。
今あるものの中から選ぶのか、そうではないところにあるのか。
どちらの方が偉いと言える話ではない。
しかし、「どう生きるか」を自分の外側の枠組みだけに見つけようとしても見つかるものではない気がする。
外側に何か見つけようとすることが悪いわけではないし、そこからヒントを得ることはできるのだろうが、自分に由ってこそ見える、見えてくるものがあるのだと思う。

ハイエースに揺られながら酔ってしまったようで、今日の宿にて書き続けている。
帰りの道中では、行きにも乗り合わせたおじいちゃんが乗ってはまた先に降りていった。
おじいちゃんが乗った少し先の停留所では、おばあちゃんが運転手さんに差し入れ。
「おおきに、すまんよ」と言って受け取る運転手さん。
ここは関西弁なのだな、と思う。
でも、大阪や兵庫のそれよりも優しい感じがする。

バスから降りてすぐの観光案内所で今日の宿の場所を尋ねる。
線路を渡りすぐの場所だった。
チェックインのとき、近くの飲食店なども丁寧に案内してくれた。
紹介の宿ということもあって詳しく調べずに予約したが、温泉もあるようで楽しみだ。

こうして机にPCを置いて書き始めると、また文章が変わっていくように感じる。
ここまで書いた文章は、もう二度と書けない。
ワードでは、保存したってまた書き直すことができるけれど、多分積み上げるってそういうことじゃない。
過去を上書きするのではなく、過去を過去のまま置いておくこと。
間違えることだってあるかもしれないし、間違わない人なんていないと思う。
だからこそ、積み上げる、過去を過去のまま置いていくということは覚悟のいることだと思う。
でも、そうした緊張感の中から生まれるものがあるのだろう。

自分は何を聞きたかったのだろうかと、充電を始めたiPhoneのメモを開いてみる。
自分は何を怖れているのだろう。
違うことをしないこと。
そうしたら、自分には何も残らない気がしてしまう。
違うことだけをして生きている自分を知ることが怖い­のかもしれない。
「自分の生を営んでいる」
その空間は決して一人ぼっちではなかった。

違うことをしないために生きているのではない、という自分の声が聞こえる。
違うことをしないこと。
そうテーマを掲げたこと。
それは、違うことを絶対にしてはいけないと自分を縛ることではない。
違うと感じるセンサーを手放さないという誓いだ。

どう生きるか。
そこに興味を持ってはいるが、実態がないのだと思う。
生きることに実態があるかどうかなんてわからないことだけれど。
実態、活動、ポートフォリオ。
そういったものに縋りたい気持ちが湧く。
きっとそれは、自分のためかもしれないけれど、自分だけのためになるものではないとも思う。

日々、何をしているのか。
「生きるために生きていくの」
という歌詞を思い出す。

何かを残すことに意味なんてないのかもしれない。
でも、その積み重なりで今を感じられているのだとしたら。
「そうした人々の少しずついいことが積み重なって今の世のなかをつくっているのだ」としたら。
僕はいいことを残したいと思うし、違うことをしないセンサーだって持ち続けたい。
意味を求める必要なんてないのかもしれない。
意味が欲しくてその場で足踏みしていれば、ただ視野が狭くなるだけだろう。
動くからこそ、自分の中にも外にも意味が生まれてくるのだと思う。
意味を先に欲しすぎない。

予約した温泉の時間もあるので、そろそろ食事へ出る。

【3】面白い形の岩の上での日記

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