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有機体哲学と微生物学


〈有機体の哲学〉と呼ばれた、科学哲学の著書を書いた人がいる。現代の日本では、「難解」とか「抽象的すぎる」ということで、ほとんどの学者や研究者の多くから、未だに敬遠されている科学哲学者だ。アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドである。

システム論、生命論、有機体の哲学

正直私でも「過程と実在」を何年も前に読んだ際は今一つピンとこなかった。ただ、後で調べてみたら「一般システム理論」で有名なルートヴィッヒ・フォン・ベルタランフィジオデシック・ドームで有名なリチャード・バックミンスター・フラーや、文化人類学者であり、サイバネティストのグレゴリー・ベイトソン、あと暗黙知で有名な科学哲学者のマイケル・ポランニーも私淑してたとわかった(特にポランニーの著書の参考文献にホワイトヘッドが多いのは、同じイギリスで交流があったせいかも)。これらの著者は若い頃良く読んだ。

「過程と実在」は日本語訳で読むと、本来の英語でのスペルの隠喩性とか繋がりとか連想性が見えにくくなるらしく、容易に読むことはお勧めしない。
まあそれでも、中村昇「ホワイトヘッドの哲学」といった入門書もあるので参考にされたし。それ以上に深堀りしたい人は、松岡正剛氏の千夜千冊の第995夜に解説も書かれているので、お勧めしたい。

そんな私でもホワイトヘッドの「延長的抽象化」(extensive abstruction)という方法論には長くは疑問を思っていた。もっと具体的に語るべきではないか、形而上学的にすることが、どこか「宗教」ではないかと疑いを持っていた。しかし、最近どうも違うのではないか、being(生命)とbecoming(なる、生成)の境界は実は最近危うく、かつ自己の定義もあいまいかつ恣意的なものに過ぎないのではないか、そういう思いが生まれた。

理由は微生物学を調べてしばらくしてからだ。色々な著書を読みまくったので、全てを紹介することは無理だが、お勧めなのは、アランナ・コリン「あなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめた」だろう。<自己>と呼ばれるものも、実は広大な無意識の後付けの意識も単なる傍観者に過ぎないという確信が得られたのも大きい。デイヴィッド・イーグルマン「あなたの知らない脳──意識は傍観者である」を読むと、自己と生命の<境界>が実はあやふやなものであることを考えざるを得なくなる。

ちなみに、マイケル・ポランニーも生命の<境界>性に関してはかなり独特な生命論を持っていたので、「暗黙知の次元」や「個人的知識―脱批判哲学をめざして」でもその辺の議論が良かった。でも先駆者としてはベルタランフィの「一般システム理論――その基礎・発展・応用」がいるし、アーサー・ケストラーも「ホロン革命 —部分と全体のダイナミクス」も階層性や境界性を生命論やシステム論に取り込んでいる。


これらの生命システム論をもっと「具体的」に追及したい方は、微生物学を研究されることをお勧めしたい。理由はウイルスや微生物が存在しなければ、視界に入る動物にしても、植物にしても生存することは「不可能」であることが知れるからだ。全ての生命は繋がって〈共生〉しているのだ。

オーガニック(有機:organic)について

最近、オーガニックと言えば有機栽培とかオーガニック食品といった、農薬や化学肥料に頼らず、環境への負荷をできる限り少なくする方法で生産される有機農産物と有機畜産物、それらを原料にした有機加工食品のことをよく差す。

けれど、生命論としての有機体(organism)を扱う哲学は、ホワイトヘッドが欧米では初めてだったことは、かなり忘れられている様だ。

有機栽培も、確かに土壌に生存する微生物の菌根層やその共生を利用している点では共通しているが、同様のことは動物にも言えることである。デイヴィッド・モントゴメリーとアン・ビクレー「土と内臓(微生物がつくる世界)」で述べているのは、土の細菌叢と腸内細菌叢(腸内フローラ)は比喩的にでなく具体的に「繋がっている」と喝破した本である。これはホワイトヘッドの哲学で特徴的なのは、欧米哲学でありがちな、概念を分割(devision)するだけではなく、結合する(nexus)や連結的(connected)、合生(concrescence)、「抱握」(prehension)といった用語で切り離さずに関係性を持たせることを執拗に探ったことでそれがわかる。


