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傷、という言葉から考えた「他者と共に生きること」について。

傷、という言葉が最近は頭の中をまわっています。
そして、昨日こんな記事を見つけました。

記事の中に、「メディアの暴力性」という言葉が出てきます。

メディア
送り手のメッセージを受け手に伝達する媒介物

広告用語辞典

一点の曇りもない、鏡のようなメディアがあったとしたなら、それは誰かを傷つけるでしょうか?
メディアの暴力性、とは「メディアという媒介物を通すことによって生み出される暴力」のことかな、と思いました。
暴力性という言葉は、色んなものにくっつきます。
逆に、暴力性がくっつかない言葉はあるのでしょうか?

山中さんの記事には、

なにしろ、名乗ってしまえば誰でもライターになれる時代なのだ。たとえるなら、免許をとらなくても車で公道を走れる。そんな時代。

だからこそ世の中にたくさんのコンテンツが生まれているのだし、そんな時代じゃなかったら僕は文筆業ができていなかったわけだから、「こんな時代さいあく!」とすべて否定したいわけじゃない。

だけど、あぶなくないですか? そこらをビュンビュン走ってる車が、実は無免許なんて。誰でもライターになれる時代に、その人たちがメディアがときに人を傷つける、という危うさについて無頓着なんて。

とあります。
「人を傷つける、という危うさに無頓着」。
それは確かに、あぶない気がします。
車の話でいくと、免許を持っていても事故を起こす可能性は誰しもが持ち合わせています。
誰かを傷つけるかもしれない、という自覚を忘れないことがメディアを楽しむため、他者と共に生きていくために大切なことではないか、と感じました。

僕は、「誰のことも傷つけない」、そう信じていることはおこがましいことだと思っています。
誰かを傷つけたいと思うはずもないけれど、誰かを傷つけている可能性を持ちながら生きているのだな、と思います。
傷つけたくないけれど、傷つけるかもしれない。
その矛盾は自分を制限するように聞こえるけれど、そのすべてを学びとすることはできます。
自分の学びの為に誰かを傷つけるとか、どんなに気を付けても傷つけてしまうのだから誰を傷つけたっていい、といった傲慢さ・諦めを抱くことは違うと思います。
傷つけたくないから何もしない、と無関心でいることも寂しすぎます。

他者とは、分からなすぎる存在です。
生まれた場所や年齢が違う他者のこと、そういう違いがなくとも、同じ場所にいる隣の誰かのことだって僕には分かりません。
分からないから、「知りたい」とも思うのです。
「知りたい」と思って取った言動が、他者を傷つけてしまうかもしれない。
僕は自分の無知で誰かを傷つけてしまうかもしれない。
やっぱり、誰かを傷つけてしまうのは恐ろしくて、何もできなくなるほど足がすくむかもしれません。
けれど、「無知の知」という自覚があれば、「謙虚な姿勢」があれば、きっと大丈夫。
傷つけてしまったことは、自分のための学びだけではなく、他者と共に生きていくための学びとなってくれます。

他者と共に生きていくこと。
それは、ときに誰かを傷つけること、困難な場面だってあることかもしれません。
けれど、そこから生まれる喜びは無限大です。
「無知の知」
「誰かを傷つけてしまうかもしれないことを忘れずにいること」
「そこから生まれる謙虚さ」
「知りたい、という気持ち」
これらを抱き、学び続けたいと思います。



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