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「自分の感受性くらい」が好き

ヘラヘラせずにいたことで得たものへの罪悪感

というものを感じた。

今までヘラヘラとやり過ごすことが多かったように思う。
余計なお世話だよ、と思うようなことを言われても「そうかもしれないですねー」とか言って、波風立てないようにやり過ごす。
それで得られたものもあるかもしれない、と自分を正当化しようとしてみても、丁寧に振り返ってみれば、そんなものはない。
表面上の穏やかさ、自分の心を犠牲にして得た穏やかさなんて虚しいだけだ。

最近、ヘラヘラしない態度をとってみたことがある。
そうしたら、相手の態度が変わった。
そこで感じたのが最初に書いた「罪悪感」だった。
それは、「自分がヘラヘラしないことで、他の人へ矢の向かう先が変わっただけなのではないか」と感じたから。

ヘラヘラするって、どんなことだろう。

余計なお世話だよ、と思うようなことを言われても「そうかもしれないですねー」と言う。
そこには、「相手を怒らせると面倒臭いことになる」という予想が立っている。
周りの目を気にして、自分の心とは裏腹な態度を取る。

生きていると、色々な目に触れる。
色々な目が触れてくる。
それは自分の心、態度に影響してくるものだけど、自分の感受性は守れる自分でありたい。

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

自分の感受性くらい/茨木のり子

自分の感受性は自分で守ることができる。
そう思う。
でも、守らせないようにしてくる周りの目もある。
だからこそ「自分で守る」という意志が大事だと思うし、そして「自分で安心して守れる」という時代をつくりたい

自分の感受性を自分で守ることは、単純に楽しいことだと思う。
先に「ヘラヘラしない態度をとってみた」と書いたが、それは「相手に自分の手綱たづなを握らせない」ということだ。
主体的な選択、自分自身での決断は、人生をいきいきとさせる。
誰も自分の人生を生きてはくれない。
自分の感受性、受け取っているものを大切にして、そこから生まれるものを表してみる。
ポジティブなもの、ネガティブなもの、なんでも。
人目に触れるところでも、自分だけが見える場所でも、どこでも。
できることからやってみよう。
そのシンプルなことが、「自分の感受性を自分で守る」という楽しさへ繋がっているから。

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