大半の微生物やウイルスは「ニッチ」な戦略で生き残った存在が大半を占めている。地球上で微生物やウイルスがいない場所など恐らくはほぼ「無い」とも言われている。地底300mのマグマ含有の中にも微生物が発見されている(朝日新聞記事)。深海という極限の世界にも微生物が存在している発見もされている(参照:「深海ー極限の世界」)。

私は、正直「形而上学」は好かない。けれど、ホワイトヘッドは当時にして数学者として始まり、物理学や化学にも精通していたせいで、晩年は科学哲学者として「観念の冒険」や「科学と近代世界」、「過程と実在」といった本を書いた。抽象的すぎる、難解と当時から現代にいたるも言われ続けているが、どうもホワイトヘッドが活動していた時代(1861年(南北戦争時代、日本では幕末)から1947年(昭和22年)に没)では、まだ世間では微生物、ウイルスがこれほど多様かつ全世界に席巻していることは考えられていなかった。


有機体から微生物、生命とされないウイルスまで拡大できる哲学は有りうるのか?

微生物の発見にしても、ルイ・パスツールが腐敗や発酵の論文を書いたのが1861年であり、近代細菌学の開祖と呼ばれたロベルト・コッホが炭疽菌の培養に成功したのが1876年だ。これ以後飛躍的に細菌が発見され医療が爆発的に発展していく。けれど、一般の人にはまだまだ微生物は目に見えておらず、ウイルスについても電子顕微鏡によって可視化されたのが、ようやく1935年ことである。もしホワイトヘッドが微生物やウイルスを含めた、生命圏哲学を目論んだらさぞかし面白いことになったに違いない。

ホワイトヘッドの哲学は仏教で言うところの「縁起」に近いところもある。また、「抱握」(prehension)という言い方も哲学は「方法論」に過ぎないと、以前noteに書いたことがあるが、哲学を見方として「掴む」、「フィーリングを捉える」とすると見えてくるところもある。ただ、やはり当時の科学では抽象化が過ぎる。実践として生物学を取り込んでホワイトヘッドの先見性を調べてみると、西欧の哲学や観念が分割や分裂に囚われすぎていることが明確だ。〈観念〉の弊害である。清潔にしすぎて却って新たな感染症になったり、古来からの発酵食を避けることで、古来の腸内細菌叢を失い、免疫不全になるケースがとかく欧米諸国で目立つ。

免疫に関しても、微生物やウイルスに通時にどれだけ抗体「暴露」されているかで、感染に対して免疫力があるかに違いが生まれる。発酵食を勧めるのは、体内の有益な微生物に、外部からの害のある微生物やウイルスに対して「犠牲」になってもらったり、排除したり、共生出来る様「変異」したりする土壌を生み出しやすい。要は「敵の敵が味方になる」世界が微生物やウイルスの世界には、厳然とあるとだけは言える。

従って、清潔と不潔の境界線もまだまだあいまいではあるし、はたまた生命の定義もどこまでを<境界>にするべきかは、議論の未だに分かれるところである。ウイルスにしても、自ら分裂出来ないから「生命」と定義出来ないとする議論が根強い。しかし、そういう「境界線」を意図的に設ける企てに、西欧哲学の<観念>の欠陥が潜んでいると思われる。

とまあ、色々書いてみたけれど、単なる一個人が本を渉猟してみた「雑感」に過ぎないと思う人も多いかもしれません。けれど、これらの著書を読むと生命の<境界>というのは全世界にまで見えない「縁起」があると考えると仏教になってしまうが、因果論とするには私はまだ及び腰なので、この辺で止めておくが、こういう本を一度当たってみることはお勧めしておきたい。

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